45 ゴーン・ガール
「待ってたわよ」蒼衣は笑顔とともに出迎えた。「お茶、淹れるわね」
「ごめん。遅れちゃって」知佳は詫びた。「図書室に寄ってて」
「あら、御愁傷様」蒼衣はいつかのように言った。「何か借りた?」
「ううん、返しただけ」
「そう」
知佳はスリッパを脱いで座敷に上がった。
瑞月が優雅にお茶を飲んでいる。この仕草は夢路だ。
カナは草加煎餅をばりばりと食べている。
知佳はコートを脱いで畳み、リュックを床に下ろして、炬燵に足を突っ込んだ。
蒼衣が知佳のカップにお茶を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
知佳はカップを傾けた。コーヒーほどではないが、紅茶にもカフェインが含まれている。興奮作用をもたらす物質だ。これからの行動にどのような影響を及ぼすだろう。
「ときに、蒼衣、少しは練習してるんでしょうね」夢路が尋ねる。
「あら、何のことかしら」
「チョコよ、チョコ」夢路は言った。「大切なのは気持ちだとは言ったけどね、出来が微妙すぎて空気が悪くなるのだけは勘弁願いたいわ。みんないたたまれなくなって漠然とした褒め言葉しか言えなくなるようなのは、ね」
「無理しなくていいぞ」カナは言う。「人間、向き不向きがあるからな」
「そうね。それは同意。でもやってみなくちゃわからないこともあるわ」
「志だけは立派ね」夢路は言った。「精々、精進なさい。精神的に向上心がない人間は馬鹿だもの」
歓談はそこで途絶えた。蒼衣は文庫本を開き、カナは黙々と煎餅を頬張った。夢路は寝不足なのか、舟を漕ぎかけているが、何とか寝まいとしているようだった。
知佳はリュックからノートを取り出す。作法室で課題や予習をすることも多い。だから、これは何も不自然な行為ではない。そう言い聞かせて、ページを開く。そして、授業を振り返る風を装いながら尋ねた。
「ねえ、みんなはわたしの中に夢路さんがいるって言ったら信じる?」
沈黙の質が変わった。弛緩から緊張へと。凍った空気を溶かすようにして、空調音がごおおと響く。
「何を言い出すかと思えば」夢路はため息を吐いた。「あり得ないことを言うものじゃないわ。あなた、こっちに来たのは最近じゃない。これまでの依代はみんなこのあたりの少女だったのよ」
「いや、あり得ない話ではないだろ」カナは草加煎餅をかじりながら言った。「たとえば、知佳が越してきてから、その前の依代が事故死でもすればそういうことも起こり得るんじゃないか」
「つまり、ゆーさんからいったん別の依代を経由して――ってことね」蒼衣は言った。「その場合、ここにいる夢路さんは偽物ってことになるけど」
「だから、あり得ないのよ」夢路は言った。
「わたしも何も自分がそうだって主張してるわけじゃないよ」知佳は言った。「わたしが言いたいのは――、もし自分が依代になったとしても夢路さんが接触を図ってこなければ自覚できないってこと。依代は夢路さんと念話みたいなことはできないんでしょ?」
解離性同一性障害でも、人格間のコミュニケーションが可能な場合とそうでない場合がある。そもそも、他の人格の存在を自覚できないことも多い。
「また余計な心配をしたものね」夢路は呆れたように言った。「たしかに、夢路にそういうことはできないわよ。瑞月とやりとりしようと思ったら、紙かスマホを経由するしかない。だけど、夢路がこうして存在する以上、そんな可能性はないから安心なさい」
「そうだな。完全に否定もできないけど根拠もないのに疑ってもしょうがない。可能性っていうなら、世の中可能性だらけだしな」
「そうね、それを言い出したらわたしたちだって自覚がない依代の可能性もあるわけだし」
「じゃあ、根拠があったら?」知佳は言った。「自分の中に夢路さんがいるかもしれないっていう根拠」
「客観的に依代であることを証明するのはむずかしいだろ」
「そうね、市川さんはもうりんご様にまつわることをおおよそ知ってしまったわけだし。依代しか知りえないこと、というのは限りなく少ない。ゆーさんみたいに、巫女と接触する機会がない状態でないと、説得力には欠けるわね」
「そうだね」知佳は言った。「それは尤も」
「本気で言ってるわけじゃないんだろ」カナは二枚目の煎餅に手を伸ばした。
「発想としてはおもしろいけれどね」蒼衣は言った。
