14 処女にしか向かない職業
少女の声には聞き覚えがあった。澄んだソプラノだ。それに波打つロングヘアーにも見覚えがある。
今朝に会った不審者――蒼衣だ。
サングラスを外しているからすぐにはわからなかった。
思えば、教室でもそれらしい後ろ姿を見ている。髪をリボンのように編んだハーフアップだ。それも通学路で会ったときは傘で隠れてよく見えなかったけれど。
「うん、大丈夫」知佳は笑みを作った。「ありがとう」
「あら、そう。よかった。心配したのよ」蒼衣は微笑むようにして目を細めた。
思わず見惚れるようにして、見入ってしまう。
蒼衣と言うくらいだから日本人なのだろう。顔立ちもそこまでバタ臭いわけではない。それなのに、この瞳の色はどうしたことだろう。
「あら、この目が気になる?」蒼衣が言った。
「うん」知佳はそう言ったあと慌てて目を逸らした。「ごめん。ちょっとびっくりして」
「いいのよ」蒼衣は気にした風もなく言った。「ご覧の通り、人よりちょっと
そこで、きゅるるるるという間の抜けた音がした。蒼衣の背中からだ。
カナだ。
カナはどういうわけか蒼衣の背中におぶさっていた。少しぐったりした様子で体を預けている。まるで糸の切れた操り人形のように。だぼだぼの袖に包まれた腕が蒼衣の首元に回され、枯れ枝のように細い脚がぶらぶらと揺れている。
「カナちゃんたらお腹が減ったらしくて」蒼衣は苦笑するように言った。「朝にちょっと動きすぎたんだって」
あのアクロバットのことだろうか。たった一瞬でそこまでカロリーを消費できると言うなら格好のダイエットだ。
「大丈夫なの?」
知佳が問うと、蒼衣がカナの代わりに答えた。
「カナちゃんは大丈夫だって言うんだけどね。でも見てられなかったから、こうしてお姉さんがおぶって行くことにしたの」
「行くってどこに?」
「秘密の場所」蒼衣は器用に片目だけを瞬かせた。「置き菓子があるの」
「……それって作法室のこと?」
「あら、どこでそれを?」蒼衣は目を丸めた。そして、知佳の傍らに立つ五條に目を留める。「ああ、五條さんね」
「え、ええ。はい。すみません」五條はぎこちなく言った。振り向くと、表情が少しひきつっているように見える。「わ、わたくしめが漏らしました」
緊張しているらしい。彼女にそんな相手がいるとは思わなかった。初対面の知佳が相手でもぐいぐい迫ってきたというのに。
「いいのよ、別に」蒼衣は朗らかに言った。「むしろ手間が省けたわ。ねえ、カナちゃん」
どういう意味だろう。そう思っていると、カナが蒼衣の耳元で何かぼそぼそと呟いた。
「えーっとね」蒼衣が困ったように言う。「カナちゃんも市川さんのことを心配してるみたい。もう大丈夫なのかって」
「眠ってたんじゃなかったの?」という言葉を飲み込む。
カナも教室で何があったかはすでに知っているらしい。
まったく、幸先がいい話じゃないか。明日には学年中に知れ渡っているかもしれない。明後日には学校中に。明々後日には町中に。
「うん。新しい環境でちょっと緊張しただけだから。本当に」知佳は笑みを作った。「二人ともありがとう」
「どういたしまして」蒼衣は続けた。「カナちゃんとは今朝会ってるんでしょう?」
「ああ、うん。そう言えばそうだね」
知佳は言葉を濁した。蒼衣との約束を破って屋上に入ってしまったことを思い出したのだ。
「困ったものね」蒼衣は言った。「関係者以外は入れない約束で鍵を預かってるのに。何かあったら大変だもの。なのに、カナちゃんたら、市川さんを招き入れちゃったんでしょ?」
知佳は驚きとともにカナの方を見やった。生気のない瞳と目が合う。気のせいだろうか、カナは小さく頷いたように見えた。
なぜ、そんな嘘をついたのだろう。知佳を気遣ったとでも? 蒼衣との約束のことなんて話してないのに。
「でも、まさか転校生だったなんて気づかなかったわ。それも同じクラスなんて」
