46 バレンタイン・イヴ
何度失敗しただろう。
何度転んだだろう。
何度傷ついただろう。
自転車の練習をするときはいつもそうだった。数えきれないほど転んで、手や膝を擦りむき、自転車に疵をつけ、前籠をへこませた。
親や友達、同居していたお姉さん――練習に付き合っていた人たちはみんな困ったような顔をしたものだ。
この子はなんでこんなに要領が悪いのかしらと。
どこかにマニュアルがあるのだと思っていた。ペダルの踏み方や、ハンドルの握り方、サドルの高さ、背筋の角度。それらの条件が重なったとき、はじめて乗れるようになるのだと。
しかし、乗れる側の人間はいつも言う。「乗って覚えるしかない」と。
練習のときはいつもサドルを一番下まで下げ、知佳でも踵が着くように調整してくれる。後ろの荷台を押さえて自転車を支えてくれる。
しかし、転ばずにペダルをこぎ続ける方法は誰も明確に言語化してくれなかった。
だから、知佳はこけ続けたし、傷つき続けた。
何の成果もなく練習が終わる度、自転車なんて二度と乗らないと思ったものだ。
なのに、なぜだろう。
知佳はいま自転車に跨っている。
ペダルを漕いでいる。
転ばずに真っ直ぐ進んでいる。
頬に冷たい風を感じながら、冬枯れの木々に見下ろされながら、誰の力を借りることもなく、自転車を乗りこなしている。
段差の手前で、知佳はブレーキをかけた。地面に足を着く。すると、後ろから五條が少し小走りに追って来た。
「お見事でした」五條は知佳に追いつくと言った。「糸を引くようにすっと進んでいきましたね」
「うん、ありがとう」知佳は言った。「五條さんのおかげ」
「いえいえ、わたしはただ見ていただけです」五條は言った。「本当に。まさかここまであっさりと乗りこなされるとは……」
「まぐれかもしれないよ」知佳は慌てて言った。「なんで乗れてるのかよくわからないし」
「そういうものですよ。言葉で説明できるようなものじゃないんです。だから自分で乗ってみるしかない……はずなんですが」
五條は苦笑した。
それもそうだろう。自転車の練習に付き添うつもりで来たら、ちょっと練習しただけで乗れるようになってしまったのだから。
日曜の午後だった。
五條とは現地で待ち合わせ、知佳はミニベロを押しながら公園を目指した。
公園までは徒歩で三〇分以上かかる。途中で何度かサドルに跨がり、片足で地面を蹴りながら進んだ。
そのせいだろうか、公園ではじめてペダルを漕いだときも不思議とバランスが取れた。
「最初にそれをやってもらう予定だったんですけどね」五條は苦笑した。「まさか先んじてコツを掴まれてしまうとは思いませんでした」
五條は五條で練習メニューを考えてきてくれたらしい。それがほとんど無駄になってしまった格好だ。
「……なんか、ごめん」
「いえいえ」五條は微笑んだ。「これでツーリングに近づいたわけですし」
いつの間にかそんな話になっている。しかし、悪くないかもしれない。そう思いながら、知佳はペダルを漕いだ。
少し進んで、足を着く。その繰り返しだ。しかし、徐々に長い距離を継続して進めるようになってきた。
「ときに、明日はバレンタインですね」カーブの練習をしていると、五條が言った。
「そうだっけ」
「覚えてなかったんですか」
「え、ああ、ごめん。チョコあげるって約束したよね。大丈夫大丈夫」
「ええ。わたしも用意させていただきます」
その後、自転車を押して歩きながら、公園の中を散策することになった。
公園は高台の谷底にあった。地下水が涌き出てくるらしく、大きな沼がある。水鳥たちがぷかぷかと浮かんでおり、知佳は何枚か写真を撮った。
「もうそろそろ帰っちゃうんだろうね」知佳は言った。「春が来たら」
水鳥のほとんどは渡り鳥だ。シベリアなどの寒い地域から越冬のためにやってきて、春になると日本を旅立っていく。
「そうですね」五條は言った。「四季の移ろいというものなのでしょう。出会いもあれば別れもあります」
沼の中心近くで、鴨が水に潜った。次に出る場所を予想していると、別の一羽がばさばさと羽ばたきながら着水した。
「最近、森野さんたちと何かありましたか」五條は不意に言った。
「どうして」
