15 Psyche
――
いつだったか葛城に訊かれたことがあった。
あれはそう、二人で学校をサボって近くの河川敷を訪れたときのことだ。衣替えの後だから六月に入ってすぐのことだったと思う。夏服でも汗ばむような暑さの一日だった。知佳の丞なんて呼ばれたのはあのときしかない。
河川敷に舞うモンシロチョウを見かけた葛城が思いついたように語りはじめたのだ。
――知佳の丞になった覚えはないけど、知ってる。蝶の羽ばたきが巡り巡って、地球の真裏で台風を起こすかもしれないっていうたとえ話でしょ? 些細な現象が世界に大きな影響を及ぼすかもしれないっていう。
モンシロチョウはひらひらと舞っていた。折り紙の蝶よりもなお薄い羽を羽ばたかせ、気まぐれに低空を飛び回っている。
――さすが。うちの生徒だけあるね。まったく参っちゃうなあ。地元じゃ負け知らずだったこの葛城さんが劣等生気分だよ。誰が予想できた?
葛城は川面に向かって石を放った。きれいなアンダースローだ。石は川面の上を何度か跳ね、対岸に着く前に沈んだ。
――それこそ、よく気象予測が例としてあげられるんだけどね。これだけ技術が進歩して、スーパーコンピューターが演算能力を更新し続けても、天気を正確に予想するのはむずかしい。降水確率はあくまで確率だし、台風のルートだって何通りもの予測結果が出る。
葛城は言いながらまた石を放る。角度が悪かったのか、今度は三回しか跳ねず、すぐに沈んだ。
――いわゆるカオス理論ってやつだね。
――ご名答。知佳フスキー博士には叶いませんにゃ。
――息を吐くようにあだ名増やすのやめて?
――わたしが言いたいのは、つまり、人の心のこと。
――うん?
――天気だってそれだけ複雑な条件が絡み合ってるんだよ。人の心だってそれと同じくらい、あるいはもっと複雑でもおかしくない。もっと混沌としていてもおかしくない。だとしたら、人が他人を理解するのなんて――ううん、自分を理解するのだって不可能だと思う。
――そうかもね。大脳の神経細胞だけで二〇〇億近くあるっていうくらいだし。小脳や脳幹も合わせればもっと。人の心――意識っていうのは、特定の部位じゃなく脳全体の神経細胞が手をつないで作るネットワークの産物で、複雑化した脳の調停役みたいなものだって言うしね。
――さすが理系。わたしはよくわかんないけど――とにかく、だからね、きっと理由なんて誰にもわからないんだよ。わたしがなんで学校をサボりたくなったのかなんて。
葛城は石を放った。対岸までは五〇メートルといったところだろうか。石はその中程まで跳ね、水面に波紋を広げながら姿を消した。
――いまのは惜しかったね。
――知佳ちーはさ、なんでついてきたの。
葛城は続ける。背中を向けたままなので表情は窺えない。ブラウスとチェック柄のスカート、黒髪のショートボブ。高くもなければ低くもない背丈。太くも細くもない手足。そんな没個性的な後ろ姿が見えるだけ。
――知佳ちーだって、受験勉強はそれなりにがんばったんでしょ。じゃなきゃうちには入れないもん。それだけの想いがどこかにあったはず。なのに、クラスメイトがちょっと誘ったくらいでバックれるほど、あの学校の価値っていうのは低いの? いまの知佳ちーの中では。
葛城は振り返り、知佳の顔を見据えた。
黒い髪と瞳。
入学したばかりの頃は長い髪をポニーテールにしていたが、ほどなくしてばっさりと切り落とし、前下がりのボブにしてしまった。「知佳ちーの真似」と言っていたが、冗談なのか本気なのか判断しかねる。
入学した当初から、葛城は知佳につきまとってきた。髪型や喋り方を真似、ベタベタとスキンシップを図ってきた。いっそ、気味が悪いくらいに。
仲良くしたいならしたいで距離の取り方というものがある。
知佳は感覚過敏で、他人から触られるのが好きではない。そう告げても、葛城は隙を見て知佳の頬や腕に触ろうとしてくる。一泊研修の夜、冗談めかしてキスされそうになったこともあった。
彼女だって自称するように中学校までは優等生だったはずだ。社会性がないわけでもない。他の同級生とは適切な距離感で付き合っている。それがどういうわけか、知佳に対してだけはそうした配慮の一切を欠いていた。
「知佳ちーが好きだからだよ」と葛城は言うが、知佳からすれば「知佳ちーをからかうのが好き」と言われる方がまだ納得できた。
このときはまだ知らなかったのだ。
両親の離婚に伴って転校することになる前、葛城と同じ小学校に通っていたということを。
彼女が知佳の古い名前を知っていることを。
高校で再会してすぐに知佳に気づきながら、そのことをずっと黙っていたことを。
――ねえ、知佳ちー。どうして。どうして、わたしに付き合ってくれたの?
