16 これよりさき怪物領域

「着いたわね」


 気づくと、目的地に着いていた。

 三号館三階北端の手前。噂の作法室だろう。スライド式のドアを前にしている。


「せっかくだから上がっていって」蒼衣が言う。

「でも、わたし――」


 知佳は巫女になることを了承したわけではない。友達になるとも言っていない。カナに飴をあげて、作法室まで運ぶのを手伝うことにしただけだ。


「別に取って食ったりしないわよ。お礼にお茶でもごちそうさせて」

「そう、ただの礼だ」


 ――人の謝意は素直に受け取るものよ。


「わかった」知佳は言った。「ありがとう」

「どういたしまして」蒼衣は微笑んだ。「ちょっとカナちゃんの体重を預けるわよ」


 蒼衣はドアを開けた。


 作法室は畳敷きの小さな部屋だった。玄関があり、部屋の中心に炬燵が設置されていた。床の間には本棚。窓の手前には、クリスマスツリーが飾られたままになっている。


 そして、少女。


 上背のある女子生徒がツリーの前でしゃがみこみ、箱形の飾りを外そうとしていた。ドアが開いたのに気づいて、こちらを振り向く。

 

「あ、蒼衣、カナ。これどういうこと?」少女はむすっとしたように言った。「ツリーしまっとくって言ったよね?」


 蒼衣とカナは顔を見合わせる。


「言ったかしら」「言ったっけ」

「また、そーやってグルになる。言ったじゃん。去年のクリパで! ボクが帰るとき、二人は残るから自分達で片付けとくって」

「そういえばそうだった気がしてきたな」

「そうねー。たしか、みーちゃんが自分は両親とパーティーがあるからって先に帰っちゃったのよね」

「家族とのパーティーがあるならしょうがないよな」

「しょうがないわよね。片付けなかったわたしたちが悪いわ」

「ちょっと待って、ボクを責める流れになってる?」少女ことみーちゃんは慌てたように言った。「あのね、ツリーを出したままだと結婚できないんだよ。クリスマスケーキになっちゃうよ。わかる?」

「あら、わたしはもうみーちゃんを予約済みなんだけど」

「だーもう!」みーちゃんは叫んだ。「そういう冗談はいいから!」


 カナが言った。「でも二人は高校出たら東京で同居するんだろ?」


「そうよ」蒼衣が頷いた。「あの十五夜の約束を忘れたとは言わせないわよ」

「だーもう! めんどくさい!」みーちゃんは唸った。「別に十五夜じゃなかったし、それとこれとは話が――」

「そうだな」カナは遮った。「悪い。長くなりそうだし、その話はまた今度にしよう。それより、瑞月。ちょっと紹介したい奴がいるんだ」

「それよりってどれよりさ。言っておくけど、ボクは何も見てないから。二人が連れてきた子のことなんて見てないんだからね!」


 言いながら、ツリーの影に隠れてしまう。背が高いので隠れきれず、顔が丸々覗いているが。


 長い黒髪に、ナイフで裂いたような切れ長の目――

 酷薄というよりは繊細そうな印象が勝る顔立ち――


 


「みーちゃーん? いつも言ってるでしょ。お客さんに失礼よ」

「瑞月は人見知りなんだ」カナは知佳に言った。「大丈夫だ、瑞月。知佳は逆にこっちが心配になるくらいいい奴だから」

「何それ怖い! 絶対、裏がある!」

「……この子は?」知佳は困惑とともに訊いた。

「この子は小太刀こだち瑞月みづき」蒼衣は言った。「わたしの妹よ」


 なるほど、五條が言っていた最後の「巫女」らしい。

 しかし、姉妹というには似ていない。そもそも二人とも一年生のはずだ。カナに目で尋ねる。


「心の妹だそうだ。二ヶ月違いの」

「あー、」瑞月が気づいた。「どうしよう、い、い、い、慰謝料とか。パパとママに相談しないと」


 では、やはり記憶違いではなかったのだ。

 知佳は今朝、この瑞月という少女とぶつかった。そのはずだった。

 なのに今朝、彼女は「夢路」と名乗り、別人のように振る舞った。

 よく似た双子? いや、いま瑞月が認めたではないか。知佳とぶつかったのは自分だと。


「わたし、出直した方がいいんじゃ」哀れなほど取り乱す瑞月を見て、言う。

「いや、まあ、大丈夫だろ。瑞月にはしばらく眠っててもらうから」

「どういうこと?」

「いいの、カナちゃん?」蒼衣が尋ねた。「ここで

「まあ、話すだけならいいだろ」カナは言った。「朝のこともあるし、いまさらだ」

「え、やだやだ」瑞月が何かを察した様子で喚きはじめる。

「大丈夫よ、みーちゃん。痛くしないから」蒼衣がにじり寄っていく。

「そういう問題じゃな――」


 その瞬間、知佳の視界が闇に覆われた。カナが手で隠したのだ。


「え、何?」

「なんとなく見せない方がいい気がしてな」


 暗闇の中、何か湿った音が聞こえてくる。乱れた吐息、くぐもった喘ぎ声。

 何が起こっているのか、知佳は考えないことにした。暗闇に南極の情景を思い浮かべる。身を寄せ合って猛吹雪に耐えるコウテイペンギンの大円陣を。

 ほどなくして視界が戻った。暗転した間に何があったのか、瑞月が蒼衣にチョークスリーパーをかけている。蒼衣はギブギブと瑞月の腕を叩いているがあまり苦しそうではない。じゃれ合いを楽しんでいるように見える。ほどなくして瑞月が腕を離すと、蒼衣はその場にへたへたと倒れ込んだ。


「まったく、毎度毎度手荒ね」瑞月は口を拭いながら言う。「じゃなかったら、とっくに呪い殺してるわよ」


 先ほどまでより低い声音だった。今朝、の口から発せられるのを聞いた声――


「朝に会ってると思うけど――」カナは言った。「こいつがむかい夢路ゆめじ。八〇年前に心臓を抜き取られた女学生の怨霊――いわゆる《りんご様》だ」

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