29 猫が最期に還る場所

 その夜――


 おかゆは小町の膝の上ですやすやと寝息を立てていた。体を丸め、安心しきった表情で。何かもごもごと呟くようにしながら。


「寝てばかりなんだよ」小町はささやくように言った。「飼い猫っていうのはそういうものだけどね。特に子猫と老猫はよく眠る。おかゆももう十八だし、人間でいうと九〇歳くらいかな。とっくにおばあちゃんなんだ」


 小町の部屋は知佳の部屋の隣にあった。話し相手がほしいらしく、小町はよく知佳を自分の部屋に呼ぶ。これまでほとんど使う機会がなかったらしい、来客用の小さな座椅子を用意して。

 小町は今年で二九歳になる、市川家の長女だ。身長はそこまで低くないはずだが、猫背ぎみで、顔立ちにはどこか幼い雰囲気が残っている。髪は背中を覆うほど長く、いつも寝癖がついている。美容院に行くのも億劫らしく、髪は自分で切っているという話だ。

 いまのところ、知佳は彼女が外出するのを見たことがない。本人曰く、「外に出る必然性を感じない」という。自分は「ダメな大きな猫」なのだとも言っていた。


 ――わたしみたいになっちゃいけないよ。


 小町はよく自嘲を込めて忠告した。


 ――気を付けてね。母さんに甘やかされすぎるとこうなるから。


 そうは言っても、小町は小町で幸福そうではあった。少なくとも、おかゆと戯れているときはそう見える。


「知佳ちゃん、学校はどう」


 小町が尋ねた。


「どうってまだ二日目だし」


 知佳は答えながら、今日一日を反芻した。長い一日だった気がする。朝に五條が迎えに来て、それから――


「何、『忘れてた』って顔して」小町が言った。

「そんな顔してない」知佳は誤魔化した。「……ねえ、小町ちゃんは『猫の行方』ってわかる?」


 あのメモは帰るときに回収した。紙の裏まで確認したが、メッセージはあの一文だけで、差出人が特定できるような手がかりもなかった。


「何それ。暗号?」

「かもしれない」知佳は付け加えた。「今日ちょっとそういう落書きを見て。『猫の行方を知っているか』っていう」


 小町は少し考えるようにしてから、言った。


「猫は自分の死期を悟ると、姿を消すって聞いたことない?」小町は続ける。「もちろん、おかゆは外に出さないし、たぶんこの家で眠ることになると思うけどね。最近、物騒だし――聞いてる? 区内で猫の死体が見つかったらしいんだ。明らかに人の手によって殺されたとわかる死体が」


 とくん、と心臓が跳ねた。


 ――はじまりはだいたい猫なんだって。どこにでもいるし、手懐けやすいから。人間と同じ哺乳類だしね。だから、彼らは猫を捕まえて解体する。首を切り落としたり、内蔵を引きずり出すことに興奮を覚える。


「さっきも言ったけどね」小町は続けた。「猫はよく眠る。寝る子と書いて『ねこ』と呼ばれるようになったって説もあるくらいだ。きっと生きてる時間のうち三分の二くらいは眠ってることになるだろうね。といっても、人間みたいに長く深い眠りじゃない。短くて、浅い眠りがほとんどなんだけど」

「レム睡眠ってこと?」


 人間の睡眠には波がある。脳が活動しているレム睡眠と、休眠状態に入るノンレム睡眠を交互に繰り返すのだ。


「そ。レム睡眠のとき、人は夢を見る。猫もそうだと言われている。だから猫は、現実より夢の中で過ごす時間の方が長いと言えるかもしれないね」

「そう考えると少しおもしろいけど、それが?」

「猫にとっては夢の中こそがホームなのかもしれないってこと。だからね、彼らはもしかしたらその夢の世界に呼ばれるのかもしれないよ。ここじゃないどこかへ。夢で見る場所へ」

「まさか」


 それではまるでだ。




 ――ユキは夢路を通していろんなことを知ったらしい。


 喫茶レムリアからの帰り道で、カナは不意に切り出した。


 ――夢路が表に出てる間、依代の意識はない。逆に夢路は依代を通して常に外界を認識している。ただし、それ以上のことは知り得ない。依代が知り得ないことは夢路も知り得ないってことだ。だから、ユキと夢路は主に交換日記みたいな形でやり取りしてたらしい。


 まるで、多重人格だ。多重人格――いわゆる解離性同一性障害でも、全人格の記憶を持つ支配的な人格が存在することがあるという。この場合は夢路だ。


 とはいえ、六花が解離性同一性障害だったと考えるのも無理がある。解離性同一性障害を発症するのは主に幼い子供で、それも極度のストレスに曝された場合に限る。同居していた瑞月が何も気づかないはずがない。


 ――つまり、夢路さんは背後霊みたいなもの?

 ――それが少し違うらしい。夢路の本体――というのがあるとして、それはこの世界には存在しない。あの世――っていうのもまた厳密には違うらしいけど、とにかく、そういう「ここじゃないどこか」に夢路の本体があるって考えてくれ。自分はだから、ラジカセみたいなもんだってユキはよく言ってたっけ。夢路は放送局だな。その電波と周波数を合わせ、送受信することができる資質の持ち主。それが自分なんだって。


 つまり、夢路の魂はどこか遠くから依代の体を操っているということらしい。


 ――ゆーさんには不思議な直感力があった。それが依代の資質だったのかもね。ゆーさんだけじゃなく、たとえばイタコやユタみたいな霊媒者はそういう資質を持っているのかもしれない。

 ――そうだな。ついでに、ユキは神隠しも似たような理屈なんじゃないかって考えてた。

 ――どういうこと?

