50 アンドロギュノス
多くのペンギンは二つの卵を生む。といっても二つの卵を育てられるほど自然は甘くない。育てるのはより大きな卵、より健康で丈夫な雛が生まれそうな卵だ。一方の卵は保険にすぎない。
両方を育てようとすれば、共倒れになる可能性が高い。それが自然の摂理というものだ。
しかし、人間社会ではそうはいかない。掟があり法がある。授かった命には最後まで責任を持たなければならない。
知佳の両親は子供を一人だけ育てるつもりだった。そういう予定で人生を計画していた。一人の子供に手間と資金を集中させ、人並みかそれ以上の人生を送れるようにするつもりだった。
しかし、どうだろう。そこで両親は望みもしなかった「当たりくじ」を引くことになる。統計上、〇・二パーセントしか存在しないとされる当たりくじを。
母親は二つの受精卵を同時に授かったのだった。
女子と男子の二卵性双生児を。
そのとき、両親の間でどのような相談が行われたのか、知佳は知らない。
くじを引き直すという選択肢もあったはずだ。当たりくじを捨てて、九九・八パーセントの外れくじに期待するという選択肢も。
妊娠六週目には、胎児は心臓を備えているのだから。双子ならば、二つの心臓が胎内に存在することになるのだから。中絶手術のタイムリミットよりも早く、双子であることがわかったはずなのだから。
両親は多くを語ろうとしない。そのことがかえって、知佳には重く感じられた。彼らが語りたがらない空白の期間にどのような意見が交わされたのか、想像しないわけにはいかなかった。
なんであれ、十六年前の六月、二人の赤子は産声をあげた。
両親は先に生まれた女児を
二人は十歳まで一緒だった。
両親が離婚してそれぞれが同性の親に引き取られたのだ。知佳は母に。操緒は父に。知佳は
父や操緒とはもう会うこともないだろう。知佳は何となくそんな予感を持った。
知佳には知佳の人生があった。少しでもいい成績を納めること。それが知佳の使命だった。
しかし、知佳が受験生の年、ある少女が訪ねてきた。自分と瓜二つの少女だ。
――はじめまして、百瀬知佳さん。いえ、お姉さんと呼ぶべきでしょうか。わたしは
知佳は突然のことに面食らいながらも、彼女を部屋に通した。
実理が訪ねてきたのは、恋人の双子の姉に興味があったかららしい。操緒はよく知佳の話をするのだそうだ。
――わたし、写真を見ました。びっくりしたな。だってわたしの小さい頃にそっくりだったから。操緒はそんなこと一度も言わなかったのに。まあ、わからないでもありませんよ。姉と恋人がそっくりだなんてたとえ偶然でも知られたくないでしょうから。
実理は街中で声をかけられたのだという。そのことに、操緒自身が戸惑っているように見えたとのことだ。
――いま思えば、あれはあなたの面影を見て思わず声をかけたんでしょうね。
二人は近くの公園で話をしたという。そして、隣の中学校に通っていることがわかった。
――でも、わたし操緒はきっとあなたのこと好きだったと思うんです。初恋だったんじゃないでしょうか。彼の話を聞いてるとそう思えてならないんです。
――そんなこと――
――ないって言い切れますか。
――だって姉弟だよ。
――珍しいことじゃないでしょう。
――でも操緒だよ。ほしいものは他人のものでも手に入れる。もしそうならわたしが知らないはずがない。
――それはあなたのことを本当に大切に思っていたからかもしれない。わたし、それを確かめに来たんです。操緒があなたのことを好きだったのかどうか。それがわたしとの関係に影響があるのかどうかを。
――どうしてそんなこと。
――お姉さんは誰かを愛したことがないんですか。
――ないよ。
――ならそういうものだと諦めてください。
実理はいたずらっぽく笑った。
――それにわたし、操緒にはいつも言い負かされてばっかりなんです。恥ずかしい過去のひとつやふたつ知りたくなろうというものです。
そうして実理と会うようになった。話すのは、決まって操緒のことだ。彼女が語る操緒はむかしと変わらないようにも思えるし、全然違う人間のようにも思えた。
――操緒はどんな子供でした?
――スーパーボールみたいな子。小さいのに落ち着きがない子供だったよ。それに嘘つきだった。よく爪を噛んでて、肌が敏感で――
――それじゃああんまり変わってないのかな。いまもよく噛んでますよ、爪。身長はけっこう高くなりましたけど――そうですね。嘘つきです。小さい頃、ベテルギウスの爆発を予知したなんて言って――あれって嘘ですよね?
