第四部 異界
56 ゼロ時間へ
超新星爆発が起こる少し前のことだった。
夜になると、操緒がベランダで空を見上げるようになった。
――飛行機でも見てるの?
当時住んでいた街の隣市に空港があった。夜は飛行機の明かりが暗闇でちかちかと瞬いてきれいなのだ。
――星だよ。
――都会じゃ星なんて見えないよ。
――見えるさ。月だって星だし、冬の大三角だって。
――だとしても今日は曇り。何も見えないよ。
――でも、そこにある。なら、感じる。プロキオンやシリウスの白い光、それに――
操緒は指差す。しかし、知佳はモンスターのレベルを上げるのに忙しかった。年末商戦に合わせて発売されたゲームだ。クラスでは男女問わずみんな夢中になってるゲーム。
――変わったよね。お姉ちゃんは。
――その呼び方はやめてって言ってるでしょ、お兄ちゃん。
たった数分生まれたのが早いだけで、姉も弟もない。
――むかしはさ、知佳の方がよく空を見上げてたじゃない。
――またそうやって嘘つく。
――嘘じゃないよ。
操緒は深刻ぶって言った。
――小さい頃、僕が怒られる度誘ってくれたじゃない。空を見上げれば、気持ちが落ち着くって。どこまでも広がる空に思いを馳せれば、暴れたりする暇なんてなくなるって。
――小さいわたしはずいぶんとませてたんだね。
知佳は淡白に言った。モンスターのレベルが上がってたことを知らせる電子音が陽気に響く。
――そうさ。それで、こんなことを言うんだ。空が曇ってたって、建物の中にいたって、空はいつでもそこにあるって。目を閉じれば、感じるって。覚えてない?
――本当にそんなこと言った?
――言ったさ。僕もすぐには意味がわからなかったけどね。だけどいまならなんとなくわかる。心の深い部分に、感じるんだ。目を閉じると、空がある。建物に遮られることなく、どこまでも広がる空が。見渡す限りの水平線に溶けゆく太陽が。無数の流れ星と爆ぜるように輝く星が。この星のはじまりから終わりまでが、見える気がする。
*** ***
「一人で大丈夫だって言ったのに」
バレンタインから一週間経った月曜日の朝だった。あらかじめ連絡があった通り、五條が家まで迎えに来た。
「久しぶりに登校されるということですから」五條は言った。「いちおう訊いておきますが、本当に大丈夫ですか」
「うん」知佳は笑んだ。「単位もそろそろヤバいしね。行こ」
知佳はミニベロに跨がった。五條の赤いクロスバイクと並んで学校を目指す。
稲荷坂に差しかかると、二人は自転車を押して坂を登りはじめた。
「稲荷坂って言うけど」知佳は何も知らない風に言った。「神社でもあったのかな」
「かもしれませんね」五條は答えた。「高台の縁は古来パワースポットとされてきましたから」
言われてみれば、神社の境内には長い階段があるイメージがある。あれは高台の縁にあればこそだろう。
「五條さんってそういうのにも詳しいの?」
「母が好きでして」五條は言った。「ハザードマップってあるでしょう? ああいうのを見ると一目瞭然ですがね、高台というのは地盤がしっかりしていますし、水害も受けづらいわけです」
二人は自転車を押し続ける。坂の上を目指す。
「縄文時代、地球は一度温暖化によって海面が上昇したそうです。このあたりも海に沈んだ時期があったとか」五條は続ける。「その頃の記憶も口伝で伝えられていたのかもしれません。古代の人々もそれを認識していたのでしょう。だから、そうした災害から守られた場所に神様を祀った」
この星には気の遠くなるような年月が流れているのだ、と知佳は思う。
地球の歴史を三六五日とすると、人類の誕生は大晦日の夜だ。
紅白歌合戦が終わり、除夜の鐘が鳴り響くような年の暮れ、一年の終わりにようやく人類は誕生した。
その間に地球の様相は劇的な変化を遂げたはずだ。
微生物の光合成により大気を酸素が満たし、生物が徐々に地上というニッチに進出し、進化の系統樹は枝分かれを続け、大陸は分離し、移動し、火山が爆発し、川が地形を削り、彗星が直撃して粉塵が空を覆い、天変地異により生物相はリセットされ、やがて哺乳類の天下が訪れ、アフリカで誕生した人類の先祖が世界中に散らばり火や道具を発明し、狩りと戦争をはじめ、文明が築かれ、貿易がはじまり、世界はつながり、より大きな戦争が起こり、科学は発展し続け、この星の、宇宙のはじまりへと擬似的なタイムトラベルを試み、世界のはじまりから終わりまでのすべてを知ろうと――
はじまりと終わり――
しかし、それだけではない。
地球は回り続ける。朝の次には夜が、冬の次には春が訪れる。季節は繰り返す。地球は寒冷化と温暖化を繰り返し、海面も昇降を繰り返す。