 ――市川さんはハーメルンの笛吹き男って知ってる?

 ――ドイツの民話だっけ。たしか、鼠退治を依頼された笛吹きが報酬を踏み倒されたことに怒って子供たちを連れ去っちゃうんだよね。笛の音色で操るみたいにして。

 ――そう。あれも一種の神隠しと言えなくもないわ。その笛吹き男にあたるのがりんご様――夢路さんね。そして、その子供たちが神隠しに遭った少女たち。夢路さんはあの世から働きかけ、少女たちをこの世ならざるどこかへと導く。

 ――依代を操るみたいに?

 ――ユキはそう考えてた。夢路はそこのところ詳しくは教えてくれなかったったらしいけどな。神隠しに遭った場合、肉体はどうなるのかもよくわからない。物質的に消えるのか、それとも操られて人目のない場所へと向かうのか。生きてるのか死んでるのか。戻ってくる可能性があるのかどうか。

 ――でも、少なくともいままでに戻って来た人はいないんでしょ。

 ――ああ。いれば、何かわかるかもしれないのにな。




「やっぱり学校で何かあった?」

「え」不意の問いかけに思わず声が漏れる。

「母さんに質問攻めにされてたもんね」小町は続けた。「何も変わったことはないって言ってたけど、本当は何かあったんじゃない?」


 愛猫そっくりのアーモンドアイが知佳を見つめる。

 ペットは飼い主に似るというが、実際には飼い主が自分の顔に似たペットを選んでいるだけだという。小町が面長なら、いまこの部屋にいるのはおかゆという名のアフガンハウンドだったかもしれない。

 犬は嫌いじゃないが、大型犬となると少し怖い。誘われても小町の部屋には入り浸らなかったかもしれない。学校のことを訊かれて返答に困るようなこともなかったのかも。そんなことを思う。


「別に」知佳は座椅子の上で脚を抱え直した。「ちょっとクラスの子たちと寄り道しただけ」

「へえ。いいなあ。そういうの。青春だね。お姉さん、憧れちゃうな」

「……そう言う小町ちゃんは高校生時代、どんなだったの」

「お、それ聞きたい?」小町は目を輝かせた。「小町お姉さんの輝かしいスクールライフについて」

「あー、うん。やっぱりまた今度時間があるときでいい」


 小町は知佳を半目で睨んだ。


「知佳ちゃん、最近お姉さんの扱い雑じゃない?」

「小町ちゃんのこと丁寧に扱って何か得があるの?」

「あるとも」小町は得意げに言った。「まず、おかゆに懐かれる方法がわかります」

「別に知りたくないけど」

「またまた」小町はからかうように言った。「知佳ちゃんって動物好きなのに、猫には妙に淡泊というか、興味ないふりするよね。陰では懐かせようとしてるのお姉さん知ってるんだけどな」


 懐かせようとしたわけではない。視界をうろちょろされると触りたくなるだけだ。猫が特別好きということもなければ、嫌いということもない。


「……どうせ、わたしはツンデレだよ」

「それ自分で言う人あんまりいないよ」


 そうかもしれない。むずかしいものだ。


「高校時代のことだけどね」小町は不意に言った。「わたしは友達なんて一人もいなかった。恋多き青春だったからね。彼氏をとっかえひっかえして――それでトラブルになることもあったし」

「……なんか小町ちゃんがすごくモテたみたいに聞こえる」

「知佳ちゃんの失礼な発言は聞かなかったことにして」小町は続けた。「当時はね、それでよかったんだ。誰かに求められるのが心地よかった。誰かの特別になるのが。だけど、ある日ふと談笑する同級生たちとすれ違ったとき、ふと思ったんだ。ああ、こういう青春もあるんだなって。友達ってものがすごく眩しく見えた。いっそ妬ましいほどに。変だよね。隣には彼氏がいて、満たされてたはずなのに」

「隣の芝生は青く見えるってだけじゃない?」

「それもあるだろうけど」小町は苦笑した。「その子たちはクラスで特に目立つ方でもなかったし、むしろ教室の隅っこで慎ましく談笑しているようなグループだった。わたしがそれまでほとんど気を留めたことがないような子たちだったんだよ。なのに、どうしてだろうね。あの日はふとそう思ってしまったんだ。この子たちは彼氏もいないのになんでこんな楽しそうなんだろう、なんで自分はあの輪の中にいないんだろう、なんで自分は男の腕にぶら下がってるんだろうって」


 おかゆが欠伸とともに目覚めた。眩しそうに目を細めながら周囲を見回す。小町はその頭を撫でながら続けた。


「でもね、そのときは素直に認められなかったんだ。むしろ彼氏と一緒になって彼女らを馬鹿にしてた。酸っぱいブドウってやつだね。自分には手に入らないから、価値を貶めたかったんだと思う」


 十年以上前の話だ。小町自身のこととはいえ、その解釈が正しいとも限らないだろう。

 小町はきっと青春時代に何かしらの後悔があるのだ。だから、あり得た別の可能性に思いを馳せる。教室の隅っこで慎ましく談笑する日々に夢を見る。


「ねえ」小町が問いかける。「知佳ちゃんはその子たちと一緒にいて楽しいと思わないの?」

「どうだろ。よくわかんない」

「じゃあ、一緒にいたくない?」

「……別に」

「別に、か」小町は呆れたように笑った。「まあ、嫌じゃないならいいんじゃないかな」

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