28 カフェ・ド・マンサーの憂鬱
カナは卓上のベルを鳴らした。店員を呼ぶためのものだろう。程なくして、老婦人に接客していた瑞月がやって来た。
「いかがなさいましたか」
瑞月は接客用の微笑を浮かべて言った。夢路のときよりもさらに低い声音を使っている。
「ちょっと話せる時間あるか」カナは頬杖を突きながら言った。
「わたしとですか?」瑞月は苦笑するように言った。「申し訳ありません。あいにくと勤務中ですので」そして、カウンターを気にするように少し小声になり続ける。「うちのマスター、ああ見えて怒らせると怖いんです」
あくまでウェイターとして接するつもりのようだ。それも六花の真似なのか妙にフランクな。
夢路にしてもそうだが、瑞月は役に入り込むタイプらしい。逆に言えば柔軟性がない。それぞれの人格に連続性がないのだ。
「ああ、そういう面倒なあれか。難儀だな」カナは欠伸を漏らした。「わかったよ、店員さん。ところでちょっと訊きたいんだけど、この店はなんであれがないんだ」
また「あれ」だ、と知佳は思った。単純に思い出せないのか、思いつきで適当なことを言っているのかはわからない。しかし、このあとの展開は何となく予想がつく。早くも、このパターンに慣れてしまっている自分がいる。
「カナちゃんが言っているのはきっとあれのことでしょう?」予想通り、蒼衣が補足した。「こういうむかしながらの純喫茶には欠かせないあれ」
「あれと言われましても」瑞月は笑みを崩さず言った。「察しが悪くて申し訳ありません。そのあれというのが何のことか教えていただいても?」
瑞月もたいした役者だ。二人のそばにいればこんなやり取りは日常茶飯事だろうに、呆れた様子も見せず、あくまで客の無茶振りに戸惑う店員を演じている。
「ああ、言い方が悪かったか」カナは言った。いつの間に取り出したのか、一〇〇円硬貨を握っている。「ほら、ルーレット式のおみくじ機だよ。星座の記号が書かれてるやつ。あれやりたいんだ」
それなら知佳も子供の頃やったことがある。卓上に置いてある小さな球体の機械で、帯状に並んだ十二星座の記号の上にそれぞれ硬貨の投入口があるのだ。自分の星座の上にある投入口に硬貨を入れ、レバーを引っ張ると針が回り出し、巻物状のおみくじが出てくる。大吉や小吉といった結果が書かれている一般的なおみくじだが、ルーレットの出目によって異なる部分もあり、より細かく運勢を占えるのだ。
「おみくじ――ですか」
瑞月は知らないらしい。量子力学の講義でも受けているかのようにポカンとしている。しかし、はっとしたように咳払いをして、
「不勉強で申し訳ありませんが、わたしには答えかねます」肩をすくめる。「マスターに尋ねても?」
「あー、いや、いいや」カナは硬貨を引っ込めた。「悪いな。別にクレームをつけようってんじゃないんだ」
「申し訳ありません」瑞月は繰り返した。
「残念だったわね」
蒼衣は子供を慰めるようにカナの肩に手を置いた。少し白々しい。これは何か狙いがある。
「用件は以上でしょうか。でしたら、わたしはこれで――」
「そうだな」カナが遮った。「じゃあ、代わりと言ってはなんだけど店員さんが占ってくれ」
「わたしが?」瑞月が目を丸めた。
「そう、コーヒー占いだよ。やってるんだろ?」カナはそう言って、一〇〇円硬貨を瑞月に向けて掲げた。
「しかし――」
「ああ、すまん。一〇〇円じゃ安かったか。いくらだ?」そう言って、がま口の財布に手を突っ込む。
瑞月は数刻考えるようにしてから、ため息を吐き、それからごまかすように咳払いをした。「失敬」と詫びて続ける。
「……かしこまりました。しかし、お代はいただけません。まだ修行中の身ですので」
カナはぴたりと手を止めた。
「そうか、それはついてるな」あくまで淡々と言う。
してやったり、といった様子で微笑んでいるのは蒼衣の方だ。意図はわからないが、瑞月にコーヒー占いとやらをさせたかったらしい。それもただで。
素の瑞月ならともかく、ウェイターとしてはむげに突っぱねるわけにもいかないのだろう。カナと蒼衣はそこを突いたのだ。事前に相談もなく、よくこんな連携ができるものだ、と呆れ半分で感心してしまう。
「ゆーさんはコーヒー占いが得意だったの」蒼衣は知佳に向かって言った。「それはもう天才的なカフェ・ド・マンサーでね」
「カフェ……何?」
「カフェ・ド・マンサー。ユキがそう自称しててな」カナが言った。「コーヒー占いをする人って意味らしい。見たことないか? カップに残った跡を見て運勢を占うやつ」
それならテレビか何かで見たことがある気がする。
「本来はトルココーヒーっていって、フィルターで濾さないコーヒーでやるものなんだけど、そこはゆーさんの我流でね」
「ユキは口がうまかったからな。それに人をよく見てた。客を観察して、最も望ましい占いの結果をアドリブで考えつくことができたんだ」
「ああ、そういう」
それなら形式はあまり関係ない。結論ありきでいかにこじつけるかの勝負だ。逆に言えば、自由度が高い分、人を見る目がものを言う。
「みーちゃんも修行中なのよ。ね」
瑞月はそれには答えず、
「何を占いましょうか」
ウェイターモードに入っているせいか、瑞月の名前は耳に入らないらしい。
「うーん、そうだな。部活だ」カナは言った。「やめるって言い出した奴がいてな。そいつが戻ってくるかどうか占ってくれ」
これが狙いだったらしい。間接的な形であれ、瑞月の意思を聞き出そうというのだ。
なるほど、これはめんどくさい。
「……わかりました」
瑞月はそう言って、カナのカップをソーサーごと引き寄せた。次いで、ソーサーを引き抜き、カップに被せる。そして上下逆さまにひっくり返した。何か念じるようにしてカップをソーサーの上で回し、数秒後にもう一度ひっくり返す。
「どうだ?」
瑞月はむずかしい表情でカップを見聞していたが、やがて口を開いた。
「見えますか?」
瑞月はカップの底を示した。縁に沿うようにして、乾いたコーヒーの跡が残っている。
「三日月の形です。これは一般的にはロマンスを暗示する形であり、したがって、部活においては――」
うまい考えが浮かばないのだろう。様子が怪しい。
「ああ、そうだ。その部員の名前は瑞月っていうんだ。字は瑞々しいの瑞にうさぎがいる月な。何かのヒントにならないか」カナが助け船を出す。
「な、なるほど」瑞月は天啓を得たりと言った様子で言った。「い、いえ。いまのはあくまで形式的な問いかけであって――レトリックというか。とにかく、この三日月が意味するところは明らかです」
「わからないな。教えてくれよ」
「つまりですね。この三日月は途切れ途切れになっている。雲がかかっていて、だから、そう、その人はきっと、雲の背後に隠れるようにして、あなたたちと距離を置いているということです。それはおそらく鋼のように固い意志で――」
「雲は流れていかないのか?」
瑞月はしばし押し黙り、答えた。
「そうですね、申しづらいですが、そう簡単には流れていかないかもしれません。よっぽど強い風が吹かなければ」
「つまり?」
「その人を連れ戻すのは骨が折れるかもしれません。そういうことです」
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