58 ホームドラマ
森野家を訪れたのは、その週半ばの祝日のことだった。
アヤの勉強を見ていることはカナにも知られていた。いまさら市川家まで歩いて来てもらうのも無駄が多いと思い、知佳の方から出向くことにしたのだ。
川の流れに逆らって北上し、区域の西へ。昭和の雰囲気が残る町へ。青い瓦と白い漆喰壁の一軒家へ。カナの家へ。
家の前で自転車を止め、チャイムを押した。屋外には音が聞こえない。壊れているのだろうか。不安になってきたところで、引き戸の磨りガラスの向こうに小さな影が現れた。がらがらと、戸を横に開く。
知佳を出迎えたのは、十歳くらいの少年だった。くりっとした目の、活発そうな少年だ。
「あー、姉ちゃんのセンセイだ。そうだろ? わかるんだぜ」
すぐに大声で姉たちを呼ぶ。
「何々? 噂の市川センセイが来てるの?」
次に顔を出したのは、やはり同じ髪色の中学生くらいの少女だ。三女のニコだろう。よく見ると、その背後から小さい女の子がこちらを覗き込んでいた。末っ子のノンことノヴァだろう。
「うるさくてごめんなさい」
アヤは階段を駆けるようにして降りてきた。
「ほら、いつまでもじろじろ見てないの。失礼でしょ」
そう言って、下の兄弟たちを追い払う。
「二階に上がってください。あたし、コーヒーとか用意するので」
言われた通りにする。急な段差の階段を上って二階に上がると、狭い廊下にドアがいくつか並んでいた。そのうちのひとつから、カナの声がする。
「うるさかったろ」
カナは部屋に知佳を招くと言った。部屋着なのだろう、丸襟のワンピースの上にダボッとしたカーディガンを羽織っている。二つ結びにした髪型も相俟って、普段よりガーリーな雰囲気だ。小さい座椅子に膝を抱えて座っている。
「まあ、でもハルさえ遊びに出かけてりゃ意外と静かなんだ。勉強が手につかないってほどでもない」
「おじさんとかおばさんは?」
「二人とも休日出勤。ちなみに叔父さんはいるぞ」
何のちなみになのかわからない。
「漫画好きのおじさん?」
「ああ。何せそれくらいしかできることがないもんだからな」
「働いてないの?」
「……まあ、作業所っていうのか? そういうとこには通ってるんだけど――言ってなかったか。脚が悪いんだ」
「ああ、そうなんだ」
そこでアヤが部屋に戻ってきた。トレイを卓袱台の上に置く。
「お姉ちゃん、居座るつもり?」
「出てった方がいいか?」
「別に。静かにしてるならいいけど」
しかし、カナはすごすごと二段ベッドの上に登って行ってしまった。
「じゃあ、はじめようか」
アヤの受験までもう一週間を切っている。
いまはもう最後の追い込みの途中だ。
夢路はあれから接触を図ってこないが、カナ曰く、もうしばらくは様子を見ることにしているらしい。
――知佳のおかげで、アヤでもなんとか受かりそうなレベルになったってことだ。
受験はアヤに任せるということだろう。
実際のところ、アヤが受かるかは知佳も確信が持てない。彼女が大一番に強いタイプであることを願うしかなかった。
けっきょく、その日は夕方までつきっきりで勉強を見ることになった。
「悪いな」カナは言った。「もうすぐ学年末なのに」
学年末テストは、アヤの入試の翌週からはじまる。そして、テスト期間が終わった後に、合否の発表が出るそうだ。
「そうなんですか」アヤはいま思い至ったという風に言った。「ごめんなさい。あたし、自分のことばっかり。そうですよね。あたし、三年だから学年末は一月にもうやってて、だからてっきり――」
「いいよ。今日も合間合間に自分の勉強してたし」
家を辞そうとすると、一階でカナたちの叔父と鉢合わせた。ひょろっとした神経質そうな男性で、杖を突きながらゆっくりと歩いていた。
「姪っ子たちが世話になってるね」
「いいえ」
「悪い子たちじゃないんだ。ただ、色々と不器用でね。これはうちの家系かもしれないが」
「はあ」
そんなことを話していると、今度は両親が帰ってきた。
すぐそこで一緒になったのだという。叔父は明らかに父方の親戚らしかった。二人はよく似ている。一方、母親の方は子供たちに雰囲気がよく似ていた。小柄で、わずかに緑がかった明かるい目の色をしている。
