44 闇の奥《ハート・オブ・ダークネス》

 すぐ耳元でメッセージアプリの通知音が聞こえた。


 どのくらい眠っていたのだろう。部屋の照明が点いている。壁掛け時計は六時過ぎの時間を示している。午前か午後か、それすらわからない。


「知佳ちゃん? まだ寝てるの?」


 おばさんの声が聞こえる。そうだ、わたしは市川知佳。ここは彩都市の市川家だ。東京で暮らす次女つぐみの部屋――


「ご飯できたわよ」おばさんがドアを開いた。「どうしたの? ひどい顔」

「……アヤちゃんは?」ローテーブルの上はすでに片付いていた。アヤの荷物も見当たらない。

「帰ったわよ。そのときから寝てたの?」

「あー、ううん。思い出した」知佳は答えた。「すぐ行く」


 おばさんがドアを閉めると、知佳は立ち上がった。眩暈。頭がずきずきと痛む。枕元に転がっていたスマートフォンを手に取った。メッセージを確認する。


   明日の放課後また特訓に付き合ってくれる?


 蒼衣だ。


 バレンタインまでもう数日だ。練習しておきたいのだろう。


 知佳は返信しかけて、指を止めた。


 アヤの――夢路の話を思い出したのだ。


   *** ***


 そう。あの子たちから聞いたことはないかしら。六花の最後のあがき、《KK文書》のことを。


 あの子は歴代のOG――それも記録に残っていないUFO事件以前の巫女を探し、訪ね歩いた。一種のフィールドワークね。そうしてりんご様という信仰の歴史を集成した。


 いいえ、何も。


 何もわからないということが書いてある。ただ、あの子はそこに希望を見出そうともしていた。


 そう。神隠しに会った人間を元に戻す方法、その仮説を。


 もちろん、そんなものないわよ。あの子にもそう言ったんだけどね。でも、あの子にはもうそれしかなかった。自分が消えたとき、カナたちが自分を戻してくれる可能性に賭けるしか。


 六花は歴代の巫女に何か方法がないか尋ねた。もちろん、そんなものを知っている巫女はいない。だけど、その可能性を模索したのは六花が最初でもなかった。

 六花はその子とも会った。

 その子は現役時代に、いろんなものを祠に捧げたわ。本物のりんご、それも高級なものだったり、和りんごを持ってくることもあった。もちろんだからって何かが変わるわけでもない。夢路としてはりんごが偽物だろうが本物だろうがどっちでもよかったし。


 その子は次第にある発想に至った。りんごはそもそも心臓の代替だった。ならば、真に捧げるべきは心臓ではないかと。

 もちろん、だからって人間の心臓なんて一介の女子高生が手に入れられる代物じゃない。スーパーで食肉として売られている心臓を持ってくるのが関の山だった。


 六花はそれを聞いて、尋ねた。人間の心臓を供えたらどうなってたと思いますかって。

 もちろん、その子には答えようがない。その他の巫女も、当然そう。だからこそ、それがあの子の希望になった。人間の心臓を捧げることで、神隠しに遭った人間を返してくれるのではないかと。

 まったく、悪趣味よね。誰も彼も夢路をそういう目で見る。血に飢えた怨霊みたいにね。人間の心臓なんて捧げられたところで、嬉しくもなんともないのに。


 だけど――、六花はそれにすがるしかなかった。

 何もね、あの子も本気で誰かの心臓を手に入れようとか考えてたわけじゃないわよ。でも、その可能性を追求している間は、恐怖に屈さずにすんだというだけ。


 そして、六花はある古い世代の依代にたどり着いた。わざわざ山梨の老人ホームまで会いに行ってね。その子と話した。

 その子は六花に話した。

 りんご様の歴史で唯一、人間の心臓を供物の捧げようとした例について。

 もうずっとむかしのことよ。その子の代よりもさらに前。そして、夢路が話したことが口伝として伝わり、その子にまで伝わった。


 その娘には婚約者がいた。両家の親が決めたことだった。いわゆる政略結婚だけれど――その娘は相手の男を幼い頃から慕っていた。結婚は本望だった。

 だけど、その相手には別に想い人がいた。娘もあるとき、そのことに気づいてね。その日は、泣き暮れたそうよ。

 男の想い人は、娘の親友でもあった。同級生だったの。その親友も男のことを愛していた。叶わぬ恋と知りながら。

 娘は思い悩んだ。このまま大人になれば自分は彼と結婚する。だけどそれは、彼も親友も不幸にする結婚だって。

 そしてある日、親友が消えた。突然、天狗にでも拐われたように。

 りんご様に消された。

 娘は――憔悴する想い人を見ていられなかった。だから、彼に告げた。自分の心臓を使ってほしいと。

 彼はもちろん拒んだ。不確かな話だしね。だけど、娘の決心は固かった。

 だから――


 後は言わなくてもわかるでしょ。娘は自ら毒を呷ることにしたの。そしてそれを彼にだけ告げ、死後に自分の心臓を取り出し捧げる――そういう計画を立てた。


 迷惑極まりないでしょう。それにとんだ大馬鹿者よ。だってそんなことしたって何の意味もないんだから。


 その話を、六花は聞いた。

 聞いてKK文書に記した。そのはずなんだけどね。


 けっきょく六花はその方法に代わる希望を見つけることはできなかった。KK文書もそう結論付けられてる。

 だけど、あの子は、「それは語り手が直接見聞きしたことではない」とも書き残していた。つまり、夢路が嘘をついた可能性もあると。

 文書は瑞月たちの手に渡ったはずよ。カナもそれを認めてるわ。


 やっぱり、あなたは知らないみたいね?

 ねえ、なぜだと思う?

 なぜ、あの子たちは話さなかったんだと思う?

 KKのことを。

 供物にまつわる実験、神隠しに遭った人間を戻す方法のことを。


 知られたら、何か困ることでもあるのかしら。

 たとえば、そうね――


   *** ***


   明日の放課後また特訓に付き合ってくれる?


 知佳の指は止まったままだ。メッセージにはもう「既読」がついた。蒼衣にも、知佳がこのメッセージを読了済みであることが伝わる。


 返事をしなければならない。


 しかし、――


 ――あの子たちがどれほど六花を慕っていたかはもう知ってるでしょう? だったら、あの子を取り戻すためなら何をしたっておかしくはない。そうは思わない? それがたとえ絶望的な賭けでも、試そうとするとは思わない?


 人目につかないよう招かれたことに別の意図が――


 ――カナの家は大家族で、瑞月の家はタワーマンションでしょう? だから、やるとしたら蒼衣の家でしょうね。家主が留守にしがちな、庭付きの一軒家。それに大型犬だっている。にはうってつけでしょう。


 冷蔵庫が空だったことに別の意図が――


 ――都合がいいことにあなたは小柄だしね。一度にはできなくても隠すのは比較的容易だし、最終的な処理だってその分早く済む。蒼衣は不器用だけど、なにせミステリ作家の娘だもの。という知識くらいはあるし、父親の書斎で調べることだって可能なはず。実際の作業はカナたちも手伝うでしょうし。


 知佳が眠ってしまったことに別の――


 ――目的があくまで心臓だけなら、睡眠薬でも使って眠らせて拘束したうえでお浴槽にでも沈めるのが容易でしょうね。精々、気をつけなさい。出されたものに何が入ってるかわかったものじゃないわよ。


 何を馬鹿なことを。


 現に自分はこうして生きているというのに。


 ――心臓を取り出すにはどうすればいいと思う? 心臓は正面と背面を肋骨に守られている。だからね、鳩尾の下のあたりから、肋骨の縁に沿うようにして切り込みを入れるの。アルファベットのVを逆さにしたような切り込みをね。そして、そこから手を突っ込んで引きずり出す。胸の上から圧迫を加えて飛び出させるって手もあるわね。体の上で跳び跳ねるの。肋骨は折れるけどね。


 しかし、どうだろう。というものがある。

 彼女たちは血に飢えた殺人鬼ではない。躊躇いだってあるはずだ。だから今日までし損ねてきた。いまは次の機会を窺っているところかもしれない。


   ごめん


 知佳はメッセージを送信した。すぐに既読がつく。

 続く言葉を送信しようとするが、手が震えてうまくできない。深呼吸を繰り返しながら入力する。


   明日は予定があるの


 間髪入れず返信があった。軍隊風に敬礼するウサギのスタンプだ。「ラジャー」という台詞が入っている。


   ごめん

   もう一回くらい付き合えるといいんだけど


 なぜだろう、そんなメッセージを送ってしまった。


 社交辞令だ、と知佳は自分に言い聞かせる。ただの定型的な断り文句。それ以上でもそれ以下でもないし、何を約束したことにもならない。


 知佳はスマートフォンをベッドの上に投げ出した。自分も再度、横になる。

 仰向けになり、天井を見上げた。回り続けるシーリングファンと、ウォールステッカーの小鳥たちを眺めながら考える。


 いまはまだ何もわからない。

 判断なんてしようがない。

 だから――

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