47 信じる者の幸福

 五條とは公園の近くの交差点で別れた。


 夕暮れに沈みゆく住宅街を自転車で駆け抜けていく。見知った景色が、いつもより速く流れていく。速く漕げば、それだけ速く。ギアを重くすれば、それだけ速く。

 とはいえ、ミニベロは段差に弱い。タイヤが小さい分、衝撃を受けやすいのだ。五條には、特に歩道に乗り上げるときは注意するよう言われていた。速度を落とし、段差が低い位置から入るようにと。


 暗くなってきたから、そろそろ前輪のライトを点けた方がいいかもしれない。走行中に何度かキックを繰り返すがうまくいかない。けっきょく、信号で止まったときに手動で点灯した。

 まだ慣れないこともたくさんあるが、明日から通学の足に使えそうだ。朝の時間にもゆとりができる。もう少し早起きすれば、自分でお弁当を作れるかもしれない。


 そんなことを考えていると、ふとチョコのことを思い出した。

 忘れるところだった。

 市川家の近くで折り返し、近所のスーパーを目指す。夕食時だからか、駐輪場はほぼいっぱいだった。隙間にミニベロをねじ込み、鍵をかける。


 バレンタインの特設コーナーでは中高生くらいの少女たちがチョコやデコペンを吟味していた。

 少し遠巻きに見ながら、何を作るか考える。不特定多数に渡すとなると、コストの問題も出てくる。あまり気合が入ったものを渡されても困るだろう。


 こうして突っ立って考えるのも馬鹿らしい。知佳はチョコチップとココアパウダー、ラッピング用の袋とリボンを籠に突っ込んだ。クッキーなら無難だろう。残りの材料は家に常備してある。そう考えながら、レジに向かった。精算を済ませ、ビニール袋を手に店を出る。


 スーパーを出ると、街は藍色に染まっていた。

 前籠にビニール袋を乗せ、自転車を走らせる。

 すると、家の近くまで来たところで、見知ったシルエットを見かけた。思わず自転車を止める。


 小柄で癖毛の少女だ。


 こちらに気づき振り向く。そしてくしゃみをひとつ。


「待ったわよ」アヤ夢路だ。「まったく、スマホがないと不便ね」


 昭和一桁世代とは思えないことを言う。


「中で待ってればよかったのに」知佳は言った。「いいの。外に出てきて」


 アヤに戻ったとき、記憶の混乱が生じるだろう。


「だからよ。家に上がったら長くなるでしょう?」夢路は言った。「あなたの『おばさん』にも上がるよう言われたんだけどね。あの感じだと夕飯までご馳走されそうだったし、いないなら帰りますって言って断ったの。それで少しだけ待つことにしたってわけ」

「……いまさら何の用?」


 カナたちの使いでもしにきたのだろうか。


「あれ以来話してなかったでしょう?」夢路は言った。「夢路もそう都合よく出たり引っ込んだりできるわけじゃないの。前みたいにこの子があなたの部屋で寝てくれると、手っ取り早いんだけどね」

「それで? なんとなく出てきた――ってことでもないんでしょ?」

「それが意外と思いつきでね。ちょっと訊いてみたくなったのよ」夢路は言った。「あなた、これからどうするの」

「どうって」

「巫女のこと。カナたちのこと」夢路は言った。「あれから話してないんでしょ?」

「……どうもしないよ」知佳は言った。「話はそれだけ?」

「まったく当てが外れたわ」夢路はため息を吐いた。「あなたを通じてカナたちの出方を探るつもりだったのに」

「なら、やり方を間違えたね」


 知佳は自転車を押しはじめた。背中から夢路の声がかかる。


「騙されたのがそんなにショックだった?」


 知佳は自転車を止めた。背を向けたまま答える。


「わたしは最初から何も信じてない」

「そう思っていたのだけどね。カナが言うには、あなたは案外クールだそうだから」


 知佳は振り向いた。その反応を見て、夢路は逆に驚いたように、


「そんなに驚くことじゃないでしょう。妹に同級生のことを話すくらい普通のことじゃない」


 寒風が吹く。夢路はふたたび、くしゃみをした。


「まったく調子が狂わされるわね」夢路は言った。「あなたにもカナにも。あの子、あなたのことがけっこう堪えたみたいよ。上の空でらしくないミスをするし、かと思ったら下の子たちに無駄にかまったりして」

「……嘘」

「嘘なんてつくものですか」夢路はため息を吐いた。「あなたもあなたで、あの子のことを感情がないお人形さんだとでも思ってない? 普通に拗ねたり怒ったりするわよ。表情に出ないだけでね」


 そんな風に思ったことはない。ただ、何を考えているのかわからないと思っていただけだ。カナはいつも仮面をかぶっている。だから、人並みの感情があったとしてもわからない。


「仲直りしろとでも言うつもり?」

「りんご様としては、巫女が多いに越したことはないわね」夢路は言った。「明日はちょうどバレンタインだし? いいきっかけになるんじゃない?」

「そもそも疑念を煽ったのは夢路さんでしょ」知佳は言った。「みんなしてわたしを騙してたのに、それをなかったことにできる?」

「言い訳くらい聞いてあげたら? 夢路もあの子たちがどう言い繕うか知りたいし」

「神様なら自分で何とかすれば」

「わかってないわね。本当に偉い存在は他人をうまく使うものよ。自分で動いたりしないの」

「……失敗したくせに」

「カナがあなたを適切に評価できなかったのが悪いのよ」夢路はひときわ大きなため息を吐いた。「まあ、今日のところはいいわ。勉強を見てもらう約束もしてなかったしね」


「アヤちゃんには事情を話したの?」

「いいえ。でも夢路がこれだけ大胆に動くと、さすがに何かおかしいとは気づくでしょうね。いちおう昼寝してるタイミングで出てきたんだけど」

「それってアヤちゃん視点だと、夢遊病みたいで怖くない?」

「言ったでしょう。頃合いだって。本気で病気を疑い出す前に打ち明けるわよ」夢路は言った。「本当にいい加減帰るわ。勝手に出てきて風邪でも引いたらアヤこの子にも悪いし」


 夢路は手をひらひらと振って、歩きはじめた。しかし、そこで何かを思い出したように立ち止まる。


「夢路は、あなたたちがどうしようとかまいやしない。だけどね、こっちとしても巫女になってよかったと思ってもらわないと神としての沽券にかかわるわけ。たとえ実際にはどれだけ苦しい思いをしていたとしてもね。掟を守る見返りを与える建前なんだから。いわゆる『尊いもの』ってやつをね。おとなしく女同士できゃっきゃうふふしててほしいの」


「わたしは巫女じゃないよ」知佳は言った。「それに、この世に尊い物なんてない」

「この世にあるものがすべてじゃないわ」


 夢路は静かに言った。反論も待たずに去っていく。

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