「ははあ、この子が市川知佳君だな」
父親が言った。
「はじめまして。知佳ちゃん。娘たちがお世話になってるんでしょ?」
母親が手を握ってくる。小さくて、かさかさした手だった。
「悪いね」父親が言った。「本当に。こちとら教える時間も能力もないものだから」
「ね。大学の先生なのにね」
初耳だった。
「ははは、どうせ僕の講義なんて誰も聞いちゃいないからね。たまに波長の合う物好きな生徒が熱心に聞き耳を立てているだけさ。数撃ちゃ当たるだね。アヤには当たらなかったわけだけど」
「カナは教えなくても何でもできちゃうしね」
「ああ、まったく」
「そうでもないと思いますけど」
知佳が言うと、両親は驚いたように目を丸めた。
「カナさんは、困ってないように見せてるだけだと思います。あるいは諦めがいいだけ」
「一理あるな」
叔父が乾いた笑い声を漏らした。
「よかったな、兄さん、義姉さん。カナはどうやらいい友達を持ったらしい」
「そうらしいな」
「ごめんなさい。わたしたちはなかなかあの子のこと見てやれなくて」
「いえ、その」
知佳はしどろもどろになりながら言った。
「こちらこそ変なことを言ってごめんなさい。でも――その、カナさんのこともうちょっと気にかけてもらえると嬉しいです」
「善処するよ」
「カナのこと気にかけてくれてありがとう」
両親は苦笑しながら言った。二人ともくたびれて見える。
「いまは落ち着いているんだがね」
両親が家の奥に消えると、叔父が言った。
「わたしがこの家に居候しはじめる前――、つまり事故で脚がこうなる前はそれはもう慌ただしい家でね。兄さんは大学で助手を掛け持ちしてて、義姉さんもコンビニの店長を任されていた。子供たちも幼かったし、ハルもいまよりずっと暴れん坊だった。それに、うちのおふくろもこの家に住んでててね。女手ひとつでわたしたち兄弟を育ててくれた偉大な母親さ。だけど、その苦労が祟ったのか、還暦を迎える前にボケはじまっちまってね。あれは――大変だったらしい。恥ずかしい話だがね、わたしはおふくろがそうなってから、あまり顔を見せなかったんだ。仕事で県外に住んでいたのもあるし、何よりそんなおふくろを見たくなかった。話が逸れたが、そんな中、おふくろやちびっ子たちの面倒を見て家事をこなしてたのがカナなんだ。もちろん他の子も手伝ってはいたけど――わかるだろ? あの子の負担が一番大きかった。あの子は不平不満も漏らさないし――、それに我慢強く愛情深い。いいお姉ちゃんだよ。兄弟はみんなあの子が大好きなんだ。だから――きっと兄さんたちもそれに甘えてしまったんだろうな。そしてそれに慣れすぎてしまった」
叔父はため息を吐いた。
「さっきも言ったかな。いまはいくらか落ち着いてるんだ。カナもむかしよりは自分の時間を持てている。だけど――あの子も慣れすぎてしまったんだろうな。家にいるときは時間を持て余しているように見える。気づいたらやらなくていい掃除をしていて――他の誰かが代わると自分は部屋で寝てしまうんだ」
「そう――なんですか」
「ああ、だからね、よくわからないけど学校で部活をしてるのはいいことだと思う」叔父はそこでくくっと笑った。「今日の格好、気合いが入ってただろう。いつもはあんな格好はしないんだ。友達が来るから浮き足立ってたのかもな」
カナの格好を思い出す。二つ結びの髪に、ガーリーなカーディガンとワンピース。あれは彼女なりのおめかしだったのかもしれない。
「でも、そうだな。少し前はたまにああいう格好で出掛けることもあったんだ。男ができたんじゃないかって下の子はみんな噂してて、アヤが尾けようとしたこともあった。だけど、一年くらい前かな。急にパタリとそういうことがなくなって――」
その「男」とはきっとユキのことだろう。
「だから、ああいうカナを見るのは久しぶりだったんだ」叔父は言う。「それがちょっと嬉しかったんだ」
だから、ありがとう、と叔父は言った。カナの友達になってくれて。これからも仲良くしてやってくれないか。
知佳は無言で頷き、ようやく森野家を辞した。
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