26 雪の墓標

「瑞月の両親は海外勤めでな」注文を終えると、カナが切り出した。「瑞月も小学校に上がる前くらいまでは海外で生活してたらしい」

「いわゆる帰国子女ね」蒼衣は言った。

「小学校低学年のときに両親とこっちに戻って来たらしいけど、またいつ海外に行っちまうかわかんないし――実際すぐにそうなった。それで瑞月を天羽のおじさんたちに預けることにしたらしい」

「小太刀さんは日本語を話せたの?」

「いや、ほぼ英語しか話せなかったらしい」


 では、なおさら瑞月を置いていった理由がわからない。


「海外と言っても、一か国だけじゃなくてあちこち飛び回ってるから、子供には安定した環境の方が望ましいと判断した――ってことになってるわね。いちおうは」

「いちおうって」

「他人の家のことだからな」カナは簡単に言った。「瑞月の両親はけっこう変わった人たちらしいし」

「それに、天羽ご夫妻の人柄もあるわね。わたしもむかしからお世話になってるけど、心の大きい人たちよ。みーちゃんの受け入れにも積極的だったんですって」

「そんなわけで瑞月は天羽夫婦に育てられることになったんだ。夫婦の娘で、従姉の六花とともに」

「尤も、彼女のことを六花と呼ぶ人は少なかったけれど。彼女は幼い頃から作家志望でね、そのペンネームとして六花ユキと名乗っていたわ」


 そういえば、カナが一度そんな名前を口にしたことがあった。

 六花というのは雪の結晶のことだ。ペンネームとしてはわかりやすく安直な部類とも言える。


「けっきょく小太刀さんはどうしたの? その、言葉が通じないのに」

「瑞月もいちおう、ひらがなの読み書きくらいはできたんだ。単語もそれなりに知ってたし、生活上、最低限の意思疏通はできたらしい」

「でも授業についていくのはむずかしかったんじゃ」知佳は言う。

「たしかに、大変だったって話だ」カナは頷いた。「何せインターナショナルスクールとかじゃなく普通の公立校だったわけだし――ほら、なんだっけ」

「そうね、しばらくは特別学級で言葉を教わっていたわ」蒼衣は補足した。「ちなみに、わたしはみーちゃんと同じ小学校だったの。カナちゃんと一緒になったのは中学校からね」

「しばらくって言うけど、それってどのくらい?」

「そうね、三ヶ月くらいだったかしら」

「早くない?」そのくらいで他言語の授業についていけるようになるものだろうか。

「そうね」蒼衣は認めた。「でも子供の吸収力は侮れないものだし――それにゆーさんもいたから」


「ゆーさん」とは六花――ユキのことだろう。


「先輩は英語が喋れたの?」

「英語教室に通ってたことはあったらしいけど」

「それじゃ喋れないよね」

「先輩と言っても二つ上なだけだからな」カナは言った。「当時はまだ五年生とかだから、まあそんなもんだ」

「じゃあ、どうやってコミュニケーションを取ってたの?」

「瑞月によると、勘だそうだ」カナは言った。「片言の英語、ジェスチャー、イラスト、そういうものを交えてコミュニケーションを図ったらしい」

「それでどうにかなるの?」

「実際できたのよ」蒼衣は言った。「ゆーさんはちょっとした秀才だったし――作家志望なだけあって観察力やコミュニケーション能力にも優れていた」

「まあ、本人いわく直観だそうだけどな。インスピレーションというのか。まるで神の啓示を受けたみたいに閃きが訪れるんだってよく言ってたな」

「そうね。

「それって――」


 冨士野の話を思い出す。カナが同じように超新星爆発を予知したという話だ。


「ああ、当時はそういうのがよくいたよな」


 カナは他人事のように言う。子供の頃のことで覚えていないのだろうか。それとも、話したくない?


「もちろんゆーさんの力だけじゃないわよ」蒼衣は補足した。「天羽のおじさんおばさんとか先生とかの力もあった。でも、一番の先生はゆーさんだった。他人との間に立って通訳のようなこともしていたわ。ゆーさんはいわばみーちゃんにとって他人との、社会との窓口だった」


 そこで、瑞月がトレイを手に近づいて来た。


「お待たせしました」


 各自の前に注文したコーヒーを並べる。そして、知佳と蒼衣の前にタルトタタン。


「ごゆっくりどうぞ」


 瑞月はぎこちなく微笑んだあと、去っていった。その足で他の客の元に向かい、注文を取りはじめる。常連らしい。壮年の男性と何言かやり取りしてカウンターへと向かって行った。人見知りというには、なかなかに様になっている。