「最近、お話されてないでしょう?」
「いろいろあって――ね」
「あえて尋ねませんでしたが――けっきょく、なんなんですか」
巫女のことを言っているのだろう。五條も気にはしていたらしい。
「なんなんだろうね」知佳は言った。「それがよくわかんなくなったからっていうのもあるかな」
はぐらかすみたいだな、と思う。話したくない、という意思を察したのか、五條は話題を切り替えた。
「そういえば告白されたと聞きましたが」
「……それ、どこから」
金曜日のことだった。ほとんど話した覚えのない男子の同級生にメッセージアプリで呼び出され、中庭で告白されたのだった。例の桜の近くだ。周りに人気はなかったと思う。
「告白した本人があっけらかんと話してましたよ」五條は言った。「それはもうきっぱり断られたと」
知佳は嘆息した。外気に冷やされた水蒸気が水滴となって白く濁る。
「市川さんはそういうことにあまり興味がないようですね」
それは五條も同じだろう。少なくとも男子相手の惚れた腫れたには興味がなさそうに見える。だから、知佳は素直に言った。
「知り合いがそれでひどい目に合ってるからね」
「いままでも告白されることくらいあったでしょう?」五條は言った。「市川さんほどの美少女なら」
冗談だろうか。どう答えればいいかわからない。知佳は「かわいい」とか「打ちごろのボール」と言われたことはあるが、「美人」や「美少女」と言われたことはない。
「ああ、うんありがと。はじめて言われた」知佳は流した。「でも前の学校は女子高だったし……わたし、こっちに来るときけっこう変わったから」
「イメチェンですか」
「そんなかわいいものじゃないけど」
五條はそこではっと気づいたように、
「もしかして、前の学校でのことが影響してたりしますか」
「まあ、そうだね」知佳は言った。「おばさんが勝手に手配したんだけど」
最初につれていかれたのは東京の美容室だった。おばさんの知り合いの店らしい。知佳についたのは、年齢も性別も読み取りづらい、怖いくらい早口の美容師で、慣れない知佳に次々と髪型に関する提案をしてきた。適当に返事をしていると、気づけば髪を染められていたのだった。
「まあ、恋愛だけが青春じゃありませんからね」五條は言った。「そもそも異性愛だけが恋愛とも――」
「五條さん、あのことって誰にも言ってないよね」知佳は遮った。「始業式の日、トイレで話したこと」
「言っていいこととそうでないことの区別はつきますよ」五條は言った。「それに――ふふ。せっかくの秘め事を話してしまうなんてもったいないじゃないですか」それから、少し深刻なトーンで、「やっぱり気になりますか」
「まあね」知佳は言った。「たまに、いまにも誰かが気づいて指差すんじゃないかって思う。あるいは、もうとっくに気づいてて噂してるんじゃないかって」
誰かに見られている。いまでも不意に、そんな感覚を覚えるのだ。
自意識過剰なのかもしれない。あるいは、単に知佳が転校生だから注目されているだけなのかもしれない。
しかし、誰かしらはこう思っているかもしれない。「あの顔をどこかで見たことがある気がする」と。そうして、何気ない会話の中で周りに伝えるのだ。何の悪意もなく、ただ他愛ない感慨として。
「みなさん市川さんのことを気にかけているんですよ」五條は言った。「今年度も後一か月しかありませんからね。二年になればクラス替えがあります。せっかく、クラスメイトになったんだからいまのうちに交流しておきたいと思うのは自然なことでしょう」
「そのわりにあんまり話しかけられないけど」
教室で話しかけてくる生徒は五條を含めてもあまり多くない。
「それも気を使ってのことでしょう」五條は言った。「すでに森野さんたちと交友があるようでしたし……もし、市川さんの方から望むなら快く受け入れてくれますよ」
「そういうものかな」
「そうですよ。なんならわたしの分以外にもチョコを余分に持ってくるといいでしょう。それで交換でもすれば、いいきっかけになります」
「そうだね。考えとく」
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