「さっきも言ったけど自分がそうだって主張するつもりはないの」知佳は弁解した。「ただ、みんなの意見が聞きたいだけ。わたしが依代じゃないとしたら、これにどう説明をつけるのか」
知佳はノートのページをめくった。最後のページに折り畳まれた切れ端が挟まっている。
知佳はそれを広げ、炬燵の上に置いた。カナたちが目線を向け、文字を追いはじめる。
はじめまして、市川知佳さん。
わたしは迎夢路。知っているでしょうけど、りんご様と呼ばれる存在よ。
五日前、先代の依代が自殺してあなたに宿ることになったわ。
ちなみに、その前はあなたもご存じの天羽六花に憑いていた。
この二日、あなたの中から《茶楽部》の様子を見させてもらったからだいたいの状況は把握しているつもり。
詳しいことはまた改めて伝えるけど、ひとつだけ忠告しておくわ。
カナたちはまだ、あなたに《KK文書》のことを話してないみたいね。
彼女たちはもう持ってるわよ。
嘘だと思うなら鎌をかけてみなさい。神隠しに遭った親友を取り戻すため、心臓を捧げた少女について、ね。
反応は各人各様だった。カナは動じた様子もなく、黙々と目線を動かしている。蒼衣は言葉を失ったように、真剣な表情。夢路――瑞月は震えていた。
「これ、どこで」夢路と瑞月の中間のような声音が漏れた。そして、失言に気づいたのか、はっとした表情を見せる。
「否定しないんだね」知佳は言って切れ端を下げた。「やっぱり知ってたんだ」
三人は押し黙った。否定も肯定もなく、目配せで申し合わせることすらできず凍りついている。
「違うのよ」蒼衣は言った。「ただ――」
「わかってると思うけど、これはわたしの作文だから」知佳は言った。「わたしは依代じゃない。たぶんね。少なくともそう疑う根拠はない」
知佳はリュックを手に立ち上がった。もう片手にコートを下げ、ドアを目指す。
「知佳」夢路の声音だ。子供を叱りつけるような声。「座りなさい。あなたは説明する義務がある」
「説明を聞く権利がある、の間違いじゃないの?」知佳は振り返らずに言った。スリッパに足を突っ込む。
「知佳!」夢路が繰り返す。
「最初から――」知佳は言葉を絞り出した。「最初からわかってた。どっちでもいいと思ってた。どうでもいいと思ってた。何が本当だってかまわないって。わたしは何も――信じないから」
「市川さん」蒼衣が呼ぶ。
「でも、騙されてるってはっきりわかったときは考え直す。それもずっと決めてたことなんだ」
「知佳」カナが呼ぶ。
知佳はドアを開け、「何?」と尋ねた。
「やめる気なら、手続きだけはちゃんとしてくれ」
「カナ!」夢路はがなった。
「最初から知佳は部外者だったんだ」カナは言った。煎餅が割れる音が聞こえる。「そうだろ」
「違うのよ、市川さん」蒼衣が言った。「カナちゃんは巻き込みたくないっていう意味で」
知佳は振り向いた。三対の瞳が自分に向けられている。
「巻き込んだのはそっちじゃない」知佳は唾を飲み込み、努めて冷静に聞こえるよう言った。「巫女に誘ったのは誰? 友達になろうって言ったのは」
「そうだな」カナは認めた。「でも、嫌ならいつでも出ていけばいい。誰も止めないから」カナはそう言って煎餅を残らず口に含んだ。そして、いつもそうしているようにごろんと横になる。背を丸め、炬燵の布団を体にかけるようにして。「行くなら早いとこ行ってくれると助かる。ドアが開いたままだと寒いからな」
カナはこちらに背を向けていた。表情や声音からはいかな感情も読み取れない。
「……わかった」知佳は言った。「今日は帰るけど、手続きはちゃんとするから」
「カナ。拗ねてるの? そんなのらしくな――らしくないわよ」夢路が声をかける。カナは何も答えない。「って、寝てる? まさか。狸寝入りよね? カナ、なんとか言ったらどうなの。カナってば。こんな子供みたいなこと――」
「嘘みたい。カナちゃんがこんな――」
知佳は作法室の喧騒を背に、ドアを閉めた。
深呼吸を繰り返し、ばくばくと脈打つ鼓動を押さえ込もうとする。まったくこの
きっとカフェインのせいだ。思えばいつもより苦味が強かった。長い時間をかけて煮出したのだろう。カフェインだって多かったに違いない。
自分にそう言い聞かせながら、知佳は歩き続けた。
一度も振り返ることなく、作法室を後にする。
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