49 聖バレンティヌスの殉教

 知佳は服を脱いだ。。パジャマのボタンをひとつひとつ外していく。。ズボンを脱ぐ。。パジャマを畳んで重ねる。。下着を脱ぐ。。浴室に足を踏み入れる。。熱いシャワーを頭から浴びる。。ボディーソープを泡立て、全身に広げる。を洗い流す。。唾液を洗い流す。。鏡に向かう。。シャンプーを泡立てる。。鏡の中でもう一人の自分が同じ挙動をする。。もう一人の自分には、乳房に傷がある。。噛みついたような痕がある。。首筋にも傷がある。。腹部の至るところに傷がある。。傷口が裂ける。。血が溢れ出す。。泡と混じりあって桃色に染まる。。臓物が溢れてくる。。知佳は目を閉じた。。自分の中から何かが流れ出していくのを感じながら。


 


「今日は一日曇りみたいね」


 朝食はパンケーキとハムエッグ、サラダだった。


「でも雨は降っても小雨みたい」


 知佳は食べなかった。


「大丈夫?」


 ラッピングしたクッキーの小袋をリュックに入れ、準備を整える。


「自転車で行くの?」


 自転車のサドルに跨り、スタンドを蹴りあげた。


「いってらっしゃい」



 

 冷たい風が絶え間なく吹きつけた。髪は乱れ、頬が氷のように冷たい。思わず自転車を降りた。押しながら歩き、稲荷坂に差しかかる。

 坂の上からコーラの缶が転がってくる。白いビニール袋が低い位置で舞う。

 どこからかドリルの音が聞こえる。がりがりがりがりと、道路を削る音がする。

 ひーよひーよと、ヒヨドリが鳴く。

 からから、からからと自転車のタイヤが回り続ける。




「市川さん。おはよう」


 教室の前で眼鏡の女子に挨拶された。犬神だ。周りにいた同級生たちも口々に「おはよう」と挨拶を投げかけてくる。


 挨拶を返しつつ、訝しく思う。教室のドアが二つとも閉まっている。


「ときに市川さんは中高なかこうの桜の伝説をご存じかな」犬神は唐突に言った。

「首を吊った帰還兵の話?」

「げ。知ってたか」

「え、うん。ごめん」

「じゃあさじゃあさ、えっと……」


 犬神は何か話題を探すように言った。何かおかしい。さっきから知佳の進路を阻むようにして立ち回っている。


「教室に何かあるの?」


 知佳は尋ねた。


「あーうん。ちょっとね」犬神は目線を泳がせた。「事故というかなんというか」


 そうこうしていると、後ろのドアから五條が出てきた。口元にハンカチをあてている。


「どうしたの?」

「ちょっとした異臭騒ぎです」五條が少しこもった声で言った。「原因がはっきりするまで近づかない方がいいでしょう」


 知佳は嗅覚に意識を集中した。


「特に何も匂わないけど」

「ドアを閉じてますから」

「五條さんはいままで室内にいて平気だったんでしょ」

「ええ、まあ」五條はハンカチを外した。「わたしも止められたんですが、荷物だけでも置こうと思いまして――でも、やめておくべきでした」思い出したように、顔をしかめる。「入ったときは大丈夫だったんですが、奥の方に近づくと鼻を突く匂いがしたんです。硫黄臭というやつですね、卵が腐ったような匂いです」


「そうそう。温泉みたいな匂い」犬神は頷いた。「いま窓を開けて換気してるんだよね?」

「ええ」五條は言った。「ですから、市川さん。入室するのはもうちょっと待たれた方が」


 五條は手を差し伸ばしてくる。知佳の手を掴もうとしたらしい。


 しかし、知佳はそれをかわし、教室のドアに手をかけた。


 予感があった。心臓が激しく胸を叩いていた。このドアの向こうに、何か見てはならないものがあるのだと告げていた。


 なのに、なぜだろう。体が勝手に動いてドアを開いた。


 特に匂いはしない。匂いの元となるような何かや、煙のようなものも見当たらない。


 問題は黒板だった。


 何人かの同級生が黒板の前に集まっている。黒板から何かを剥がそうとしている。


 知佳の写真だ。


 この学校に転校してからの写真が黒板に貼られている。


 全く身に覚えがない写真が。


「市川さん!」


 五條が後ろから知佳の手を引く。


 しかし、知佳の目は黒板に釘付けのままだった。


 よく見ると、自分以外の写真も貼られている。


 実理の報道写真――


 ――嘘やんな。だって知佳りんがあの吸血鬼の――


 それに、操緒のクラス写真だ。


 ――だって吸血鬼は被害者の子と恋人やったんやろ? それじゃ吸血鬼は――


「ダメです。市川さん。見ないで」五條が後ろから知佳の腕を掴んだ。


 写真の横にウサギのイラストが描かれている。


 ――ねえ、どうなの。知佳ちー。吸血鬼――千草ちぐさ操緒みさおって犯人のこと知ってたりしないよね?


 うさぎの横には吹き出しが――


 ――別に気にしないよ。一緒に住んでたってわけでもないんでしょ? 知佳ちーには関係ないじゃない。ねえ?


『猫の血はおいしいのかい? 吸血鬼のお姉さん』

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