葛城は真剣な表情を崩さないまま言った。
――理由なんて誰にもわからないんでしょ?
――知佳ちーがどう考えてるか知りたいんだよ。
どうしてだろう。
知佳は問いかけるようにして、モンシロチョウを目で追った。
――太陽が眩しかったから――っていうのはどう?
知佳は珍しく冗談で返した。しかし、葛城はそれが聞こえなかったかのように、
――
モンシロチョウはどこかへ消えてしまった。しかし、すぐに視界の端に舞い戻ってくる。
――もちろん、うわべだけの友達だって悪くないよ。友達だから腹を割って話さなきゃいけないなんて法はない。ただね、知佳ちー、そういう友達はいざというとき守ってくれないよ。
このモンシロチョウはさっきと同じ個体だろうか。そもそも本当にモンシロチョウなのだろうか。
――だから、知佳ちー。こうしない? わたしと親友になるの。そうしたら、わたしが守ってあげる。世界中を敵に回しても、知佳ちーに味方するよ。
どうして。
知佳は問いかける。
どうしてあのとき、葛城の提案を拒んだのだろう。
どうして、彼女を遠ざけたのだろう。
彼女のことは好きでも嫌いでもなかった。どうでもよかったし、どっちでもよかった。そのはずなのに、あのとき、自分は彼女に誘われるまま授業をサボり、一方で、彼女の提案をはっきりと拒絶した。
葛城の言う通りだ。わたしは自分の気持ちさえわからない。
どうして、彼女を拒んだのか。
どうして、りんごを拾ったのか。
どうして、屋上に足を踏み入れたのか。
どうして、カナに飴を渡すことにしたのか。
「ありがとな。これで少しは元気が出ると思う」カナは口をもごもごさせながら言った。「でも、いいのか。二つももらって」
――別に森野さんやなくてもいい。これはっていう子に渡すんや。三学期最初の宿題やな。
「いいよ、もらいものだし」
こんな飴に意味なんてない。ただ、そこに含まれる糖分やカロリーに用があっただけだ。目の前でお腹を空かせる同級生の気休めになるのではないかと、そう思っただけ。
知佳はたまたま飴を持っていて、たまたまそれを必要とする人間に出くわした。ただ、それだけだ。
そして、そのついでにまた腕を貸すことにしただけ。
知佳は蒼衣と二人でカナの体を支え、作法室に向かっているところだった。カナを中心に、両サイドから肩を組んで支える格好だ。
カナは「大袈裟だ」と言っていたし、実際、立って歩くくらいのことはできそうだったが、蒼衣は頑なに譲らず自分がカナを支えて運ぶと主張した。
さっきもこうだったんだ、とカナは言った。蒼衣は姉妹に憧れがあるんだ。だからこうやって面倒を見ようと――まあ、でもありがとな。頼む。そう言って体を委ねた。
カナからは、どこか乳臭い匂いがした。何となく、子供の頃を思い出すような匂いだ。
「それにしても、りんご味の飴を持ってるなんて、これも奇縁ね」蒼衣は微笑んだ。「運命を感じるわ」
――人生には限りがある。出会える人間にも限りがある。だから縁を大事にしろって。偶然を味方につけて運命にしろって。
「そうだね」知佳は認めた。「運命なのかも」
――まあ、いきなり巫女なんて言われても困るよな。
カナは廊下に座り込んだまま言った。
――そうですよ、何のメリットがあって市川さんが。
五條は言った。カナ相手には威勢がいい。
――メリット? そう言われると困るんだけど、いちおうの建前としてはあれだ。いわゆる尊いものってやつだな。
――尊い?
思わず訊き返す。日常ではあまり聞かない言葉だ。
――そんな曖昧な言葉でごまかさないでください。
五條はムキになったように言った。
――なんだ、興味あるのか? えーっと。
――五條です。いちおう言っておきますがあなたと同じクラスですよ。しかも学級委員です。
――ああ、悪い。顔と名前を覚えるのが苦手でな。
――でしょうね。去年も三回同じやりとりをしました。
――そうだったか?
――そうだったわね。
――そうか、反省だな。
――そうね、あとでね。
――まあ、なんだ。五條が反発するのもわかる。クラスで浮いてる奴がこんな胡散臭い勧誘をするんだからな。普通なら、関わりたくないだろ。影で色々噂されるだろうし――
――それは――
五條は口ごもった。
――でも、だからこそ巫女は特別な絆で結ばれる。たとえ誰を敵に回そうと、巫女は仲間を裏切らない。はぐれ者同士助け合い、補い合う。その結果生まれた絆は、ときに一生ものの友情になる。それがいわゆる尊いものってやつだ。
カナは淡々と続ける。
――とはいえ、そこは人間だからな。相性ってものもある。だから、何も最初から巫女になれなんて言うつもりはない。お試しだよ。簡単に言うと、こういうことだ。友達にならないか?
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