42 クッキーの崩れる音
*
その後どうなったのかはわからない。
夢路さんは娘の試みが失敗に終わったことを仄めかしていたけれど、詳しく語ろうとしなかったから。
それは個人の特定を避けるためかもしれないし、口伝の過程で失われたからかもしれない。あるいはまったくの出鱈目だったからかも。
娘は自死を決行できたのか、婚約者は心臓を取り出したのか、失踪した親友は戻ってこれたのか。
何もわからない。
当時は簡単に調べられるような道具もなかったし――曖昧な話だから、皆あまり気に留めることもなかった。依代の候補だったわたしを除いては。
でも、時代は変わった。
そんな事件が起こってたら、きっとあなたたちも知ってるはずよね。
ええ、あなたたちの前に来た天羽って子も心当たりはないようだった。
だから、きっと何も起こらなかったのよ。
*
秘密のレッスンは続いた。
アヤとの対面授業も、蒼衣とのチョコ作りも。
平日の放課後は作法室で一時間ほどだらだらしてから、家に帰り、アヤの勉強を見る。土曜日は朝からということもあった。そして予定の合間を縫って蒼衣の家でチョコ作りだ。あれから蒼衣の父とも会った。どことなく
知佳は明日の自分への申し送りを手帳アプリで管理するようになっていた。
日付はバレンタインへと近づいていく。
転校してもう一ヶ月近く経つのだ。
まさか転校先に神様がいるとは思わなかったけれど、そのお陰で作法室という居場所を手に入れることができた。
とはいえ、気がかりなことがないわけではない。
たとえば、あのメモだ。
――猫の行方を知っているか。
差出人はまだわかっていない。
意図もわからない。
あれ以降、類するメモを受け取ることはなかった。下駄箱を開けるときはいつも息が詰まる思いをしたものだが、最近ではもう忘れていることの方が多い。
一時は小町が言っていた動物虐待事件と関係があるのではないかと考えた。
調べたところ、事件は知佳が風邪で寝込んでいる間に起こったらしい。その猫は、隣市との境に流れる川の岸に引っかかっていた。明らかに人の手によるものとわかる傷があったようだ。犯人が殺した後、川に捨てたのだろう。
犯人はまだ捕まっていならしい。あれから地元のニュースレターにも登録したが、続報は一つもなかった。
だからって、犯行がこの一件きりとは限らない。
たまたま猫が岸に引っかかっていなければ、この事件は発覚していなかったのだ。この事件以降、あるいは以前にも同じような犯行が行われていても不思議ではない。犯人は一定の周期で猫を殺し、川に流していたのかも。
野良猫の寿命は短い。二年から三年程度だ。一匹や二匹消えても誰も真剣に探したりしない。寿命を迎えたか、居を移したと考えるだけだろう。
――猫の行方を知っているか。
あのメモが投げ込まれたのは、ちょうど事件と同時期だ。
しかし、あの一件で猫は見つかっている。行方も何もない。そこが噛み合わないのだ。死後のことを尋ねているとでもいうのだろうか。
あるいは、差出人の周囲で他に消えた野良猫がいたのかもしれない。そして事件のことを知り、同じように殺されたのではないかと――
しかし、それをなぜ知佳に?
――はじまりはだいたい猫なんだって。
嫌な可能性がちらつく。
――操緒。
差出人は知っているのだろうか。知佳の過去を。実理や操緒とのことを。
まさか、いくらなんでも早すぎる。
――これって君のことじゃないの。話、聞きたいな。
二番目の学校では、バレるまで二ヶ月半かかった。同じ大阪で、事件から間もない頃でもそれだけかかった。
なのに、現場から遠く離れたこの場所で、半年以上経ったいま、それほどまでに早く知佳の過去に行き着くなんてことがあるだろうか。
そんなことを考えては、心臓が馬鹿みたいに脈打つのだった。
世の中、わからないことだらけだ。
りんご様のことだってけっきょくどこまでが本当の話なのかわからない。
カナたちがどこまで本気で信じているのかも。
知佳はただ自分に都合がいい立場をキープして保留を決め込んでいるだけだ。
信じたわけではない。
ただ、聖書を信じていないからといってキリスト教徒と友達になれない理由にはならないだろう。
キリスト教徒がみな同じことを信じているわけでもない。同じ宗派だって、個人によって温度差があるはずだ。
だからそう、何を信じるかなんて些末な問題だ。
知佳は何も信じない。
身の危険を感じたら、逃げるだけだ。
そして日々が流れ、その日が来た。
「アヤちゃん、来てるわよ」
家に帰ると、二階を通ったときおばさんにそう知らされた。
「ちょっと待ってね。そろそろ帰ってくる頃だろうと思って、お菓子を用意してたの。持っていって」
知佳はおばさんからトレイを受け取った。二人分のクッキーとココアだ。
「それにしても安心したわ」おばさんは微笑んだ。「友達ができただけじゃなく、後輩にまで頼られるようになるなんて」
「後輩になるかはまだわからないけどね」
「できるわよ」おばさんは言った。「アヤちゃんは真面目な子だし、知佳ちゃんも教えるの上手でしょう?」
「どうだろ」
アヤは自覚があるように集中力が足りない。文章を読むのに時間がかかるし、ケアレスミスも多かった。
単純な計算問題なら支障ないが、時間がかかる問題に突き当たると落ち着きを失い、貧乏揺すりや爪を噛んだりといった挙動を見せる。
しかし、何より問題なのは、自分に自信がないことだ。
自分は頭が悪いと決めつけ、すぐに投げ出そうとする。泣き言を言う。
これでは負のスパイラルだ。自信がないから辛抱できないし、辛抱できないから自信がない。
勉強そのものというよりは、精神面でのサポートが必要な子だった。
こちらも根気を要求される。
たった一年先に生まれただけの自分にどこまでのことができるだろう。
そんなことを思いながら、自分の部屋を目指した。
「アヤちゃん、入るよ」言いながら、ドアを開ける。
アヤはローテーブルの上に突っ伏すようにして眠っていた。小さい肩を上下させ、すうすうと寝息を立てている。
そういえば、日中に眠くなることがあるのだと言っていた。
――ちゃんと寝てるのに。
――セロトニンが足りてないせいかも。日光によく当たるといいよ。
そんな会話をしたのを思い出す。
知佳はトレイをローテーブルの端に置いた。
リュックを下ろし、着替えはじめる。ブレザーにパーカー、ブラウス、スカートと順番に脱いでいき、ニットのワンピースを羽織った。
アヤは相変わらずすやすやと寝息を立てている。カナの寝顔を見ているようで、不思議な気分になる。
知佳は対面に座り、カップからココアを飲んだ。冷えた体が内側から暖まっていく。自分が辞書を編纂するなら、きっと「幸福」の項目でホットココアへの言及を加えるだろう。そんなことを思いながら、アヤの体を揺すった。
「アヤちゃん、起きて。ココア冷めるから」
アヤはむにゃむにゃと口を動かしながら目覚めた。目がとろんとしている。おかゆの寝覚めのようだ。
「ん……ここは」アヤは目を擦りながら言った。
「忘れたの? わたしの部屋だよ」
アヤは目を大きく見開き、二、三度瞬きした。知佳を凝視する。それからここがどこか確認するかのように部屋を見回した。
「お菓子も持ってきたから――」
「そう」アヤは遮るように言った。「やっと機会が巡ってきたのね」
いつもとは違う口調だ。声も低い。戸惑っていると、アヤの声はこう続けた。
「はじめまして。市川知佳さん? わたしは迎夢路。知る人ぞ知る神様よ」
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