人間は生まれた瞬間から老いはじめ、自分の遺伝子をばらまき、やがて死を迎える。土に還り、別の生命に生まれ変わる。生命は鎖のように連環し、どこまでもどこまでも続いていく。この星が終わるまで。あるいはこの宇宙が終わるまで。
その鎖の最先端に、無限に続く環の中に、知佳の命がある。
とくん、とくんと脈打つ心臓が。
坂を上りきると、そのまま自転車を押して塀を回り込んだ。校門から冬枯れの桜並木と駐輪場のエリアを抜け、昇降口へと至る。
バレンタインの日、ちょうどいい機会だと思い上履きを持ち帰ったので、下駄箱には何も入っていない。スニーカーを入れると、洗い立ての上履きに履き替え、四階の教室を目指した。
教室の前で、五條はこちらを気遣うような視線を寄越した。知佳は無言で頷く。そして、五條に続いて教室に足を踏み入れた。
少し早いくらいの時間だったが、教室はほぼ満席だった。教室の外まで漏れ出ていた喧騒が一瞬トーンダウンする。知佳に気づいた者から口を閉じ、一瞬視線を向けた後、目を逸らす。そうした反応が波紋のように広がり、不自然な静寂の波が教室を通り過ぎて行った。
「市川さん、おはよう。委員長もね」最初に声をかけてきたのは、犬神だった。
「うん、おはよう」
別の同級生が言う。「グミ食べる?」
「なんで?」
「おいしいよ」
そう言って袋を差し出してくる。本物の果物に近い食感を売りにした、少し高級志向のグミだ。
これは儀式だ、と知佳は思う。写真のことで、いたずらに彼女たちを疑わないと表明する儀式。敵意がないことを示すための儀式。
「あいにくですが、市川さんはいま満腹で――」五條が言いかけたところで、知佳ははグミをひとつ摘まんで口に運んだ。
ぷちっとした食感だ。口の中で葡萄の果汁が弾ける。
「ありがと。おいしい」
教室の空気が弛緩したように思えた。
知佳は自分の席に着く。
窓際に目をやると、蒼衣が手を振ってきた。髪を後ろでまとめているらしい。一瞬、髪をばっさり切ったのかと驚いた。後ろはどうなっているのだろうと思いながら、手を振り返す。
カナは机に顔を突っ伏していた。小さい肩を規則正しく上下させている。
しかし、カナはきっと起きているだろう。そんな気がする。知佳が登校してきたことにも気づいたはずだ。
――長くなったな。寒いだろ? そろそろ帰ろうぜ。
あの後、カナは貯水地の手すりから手を離して言った。自分の手にはあはあと息を吐きかけはじめる。
――知佳にだけは知られたくなかったんだけどな。
――どうして。
――動物、好きだろ。だから、きっといい気をしないと思って。さっきも頭によぎったんだ。知られたら、きっとまた頬に一発もらうだろうなって。あるいはもっとたくさん。
カナはやや上目遣いに知佳を見上げていた。まるで粗相をした子供が親の顔色を窺うように。
あんなへなちょこパンチに怯えるなんて、どうかしている。
そう思ったところで、知佳は自分が拳を握りしめていることに気づいた。知らず力が入っていたらしい。ひょっとしたら怖い顔もしていたのかも。
いつもそうだ。自分の表情は自分じゃ見えない。自分の気持ちなんてわからない。
知佳は大きく息を吐いた。ゆっくりと拳から力を抜く。そして、カナに向かって手を伸ばした。
カナは一瞬、小動物が警戒するように身を引き体を震わせたが、避けようとはしなかった。知佳の手が自分の手に重ねられるのを黙って受け入れる。
――もうこういうことはしないで。
カナの手は冷たかった。それに乾燥してかさかさしている。指先には逆剥けができていて、爪も少しでこぼこしている。きっと毎日水仕事をしているのだ。それと同時に「ちびっ子」たちの頭を撫で、そして動物の胸にナイフを突き立ててきたのだろう。
――よくないよ。こんなの。みんな悲しむ。
――わかってる。でも――じゃあ、どうすればいいんだ?
カナは問いかけた。暗い色の瞳が知佳を見つめる。知佳の答えを待っている。そこに期待の色はない。代案があるなら言ってみろという、捨て鉢な問いかけに思えた。
――……少なくともあと一週間は我慢して。
――そこから先は?
――それはこれから考えよう。けど――
知佳は言葉に詰まった。心臓が強く脈打ち、存在を主張する。肋骨の檻の中、終身刑の受刑者がここから出してくれと訴えている。
――なんだ?
知佳は暫しの沈黙を経て、カナの手を離した。
――ううん、いまはまだ言えない。まだ何も約束できない。
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