――どうだろ。半分くらいは本当かも。
――どういう意味ですか。
――日にちを正確に予知したわけじゃなかったから。実際に爆発したのは十二月二二日だったけど――操緒はその一週間くらい前から空を見上げてた。何かが起こりそうな気がするって。ちょうどその数年前にマヤ暦があの年の十二月に終わるって話題になってたでしょ。それで世界が終わるんじゃないかとか言われてたし――そんなことを話してた。数年くらい誤差があってもおかしくないって。数年遅れで、何か起こるかもしれないって。おかしいよね。それなら、十二月に限った話じゃないのに。でも、あれは、操緒自身にもうまい説明が浮かばなかったのかもね。ただ何かを感じただけで、言葉にできなかったのかも。
――そういえば、超新星爆発の後も、地球に影響があるんじゃないかって言われてましたね。
――ガンマ線バーストのことかな。五三〇光年も離れてたらさすがに届かないけど。
――ああ、それです。操緒も言ってました。
実理は嬉しそうに言ったものだった。これが恋する少女の顔なのだろうか。そんなことを思った。
――わたし、いつか彼に殺される気がする。
知佳の高校合格祈願で訪れた神社で実理はそう漏らした。
――こんなこと思っちゃいけないのかもしれない。だって考えるのと実行するのとは別だから。操緒がどれだけ破壊的な妄想をしたってそれは彼の自由でしょ? だけど――彼はそれを受け入れられないんだよ。自分のことを化け物みたいに思ってる。だから自ら進んで化け物になろうとする。
それから、こう漏らす。
――わたしじゃダメなのかな。わたしじゃ操緒を受け止めきれないのかな。
――そんなこと――
――お姉ちゃんは操緒と会う気はないの。
――どうして?
――わからない。ただ、お姉ちゃんなら操緒のこともっと深い部分でわかってあげられるのかなって。
――わたしはただ、操緒のお姉さんってだけだよ。それに五年も会ってない。
――でも、双子には不思議なつながりがあるって言うでしょ?
――少なくともわたしと操緒にはないよ。
実理はきっと助けを求めていたのだ。自分の手には負えない問題を解決してくれる誰かを。
しかし、知佳はその誰かにはなれなかった。受験のことで手一杯だったし、操緒のこともそこまで危惧すべきこととは思わなかったからだ。それに、自分にできることがあるとも思わなかった。
操緒に会いに行ったのも、単なる思いつきにすぎなかった。受験が終わって、一息つける時期だったのだ。
住所はあらかじめ実理から聞いていた。父は再婚して、新しく子供も生まれたそうだ。いまは操緒を含めた四人家族で郊外の一軒家に暮らしているという。
――久しぶりだね、お姉ちゃん。
新築の一軒家のチャイムを鳴らすと、インターホンから返事があった。カメラで見て気づいたのだろう。ドアが開く。ひょろりとした少年が現れた。
――実理に聞いたんだろう?
操緒は自分の部屋に招いた。
――うん。
――実理はいい子だよ。悲しいくらいにね。だから僕みたいな化け物を引き寄せてしまう。
操緒はりんごの皮を果物ナイフで剥きながら言った。会わない間にずいぶんと手が大きくなった。それに骨っぽく、血管が隆起している。
――実理から僕のことは聞いてるんだろう? 自ら進んで化け物になろうとしてるって。
操緒はくるくるとりんごを回し続ける。赤い帯がどこまでも長く伸びていく。
――あれは僕が仕組んだことだ。彼女が写真を見たのも、君に会いに行ったのも全部。そうさ、僕は全部わかってる。
操緒は皮を剥き終えると、実の部分を切り分けはじめた。二等分から四等分、八等分と。
――実理が色々おかしなことを言ったかもしれないが、すべて僕がそう思うように仕向けたものだ。彼女を試すためにね。
――何のためにそんなこと――
――覚悟だよ。彼女の覚悟がどれほどのものか試したかった。
操緒はりんごを切り終えると、皿に並べて差し出した。自分は皮の部分を食べはじめる。
むかしからそうだった。実よりも、皮の苦味が好きなのだと、母が捨てそうになるのをもらっていた。
――しかし――、実理はあくまで僕を受け入れるつもりらしい。化け物の僕を。化け物のまま愛そうとしている。泣けるじゃないか、まったく。だけど、あれは彼女の自己欺瞞だよ。あの子はただ……僕を愛していると思いたいだけなんだ。
――実理は真剣だよ。
――それはそうだろうさ。酔っぱらうっていうのはそういうことなんだから。ふざけられるのは正気の人間だけなんだよ。狂った奴ほど真面目なんだ。
――操緒はどうなの。実理のことどう思ってるの。
――さあね。わからないんだ。利用価値のある子だとは思う。何せ完全に酔っぱらっているんだから。そのつもりで手元に置いてたんだ。だけど、たまにわからなくなる。自分も酔っぱらってるような気持ちになるんだ。滑稽だね。それに怖いんだよ。あの子はなんでも受け入れてしまうから。こっちも何をやっても許される気がして。まるでどこまでも深い穴に落ちていく気がして。
操緒はそれきり言葉少なになった。向かい合ってりんごを食べながら、久しぶりに再会した姉弟らしい会話をする。学校のことや家族のこと。受験のこと。
――実理のこと大切にしなよ。それができないなら別れて。
知佳は最後に言い残し、弟の新しい家を後にした。
いま思えば、それでは不十分だったのだ。実理を心配に思うなら、無理にでも二人を引き離すべきだったのだろう。あるいは殺人犯の姉として後ろ指をさされたくなければ。
次に彼の家を訪ねたのは、実理が失踪した後のことだ。
――実理のこと知らないの?
