52 這いつくばって慈悲を乞え
冨士野やおばさんと相談して、数日、学校を休むことにした。
おばさんは事情を知って半狂乱だったが、冨士野がうまくなだめてくれたらしい。
――少なくとも、率直で正直な先生であることは間違いないわね。
おばさんはそんなことを言っていた。冨士野はきっと下手に取り繕うようなことは言わずありのままのことを話したのだろう。
――ホンマかんにんな。担任として情けない限りや。
冨士野は電話越しにそう詫びた。
――生徒が勝手にやったことなんだからしょうがないですよ。
――そやけどな。森野さんのこともあったやろ。もうちょっと、生徒のことを見とくべきだったんやないかって思てな。
カナの制服のことだろう。
――いいですよ。逆にすっきりしましたし
――そうみたいやな。仲直りもできたみたいやし。
顧問だけあって、さすがに把握していたらしい。
――知佳やんは転校続きやから単位はぎりぎりになるけど――今週は無理せんで休み。
――そうします。
けっきょく、あの日は保健室まで荷物を持ってきてもらって、そのまま家に帰った。蒼衣と瑞月にはクッキーを渡せたが、残りはまだ手元に残っている。
そして、《KK文書》も。
家にいる時間を使って、何度か目を通した。疑問に思ったことやわからないことは、蒼衣たちにメッセージアプリや通話で尋ねた。
それでもわからないことはたくさんある。
何もわからない。
それが文書の――六花の結論でもあった。
――これ以上は考えてもしかたないのかもしれない。調べても何もわからないのかもしれない。
蒼衣は言った。
たしかに、現段階では考えたところでどうしようもないのだろう。それに、何か差し迫った問題があるわけでもない。
未知のリスクがあるにしても、それはりんご様の件に限ったことでもない。数秒後に大地震が起こるかもしれないし、テロに巻き込まれるかもしれない。「かもしれない」は無数にある。
その中でいま対処すべきは、ずばり、再来週に迫った学年末テストだ。
知佳はローテーブルで教科書を開く。
アヤのことも気になるが、数日は休ませてもらう旨を電話で伝えた。電話に出たのは三女の「ニコ」で、カナやアヤとはまたタイプが違う、おしゃべりな子だった。中学一年生だという。カナやアヤのことをいろいろと尋ねられて――
そう、カナだ。
彼女とはずっと話していない。作法室を飛び出したあの日からずっと。
――アヤちゃんのことは、ボクたちも知らなかったんだよ。
――そう。わたしたちもあの後、カナちゃんから聞かされたの。
カナはアヤが依代ということを話していなかったらしい。
――でも、どうして。
――わからない。カナは理由については話したがらなかった。
――カナちゃんのことはもうちょっと時間がかかるかもしれないわね。あの子もあれでいろいろと抱え込むタイプだから――なかなか本心は話してくれないし。それもあって来づらいんでしょう。最後にあんな態度を取った手前もあるし、どんな顔をして会えばいいのかわからないのかも。
――本当。めんどくさいなんて人に言えた性格じゃないよね。
――それはわたしたち全員そうかもしれないけれど。
――そうだね。
カナはいまどうしているだろう。何を考えているだろう。
目に浮かぶのは、作法室で最後に見た姿、炬燵に潜りこちらに背を向ける姿だ。
どうしてだろう、彼女の顔がうまく思い出せない。
猫を思わせるつり目、薄い眉、小さい口から覗く八重歯。そうして言葉では説明できる。しかし、全体の印象となるとぼやけてしまう。
アヤの顔を浮かべてみても、それはあくまでアヤの顔でしかない。姉妹でそっくりなはずなのに、カナには見えない。
どうしてだろう。あんなに無表情なのに。隕石が落ちてきたって、きっと眉ひとつ動かさないような子なのに。たったひとつしかないはずの表情を思い出すことができない。
知佳はノートにペンを走らせた。動物のイラストは得意だ。だけど、カナの顔はうまく描けない。カナをカナたらしめる何かがそこにはない。
知佳は不意に我に返り、ノートに消ゴムをかけた。消しカスを息で吹き飛ばしながら思う。
わたし、あの子のことなんにも知らないんだ。
五條が訪ねてきたのは、十六日のことだった。
「申し訳ありませんでした」
五條は知佳の部屋に通されるなり、土下座をした。
