25 放課後のタルトタタン

 アヤの姿が見えなくなってから程なくして、カナと蒼衣が校門から出てきた。


「うまくいったな。まだ学校を出てないとは思いもしなかったみたみたいだ」カナは言った。「姉としては複雑だけどな。妹があんな騙されやすいと」


 カナは知佳のコートを肩に羽織り、知佳のリュックを抱えるようにして持っていた。まるで狸の置物のようなシルエットだ。


「まあ、いい教育になったんじゃないかしら」蒼衣は言った。「人は失敗して学ぶものよ。ねえ?」

「そうだね」知佳はカナのリュックを下ろしながら言った。いったん蒼衣に預け、コートも脱ぐ。「あとで反省すればいいんじゃないかな」

「そうだな」カナは俯きがちに言った。それから知佳の方を見上げ、「知佳にはまた借りを作ったな」

「いいよ、別に」知佳は言った。コートを返してもらうため近づく。「でも、なんで妹に待ち伏せされてるの」

「まあ、携帯持ってないし――」カナは言った。「家に早く帰ってこいってことだろうな」


 カナの背後に回った。やはり知佳の方が少し背が高い。小さい頭と二つのつむじ。むき出しの首筋が寒々しい。


「……大家族なんだっけ」知佳は思わず口にしていた。取り返したコートに腕を通しながら続ける。「ごめん。冨士野先生から少し聞いた。大変だよね。色々と」


 家事を任されているという話だ。知佳も母子家庭だったから、同じような経験はある。しかし、八人家族ともなればまた話は違ってくるだろう。ましてや長子ともなれば。


「まあ、大変って言うほどでもないんだけどな。この時間はまだちびっ子二人も友達と遊んでるはずだし――ほら、リュック」


 そう言って振り向き、下ろしたリュックを差し出してくる。受け取る瞬間、手と手が触れた。一瞬のことだったが、その冷たさにはっとする。


 知佳がリュックを受け取ると、蒼衣がカナの肩にコートをかけた。


「サンキュ」カナは言った。それから、知佳に向かって、「ていうか、制服だったろ、アヤ」

「え、うん」よく見てなかったのだろうか。それでよく気づいたものだ。

「じゃあやっぱり中学から直接来たんだろうな」カナは言う。「いちおう蒼衣の番号は教えてるし、何かあったらそっちか学校に連絡が行くはずだから、まあ特に何か緊急の用事があるわけでもないんだろ」

「アヤちゃんはお姉ちゃんっ子だしね」蒼衣は言った。「ああ見えて、家ではカナちゃんべったりらしいし、家にいないと寂しいんでしょう」

「そうは見えなかったけど」


 なんだかむすっとしていたし、姉に対して思うところがありそうだった。


「まあ、友達が少ないからな、あいつ」カナは呟くように言った。「誰に似たんだか」


 いまのは自虐だろうか。カナでもそんなことを言うとは思わなかった。


 そんなことを考えている間に、カナはコートとリュックを身につけ終えた。寒いのか、フードを被って、言う。


「しかし助かった。捕まるとめんどくさいからな。ちょうどいい。ごちそうするよ」

「そんな、悪いよ」

「心配するな。今年はお年玉があるからな。去年死んだ婆ちゃんのレコードコレクションが高く売れて――そういえば訊かなかったけど、りんごは好きか?」


 急な質問だ。


「好きとか嫌いとか考えたことなかった」

「なら、これから好きになればいいわね」

「そうだな、嫌いじゃなきゃ気に入るだろ」


 カナと蒼衣は迷いない足取りで学校の南側に向かっている。


「どこに向かってるの?」

「そうね、どこでもない場所、とでも言うべきかしら」

「どういうこと?」

「ふざけてるわけじゃなくてな」カナが弁護する。いつもとは逆のパターンだ。「そういう意味の店名なんだ。実際にはここから十五分くらいの場所にある」

「なんの店なの?」

「喫茶レムリア」蒼衣は言った。「おいしいタルトタタンを出すお店」

「そして瑞月がいる場所だ」



 