「あれな、ユキの真似なんだ」カナは言った。「ウェイターのことな。ユキもよくこの店を手伝ってたから」


 なるほど、実家なのだからそういうこともあるだろう。


「ウェイターってことは、もしかして男装だったりする?」知佳は尋ねた。

「そうね。少なくとも、ゆーさんはそのつもりだったみたい。スカートじゃなくあえてズボンにしたって言ってたし」

「そ。ボクっていうのもユキの口調が移ったものらしくてな。なにせ、日本語の先生がユキだったんだ。移りもするだろ?」

「男になりたいってもしかして――」

「ああ、たぶんユキを真似てるうちによくわからなくなったんだろうな」

「ゆーさんは性自認はあくまで女の子だったけれど、男友達も多かったしボーイッシュなところがあったから」

「瑞月も何度か口調や服装を変えようとしたけどけっきょくどれもしっくり来なかったらしい」

「懐かしいわね。あれはいま思うと反抗期だったのかも」

「それで、自分は男の子なのかもしれないって?」

「思ったのかもね」蒼衣は苦笑とわかる笑みを浮かべた。「思春期は誰しも自分のアイデンティティを問い直すものでしょう? まあ、それだけでもないでしょうけど――」

「まあ、ともかく瑞月はそれだけユキから影響を受けたってことだ」


 カナは注文したカプチーノに口をつけた。知佳は手元に視線を落とす。


「タルトタタンって普通のりんごタルトとどう違うんだろうって思ってたけど」知佳は言った。「りんごが上になってるんだね」


 生地の上にこんがりと焼けたりんごが乗っている。


「そうね。元は失敗だったそうよ。りんごを焦がしてしまって、その上にパイ生地をかぶせてオーブンで焼いたのがタルトタタンの誕生」


 蒼衣はフォークでタルトタタンを切り崩し、口に運んだ。カナはカプチーノをちびちびと飲んでいる。

 りんごと砂糖、バターの焦げた匂いに、コーヒーの香りが混じり合い、知佳の鼻腔をくすぐる。フォークを手に取り、先端部分を切り崩して口に運んだ。


「おいしい」思わず声が漏れた。


 りんごは層になっており、外側の焦げた部分と、内側の弾力が残った食感が得も言われぬコントラストを生み出している。わずかな塩味がりんごの甘みと酸味を引き立て、生地が受け止めている。


「だろ」

「森野さんは本当にいいの?」

「まあ、去年のうちに食べたし」

「何も食べてない人がいると気になるんだけど」知佳はタルトタタンを切り崩しながら言った。

「それは悪いと思うけど……」


 カナが言いかけたところで、知佳はタルトタタンをフォークに突き刺してカナに向かって突き出した。


「何?」

「食べて」知佳は言った。「満腹でも一口くらい入るでしょ」


 カナは少し考え込むようにした後、前傾姿勢となり、おずおずと口を開いた。


 八重歯が覗く、小さな口。粘膜の赤色が垣間見えたかと思えば、知佳の差し出したタルトタタンに食いついた。口を閉じたまま、タルトタタンを抜き取るようにして顔を引く。


「ありがと」カナは飲み込んでから言った。「うまかったよ」

「どういたしまして」知佳は俯き、コーヒーを口に含んだ。

「先を越されちゃったわね」蒼衣は苦笑した。「カナちゃんに残そうと思ってたんだけど」

「気を使わせてばっかだな」カナは言った。「自分でも頼めばよかった」

「森野さんってやっぱり変に律儀だよね」知佳は言った。「そういうことを言われたら逆に気を使っちゃうよ」

「ん、ああそうか。すまん」

「いちいち謝らなくていいから」


 カナは知佳の顔をじっと見つめ、


「知佳は意外とツンデレなんだな」

「それはわたしも思った」蒼衣は賛同した。

「何それ

「いや、そういうとこが」

「そういうとこよね」蒼衣がにやにやとしながら言った。


 どうもそういうことにしたいらしい。なら、それでいい。そういうキャラで。


「森野さんは違う小学校だったんでしょ」知佳は訊いた。「天羽先輩とは会ったことあるの?」

「ああ。中一のとき、瑞月と同じクラスになってな。それで話すようになって、当時三年だったユキのことも紹介されたんだが――」


 カナは言葉を区切った。


「どうしたの」知佳は問う。

「そこにいたのはたしかにユキだけど、ユキじゃなかったんだ」

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