57 母なる証明

 その日の昼休み、知佳は数学準備室を目指した。

 冨士野に呼ばれていたのだ。


「失礼します」


 そう言いながら入室する。


 冨士野は椅子に座し、ブランケットを肩からかけていた。首にはネックピロー。目にはアイマスク。

 数学準備室を仮眠室にしているらしい。知佳に気づくと、アイマスクを上にずらし、ヘアバンドのようにした状態で話しはじめた。


「今年度も残り数週間となったわけやけど」冨士野は言った。「どや。来れそう?」

「ええ、まあ」

「まあ、二年になればクラス替えもある。授業も選択科目が多なってクラスという単位の結びつきは弱くなるし――編成会議ではもちろん知佳やんの事情も考慮される。だから、もう二、三週だけ耐えてくれる?」

「別に耐えるとか、ないですよ。大丈夫です」

「そ」冨士野は微笑んだ。「まあ、無理はせんようにな。単位さえ落とさんようにすればええよ」それから、こう付け足す。「もちろん、これは知佳やんが今後もうちに通うって前提の話やけど」

「そのつもりですけど」

「かもしれんけど」冨士野は苦笑した。「お母さん来はったんやろ?」

「ええ……まあ」

「聞いたやろうけど、先生も少しお話させてもらったんよ。……お母さんは知佳やんをつれてまた引っ越すつもりらしいね」




 母が市川家を訪ねてきたのは、日曜の昼下がりのことだった。


 ――さあ、知佳。お母さん、迎えに来たんだけど? 急にで悪いけどね、荷物をまとめといてちょうだい。ツテでいい街と物件を見つけてね、そこでまた二人暮らしってわけ。


 知佳は母親似だと言われる。顔や背格好、髪型もよく似ていて、二人で並ぶと年の離れた姉妹のようだと言われることもあった。知佳が母を「心衣こころちゃん」などと呼ぶのだからなおさらだ。

 しかし、会話のテンポはまるで違う。

 母は一度話し出すと止まらない。娘との会話が多い方ではなかったが、話すときは早口で一気に捲し立てる。


 ――あらあら、おもしろいことを言うわね。

 おばさんがのんびり言った。

 ――知佳ちゃんはもううちの子よ。あなたがあの子を手放した時点でね。

 ――いつ手放すなんて言ったの。あの子はわたしの子です。ちょっと預けただけで母親気分にならないでくれる?


 母は喧嘩腰だった。おばさんとは仲がいいと聞いていたのに。


 ――あなたも相変わらずね、心衣こころ。むかしからそう。一人で抱え込んで、一人で勝手に決めて。

 おばさんはため息を吐いた。

 ――少しは知佳ちゃんの立場で考えてみたら? そんなころころと転校させられて、かわいそうじゃない。

 ――しょうがないでしょう。事情が事情なんだから。知佳はまだ十六なんだから、まだわたしが親として見てやらないと。この子、ぼんやりしてて危なっかしいし。

 ――それは同意するけど。でも、支えるならわたしだってできる。あなたは仕事に集中したら?

 ――これ以上、迷惑かけられないでしょ。

 ――迷惑というなら、こうして急に来られることの方が迷惑よ。どうしても気になるっていうなら、今後は知佳ちゃんの生活費でも出してちょうだい。それで十分だから。

 ――知佳はわたしの子なの! そうでしょ、知佳。

 ――でもうちの子よ。


 ――か、母さんもおばさんもどうかしてる。


 割り込んだのは小町だった。話を聞いていたらしく、おかゆを抱いて階段から出てくる。


 ――知佳ちゃんは誰のものでもない。彼女の人生だって彼女のものだ。何も聞かずに全部勝手に決めるのは間違ってる。


 二人の母親は目を丸くした。


 ――でも――


 母は食い下がった。一方、おばさんは娘の剣幕に心動かされたらしく、言う。


 ――そうね。知佳ちゃん、いますぐじゃなくてもいいわ。あなたが決めるといい。あなたにはその権利がある。遠慮することなんてないわ。


 過保護なおばさんらしからぬ言動に少し驚く。しかし、おばさんは最後にこう付け加えた。


 ――もちろん、知佳ちゃんは賢い子だからどちらを選ぶべきかはわかってるでしょうけど。




「それで、知佳やんのいまの心境は?」冨士野は問うた。

「どうせ、どこに行っても同じことの繰り返しでしょう? 過去は消えないんですから」知佳は笑みを作った。「なら、もういいです。こういうことが起こる度、逃げてたら学校なんて通えないですし――それに、この街にも慣れてきたところですから」

「それに友達もできた?」

「そうですね」


 冨士野は微笑んだ。


「ええことやと思うよ。先生も巫女やったからな。あの頃一緒やった子たちとはいまでも連絡取ったりするんよ」

「そういえば、先生が巫女の頃はトラブルとかなかったんですか」

「まあ、それなりに。後輩の子たちが先生を取り合って刃傷沙汰になりかけたりしたくらいやと思うよ」

「それはそれなりどころじゃないですよね」

「もちろん当時は笑いごととちゃうかったよ。先生も若かったし――つくづく美しさは罪やなと思ったもんや。ふふ、懐かしいもんやな。気づけば、あれからもう二〇年以上。いまやあの二人も人の親や。片っぽは知佳やんくらいの娘もおる。他の巫女も先生以外はみんな結婚してもうた」


 冨士野は遠い目をして言った。


「あの頃のことはいい思い出や。でも、先生は選べなかったんや。誰も、何も。ただ心地よい居場所を手に入れて、それを維持することしか考えてへんかった。それが悪いことばかりとも限らんし後悔もしてへんけど、いまでもふと考えてしまうんや。あのとき、何かを選んでたらどうなってたんやろうってな」

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