「この五條櫻子、一生の不覚。学級委員としてあるまじき監督不行き届きでした」
「いいから頭を上げて」知佳は言った。「学級委員ってそんな責任を背負う立場でもないでしょ」
「ですが、クラスを代表する立場であることに変わりはありません」五條は頭を下げたまま言った。「不始末があれば、こうして代表して頭を下げるのが道理です」
「そういうのやめようよ」知佳は苦笑した。「五條さんが直接荷担したわけでもないんでしょ? なら、責める気はないから。そうされてるとかえって居心地が悪いよ」
五條はしばらく無言で土下座の姿勢を維持していたが、やがて体を起こした。そのまま床に正座する。
「……あの写真のことなんですが」五條は言った。「貼りつけたのが誰であれ、撮影者は一人二人ではないようでしてね。SNSを用いて個人間で市川さんの盗撮写真がやりとりされていたようです。そこで写真を入手できたということですね」
「そう」
「嘆かわしい話です」五條はため息を吐いた。「いちおう言っておくと、写真はあくまで教室や廊下等の場面で撮影されたもののようです。つまり、着替え等の盗撮は確認されていません。まあ、肖像権の侵害には違いありませんが」
「そう」
「……これは推論ですが」五條は言った。「おそらく、そうした下心を主体とした行為ではないのでしょう。わたしに自白してきた撮影者がいましてね。女子生徒なんですが――」
五條は言葉を区切った。
「彼女は一種のゲームのようなものだと言っていました。始業式の日のことがあるでしょう? 市川さんの反応をおもしろがった誰かが思いついたようです。市川さんにバレないように、こっそりと写真に収めるというゲームを。スマホで普通に写真を撮ると音で気づかれますから、主にビデオモードが用いられていたようです。彼女も発案者までは知りませんでしたが――あるいは自然発生的なものだったのかもしれません」
「そっか」
「どうされますか」
知佳はしばらく考えた後、言った。
「怒った方がいいのかな、やっぱり」それから笑みを作り、「だけど、いいや。わたし、そんな真面目でも繊細でもないし」
「何もされないんですか」
「そこは冨士野先生に任せてる。先生の立場だと何もしないってわけにもいかないし、誰かしら処分は受けるかもね」
「それは聞いていますが」
「でも、わたし個人としては、よくわからないんだ。だから、これ以上続くようならまた考えるよ。気持ち悪いことは気持ち悪いしね。でも恥ずかしい写真が出回ってるわけでもないようだし――だから本当に、後は任せるよ」
「……本当は怒ってませんか」
「むかし言われたことがある。わたしは他人に興味がないって」知佳は言った。「それに最近クールだとも言われたしね。どういう意味かはよくわからないけど――もしかしたらこういうことを言うのかもしれない。だから、気持ち悪いしくだらないとは思うけど、いまはそれだけ。目の前に自分がやりましたって人がいたらまた違うかもしれないけどね。一発くらいは殴るかも」
知佳は右の拳を宙に向かって放った。
「思ったより元気そうで安心しました」五條は言った。「市川さんは逞しいですね。わたしなら寝込んでもおかしくないです」
「言ったでしょ。繊細じゃないって」知佳は言った。「後は周りの人達のおかげだと思う。五條さんもこうして気にかけてくれるし、それに――」
「岬さんたちですか」
「そうだね。わたし、ちょっと酔っぱらってるのかも」
「酔うとは?」
「なんだろうね」知佳は苦笑した。「騙されてもいいって思ってるのかもしれない。何かを信じてるわけじゃないけど、寄りかかってみてもいいのかなって。そう思ったら心が軽くなったの」
「そうですね。人は一人では生きていけませんし」
「あいにくとね」
「そうですね」五條は言った。「でも、わたしでよければどうぞ寄りかかってください。この五條櫻子に」
「学級委員長として?」
「それもありますが」五條はそこで照れたように、「同時に、お友達としてです」
「わかった。ありがとう」知佳は笑んだ。そこで思い出す。「そういえば、渡しそこねてたものがあるんだ」
五條は笑んだ。
「わたしもです」
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