 学校から南東へと向かった。ゆるやかな坂をいくつか下り、喫茶レムリアを目指す。


 ――みーちゃんは駅前のタワーマンションに住んでるんだけど、ご両親が家を開けがちでね。小さいころから母方の叔父さん夫婦に預けられて育ったの。


 道すがら、カナと蒼衣は瑞月について話した。


 ――そのご夫婦が経営しているのが喫茶レムリアよ。


 二人は慣れた様子で住宅街の路地を突っ切っていく。


 ――高校に入ってから、みーちゃんはたまに店を手伝ってるの。


 太陽が西へと傾き、知佳たちの進行方向に向かって影を落とす。


 ――みーちゃんなりに、人見知りを克服しようとしてるみたいね。


 喫茶レムリアは赤い煉瓦タイルの壁が印象的な小さい店だった。店先に置かれた鉢植えのオリーブが、緑のアクセントを添えていた。


 ――たぶん、今日も店にいると思う。


 ドアを開いた。カウベルがからんからんと鳴る。暖められた空気と、聞き覚えのあるピアノ曲の旋律、コーヒーの匂いが漂ってくる。


 ――でも、驚かないでね。


 ウェイターが知佳たちを迎えた。男性としては少し小柄なシルエットだ。頭から爪先までモノトーンでまとめられている。白いシャツに黒いクロスタイ、ベスト、ソムリエエプロン。


「いらっしゃいま――」ウェイターはそこまで言って凍りついた。

「よう、瑞月」カナは片手を上げた。「飲み食いにきたぞ」


 瑞月は長い髪をアップにしてまとめていた。金魚のように口をぱくぱくさせていたが、きっと唇を引き結んだかと思えば、ぎこちなく口の端をつり上げつつ、ウェイターとしての対応を続けた。


「こ、こちらの席にどうぞ」


 知佳たちは奥の席に案内された。

 他にも何組か客が来ている。カウンターの向こうでは、店主と思しきエプロン姿の男性が豆を挽いていた。髭に眼鏡の風貌で年齢を図りがたい。

 店内は古き良き純喫茶の雰囲気だ。落ち着いたトーンの内装に、レトロなペンダントライト、モンステラの鉢植え。


 そして、壁に大きな世界地図のタペストリーが張ってある。


 古地図風のデザインで、インド洋に実在しない大陸が描かれている。名前は《Lemuria》と読めた。

 五〇〇〇万年以上前の地球に存在したとされる大陸だ。動物学者のフィリップ・スクレーターによってその存在が提唱された。

 元は、マダガスカル島にしか生息しないキツネザルの近縁種がインドネシアやアフリカなど遠く離れた土地に存在する理由を説明する理論だったらしい。

 しかし、後に大陸移動説が登場したことで、レムリア大陸はその存在を否定される。キツネザルの奇妙な分布は、大陸の移動によって説明されたのだ。

 オカルトの世界ではムー大陸と同一視され特別な地位を占めるが、科学の世界からは完全に姿を消した学説らしい。


 ――かつて存在するとされ、後に存在しないことがわかった場所。それがレムリア。どこでもない場所。


「小太刀さんと話さないの?」席に着くと、知佳は訊いた。

「まあ、まずは注文しようぜ」カナはメニューを開いた。「コーヒーは各自好きなのを選ぶとして、二人はタルトタタンでいいよな

「カナちゃんは?」

「さっきカップケーキ食べたからいいや」

「えーっと」知佳はメニューを開いた。

「冬限定のメニューなのよ」蒼衣が説明する。「のおばさんはパティシエでね。雑誌テレビや雑誌で紹介されたこともある名物メニューなのよ」


 ――天羽?

 ――そう。喫茶レムリアは去年消えた巫女の実家でもある。つまり、失踪した先代の巫女――天羽六花は瑞月の従姉なんだ。

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