――失踪したことくらい知ってるさ。さすがにね。
思えば、あのとき操緒から嫌な匂いがした。どこか生臭い匂いが。
――警察の人来たんじゃない? 恋人だったんだから。
――恋人だった、か。おもしろいことを言うね。
たしかに自分でも不思議な言い回しだった。しかし、きっと予感があったのだ。何が起こったか察しが――
――警察は意外と暢気らしくてね。僕まではたどり着いてないらしい。まあ、お互い周囲に付き合ってると告げることもなかったしね。それに来られたところで話せることもない。
――本当に? 何も知らないの?
――尤もな疑いだね。
操緒は知佳の心情を察したように笑った。からからと。どこか大事な部品が壊れたおもちゃの人形のように。
――ねえ、操緒。答えて。実理は生きてるんだよね。
――それを疑うなら――
操緒はそう言うや否や、知佳を壁まで追いやるようにして迫った。壁に手を突き、知佳の顔を見下ろす。
――こんな簡単に部屋に入ってきちゃダメだろう? 愚かでかわいいお姉ちゃん。
――ふざけてるんだよね? 前に言ってたでしょ。ふざけられるのは正気の人間だけだって。だから操緒も――
操緒は知佳の問いには答えず、
――民間伝承において、吸血鬼は元々、心臓に直接牙を立てて血をすするとされていた。首筋に噛みつくイメージは、見映えの問題で後世になって作られたものだ。
――何を言ってるの?
操緒はなおも知佳を見下ろしている。衣替えになったばかりだった。操緒の目線は、ブラウスを押し上げる膨らみに注がれているように見えた。あまりに率直な欲望の視線に戸惑う。
――この世界には何の価値もない。欲深いヒトの自己正当化なんだ。何でそんなものが必要か?
操緒は言いながら、ブラウスのボタンに手をかけた。
――やめ――
――それは人間が社会的な生き物だからだ。そうでない個体は排斥される。有史以前からそうなんだよ。人間の天敵は野獣や飢餓ではなく、人間だった。群れにとって、あるいは力を持った誰かにとって邪魔と判断されれば容易く殺された。殺されないようにするには、群れにとって無害であること、有益であることを証明しなければならなかった。だから人間は社会に受け入れられることを気持ちいいと感じる。ただ、一方で人間にはより原始的な欲求も存在する。人間以前の生物だった頃の名残のような、野蛮な欲求が。矛盾だな。どこかで折り合いをつけなきゃならない。
操緒は知佳の口を塞いだ。もう片手で引きちぎるようにしてブラウスを開く。ボタンが弾け飛び、白いキャミソールが露になった。
――僕にも保身の欲求は存在する。他人の役に立つ喜びも知っている。だけど、それは単なる快楽に対する動物的な反応にすぎない。それだけで満足して生きていけるならそれでも構わないが、あいにくと僕には他人とは少し違った欲求がある。決して癒されない飢えが。渇きが。
キャミソールとブラジャーを引き上げられる。桃色の突起物を頂く二つの膨らみが、弾むようにして零れ落ちた。
――それを我慢しなければならない理由がどこに存在する? リスク? コスト? そんなものを恐れてやりたいこともできない人生なんてごめんだね。
操緒はそう言って、左の乳房を掴む。感触を確かめるように、あるいは障害物をどけるように手を動かす。
――僕は許しなんて求めない。だけど、これだけは言わないとヒトという生き物として気持ち悪いから言わせてくれ。
そして、言う。
――ごめん。
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