知佳の疑問をよそに、蒼衣はあっさりと話題を切り替えた。
屋上に入ってしまったことは、さほど問題ではなかったのかもしれない。
きっとそうだ、と知佳は思う。カナだって怒られたりはしてないだろう。
「大丈夫よ」蒼衣は言った。
知佳はぎくっとして尋ねた。「え、何が?」
蒼衣はぎこちなく微笑んだ。「心配してくれてるんでしょ? でも、任せて。ぶきっちょだけどその分、力自慢だから」
何の話だろう。一瞬、意味を図りかねたが、すぐに蒼衣の腕がぷるぷると震えていることに気づいた。背中のカナがずり落ちそうだ。
なるほど、それを見て心配していると思われたらしい。
「そうは見えないんだけど」知佳は言った。
カナは知佳以上に小柄に見えた。体の線も細いし、こういう状況でなくてもちゃんと食べているのか心配になるほどだ。
「大丈夫よ。うちの犬の方が重――あら、カナちゃん。何?」蒼衣はカナの方に顔を向けた。「……え、でも……わかった。そこまで言うなら下ろすわね」
蒼衣は前傾姿勢のまま少し腰を落とすと、カナの脚を離した。どうにか床に足が着く。カナは蒼衣の首に回していた腕を解き、一瞬、背中にもたれるようにした後、少しふらふらしながら身体を離した。
「大丈夫?」蒼衣が問う。
「ああ」カナは言いながら、その場にぺたりと座り込んだ。「さっきも言ったろ。蒼衣は心配しすぎだ」
「廊下に居座るつもりですか」五條が口を開いた。「動けないなら保健室で休憩して親御さんをお呼びに――」
「知佳に話があってな」カナは遮った。
「わたしに?」
「ああ、それで機を窺ってたんだが、知佳が教室でゲ――」
「カナちゃん」蒼衣が遮った。
「ああ、悪い」カナは察したように、「知佳が体調を崩したみたいだったから、様子を見ることにしてな。でも、思ったより元気そうで安心したよ。いま大丈夫だろ?」
「うん。何?」
「その前に訊きたいんだけど」カナは深刻なトーンで言った。「知佳は処女か」
廊下を行き来する生徒が何人かぎょっとしたように振り向いた。
「お、往来の真ん中でなんてことを訊いているんですか」五條が声を抑えつつ言った。「デリカシーに欠ける質問ですよ」
「そうねえ、いきなり直球すぎたわね」蒼衣は苦笑した。
「ああ、そういうもんか。反省だな」
「そうね、後でね」
「市川さん」五條が知佳に向き直る。「答える必要はありませんよ。そういう話は後日、二人きりのときにでもゆっくり語らいましょう。たとえば、市川さんのお部屋で」
「あら」蒼衣が口を挟んだ。「二人はもうそんなに仲良くなったの?」
「え、いや。その――これは冗談で」
五條はふたたびしどろもどろになった。どういうわけか蒼衣のことが苦手らしい。
「それって重要なこと?」知佳はカナに尋ねた。「処女かそうでないかって」
「い、市川さんまで往来で何を」
「ああ。朝に言っただろ」カナは答えた。「巫女のことだ。巫女は清らかな身じゃないといけない」
そこで気づく――そう言えば五條が巫女について処女がどうだとか言っていた。
これは、まさか――
「縁ってあるだろ」カナは言った。「ユキが言うには――人生は一期一会ってやつらしい。人生には限りがある。出会える人間にも限りがある。だから縁を大事にしろって。偶然を味方につけて運命にしろって」
「何を――」
「蒼衣たちから話を聞いて思ったんだ。知佳とは縁があるのかもしれないって。実際、こんな偶然そうあることじゃないだろ? 同じクラスに転校して来た奴とそうとは知らず知り合うなんて。だから、誘いに来た」
もはや何も訪ねる必要はなかった。カナの言わんとすることは明白だ。
「巫女の手が足りないんだ。その貞操、二年だけでいいから神様に捧げてくれないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます