51 シュガー&スパイス

 ――なんてね、冗談だよ。


 体に強い衝撃を感じた。どこかから落ちたらしい。知佳は床に横たわっていた。


 ――まさか本気で襲うと思った?


「大丈夫?」と慌てたような声が聞こえた。


 ――でも気を付けた方がいいよ、お姉ちゃん。こんな無防備に男の部屋に上がるものじゃない。男はみんな野獣なんだから。


 ここはどこだろう。市川家の部屋ではない。白いシーツのベッドと、仕切りのカーテン――保健室だ。


 ――早く帰った方がいい。じきに父さんたちも帰ってくる。それに――僕だって野獣にならないとも限らない。もう子供の頃とは違うんだ。


 気を失う前のことを思い出す。


 ――いい? 君は今日ここに来なかったし、僕とも会わなかった。忘れるんだ、全部。今日会ったことも、僕のことも、それに、実理のことも。


 知佳は黒板の写真を見て――


 ――その方がきっといい。


 吐き気がこみあげてくる。思わず口許を押さえた。


 ――わかるだろ、知佳ソフィ


 誰かにここまで運ばれたらしい。そしてベッドで寝返りを打った際、転げ落ちた。


「市川さん」


 二対の眼が心配そうに見下ろしていた。見覚えのある瞳。青みがかった瞳と、深い黒の瞳。


 手が差し伸べられる。知佳は反射的にその手を掴んでいた。二人の力で引っ張り上げられる。いったん立ち上がり、ベッドの上に腰を下ろした。


「どうして」知佳は問う。対面の椅子に座す二人に。

「どうしてって、ねえ」蒼衣は瑞月を見やった。

「そうだよ、友達の心配するのは当たり前じゃないか」

「友達なんて……」



「そうね。そこは市川さんがどう思うか次第だけど……」蒼衣は言った。「わたしたちはあぶれ者だからその分フットワークが軽いのよ。他の人がどう思うかなんていまさら気にしないし、思うままに動くだけ。友達が大変なときは迷わず寄り添うわ」

「まあ、ボクはクラス違うけど――」瑞月は言った。「蒼衣からメッセージが来て、いてもたってもいられなくなっちゃった」

「でも、わたし、あれからずっと――」


 蒼衣たちを遠ざけていた。話そうともしなかった。


「そうね。わたしたちも臆病になってた。市川さんが決めたことならしょうがないって……自分に言い聞かせて。だからいったん距離を取ることにしたのだけれど――」

「でも、こんな状況なら話は別だよ」瑞月は言った。「ボクだってもう後悔したくないし。それに、このままじゃ嫌だって思ったから」

「だから、本当にごめんなさいね」蒼衣は詫びた。「わたしたちの勝手でここまで来ちゃった。それに――ずっと隠しごとをしててごめんなさい」

「ボクからも謝らせて」瑞月は言った。「ごめん」


 知佳は息を飲んだ。そしてシーツを強く掴む。


「違うの」知佳は首を振った。「そうじゃなくて。だって、わたしもずっと秘密にしてたから」

「……弟さんのこと?」蒼衣は言った。すでに事情は知っているらしい。


 知佳は無言で頷く。


「でも、そんなの話したくなくて当然じゃないか」瑞月は言った。「別にそのことで裏切られたとか騙されたなんて思わないよ」

「同感だけど」蒼衣は言った。「市川さんが気にしてるのはそういうことじゃないみたいね」


 知佳はシーツを握る手を緩め、ゆっくりと言った。


「……わたし、ショックだった。みんなが自分に隠しごとしてるって知って。わかってたはずなのに。自分はふらりとやって来た部外者で、つかず離れずの距離を居心地よく思ってただけだって。なのに、アヤちゃんのことを知ったとき、裏切られたって思った。そんな資格ないのに。自分だって秘密があるのに、どうして教えてくれなかったんだろうって、理不尽なことを……思っちゃった」


「それって……」瑞月は困惑したように言った。


「つまり、市川さんは寂しかったのね」蒼衣は言った。「誰にも言えない秘密を抱えて、だから自分が隠しごとをされても文句は言えないって、そう思ってた。それでいいと思ってた。だけど、実際に大事なことを隠されてたのを知ってショックを受けた。仲間外れにされたみたいに感じた。そのことに自分でも戸惑っちゃったのよね」


 そう要約されると、恥ずかしくなる。知佳は顔を背け、言った。


「……いま、授業中だよね」


 蒼衣と瑞月は授業を受けなくていいのだろうか。


「そこは冨士野先生がなんとかするから」蒼衣は言った。「ちなみに、保険の先生はちょっと外出中。それより、気分はどう? 悪くない?」

「よくわからない」

「喉は乾いてない? お腹は?」

「そういえば、朝何も食べてなかった」

「それは大変だわ。何か食べるものは――」蒼衣は言いながらポーチの中を漁る。そして、口を赤いリボンで結んだ透明な小袋を取り出した。「あら、こんなところにチョコがあるじゃない」

「それって」

「そう。手作りよ」蒼衣は知佳に小袋を渡した。「練習の成果を見てもらおうと思ってね」


 知佳は小袋のリボンをほどいた。円錐台形のチョコが入っている。


「食べていいの」

「もちろん」


 知佳はチョコをつまみあげ、口に運んだ。


 手作り感は拭えない。しかし、最後に試作したものよりは口当たりがよくなっていた。カカオの苦味と甘さ、そして――


「上達したね……」知佳は言った。「口溶けもいいし……でも、この辛いの何?」


 多少ではあるが、舌が痺れるような辛さがあった。


「山椒だけど。スイーツとも合うでしょ?」


 そう言えば、最初のレッスンでやけにスパイスを推していた。


「蒼衣は辛党だから……」

「どう?」


「変な味」知佳は率直に言った。「これまで食べたことない」


 知佳はそこで俯いた。


「口に合わなかった?」

「違う。違うの」知佳は首を振った。そして、左胸をぎゅーっと掴む。「ただ胸が痛くて、苦しくて」

「蒼衣、山椒の他に変なの入れてないよね」瑞月が訝しげに問う。

「そうね」蒼衣は深刻ぶって言った。「そういえば、もうひとつとっておきの隠し味スパイスがあったわ」

「それって――」瑞月は問うた。


 蒼衣はウィンクする。


「そういうのツッコミづらい空気のときに言わないでほしいなあ……」

「わたしはいつでも本気よ」

「いや、蒼衣が照れ隠しで冗談めかすのは知ってるんだけどさ」瑞月は言った。「えっと、市川さん。ボクも作ってきたから、後で受け取ってくれる?」

「うん」知佳は頷いた。「……わたしも二人に渡すね」

「それは楽しみね」蒼衣は微笑んだ。「実はチョコの他にもうひとつ渡すものがあるの」


 蒼衣の言葉を受けてか、瑞月はポーチに手を突っ込んだ。そして、一冊の手帳を取り出す。


「思わぬ形になったけど、お互いもう隠しごとは終わりにしましょう。市川さんにはわたしたちが知るすべてを知ってもらうわ」

「それは?」

「《KK文書》」瑞月は言った。「姉さんが歴代の巫女や資料に当たって作成したレポート。それに、ボクたちが若干の補足をしたもの」

「やっぱり持ってたんだ」

「ええ。黙っててごめんなさい」

「いいよ。わたしに知る資格なんてなかったんだから」

「……色々と書いてあるけど、最初に重要なことを言っておくわね」

「うん。でもだいたいもうわかってると思う」知佳は自分の言葉に驚いた。しかし、すぐに納得が訪れる。「?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る