24 ドッペル・チェイサー

「整理するとだな」カナは作法室のドアに鍵をかけながら言った。「まず茶楽部の存続には部員が四人と顧問が必要だ。瑞月が抜ければ部員は二人になる。残り二人を集めるのは少し難儀するかもしれない」

「廃部になると困るの? 茶楽部はあくまで表向きの看板なんでしょ」

「廃部になったら、屋上や作法室の鍵を取り上げられるかもしれないだろ?」

「そうなるとりんごを供えることができなくなるし、祠そのものが撤去されてしまうかもしれないわね」

「ただ、これは学校側が本気で潰しに来ない限りもうちょっと粘れると思う。《魔女》からの情報を基に判断するとな。今年度中はほっといても大丈夫だろ」

「そうね。来年度以降はわからないけど。それより問題なのは――」

「ああ。巫女の方だな。こっちは三人いればいいが、瑞月が抜ければやっぱり二人だ。そしてこっちはいつペナルティが襲ってくるかわからない」


 つまり、いつ二人がおかしくないということだ。


「瑞月にはなんとか戻ってきてもらわないと」

「そうね」


 三人で並んで歩く。階段を降り、昇降口へと向かいながら、知佳は思う。


 なぜ、自分をあてにしないのだろう。


 知佳はいま宙ぶらりんの状態だ。茶楽部の部員でもなければ巫女でもない。もはやカナたちの友達といえば友達なのかもしれないが、それだけだ。

 巫女は最低でも三人以上必要だという話だ。なら、瑞月が抜けても知佳が巫女となれば問題ない。

 カナや蒼衣に依代が務まるかはわからないけれど、検討くらいはしそうなものだ。それをする様子がないのはどういうことだろう。

 二人は瑞月の友人だから説得して戻ってきてほしいのかもしれない。

 しかし、これは単なる部活の存続問題ではない。もしものことを考えるべきではないだろうか。

 そもそも、そうする気がないならなぜ知佳を勧誘したのかわからない。

 こういうときのために予備の人員がほしかったのではないのか。

 せめて茶楽部の部員として勧誘するくらいのことはしてもいいのに。そちらは三人でも足りないのだから。


 三人は靴を履き替え、昇降口を出た。そこで知佳は尋ねる。


「小太刀さんも自分が抜けるとまずいのはわかってるんだよね」

「たぶん誰より切実にな」

「どういうこと?」


 そのとき、カナは足を止めた。駐輪場の脇を抜け、校門のすぐ手前に差しかかったところだった。


「どうしたの?」

「あいつだ」

「また?」蒼衣が尋ねた。

「ああ。参ったな」

「どうしたの?」知佳は訊いた。


 カナはこちらを振り向いた。そこで何かを思いついたように、「身長同じくらいだよな」


「え」知佳は言った。思わず付け足す。「わたしの方が高いと思うけど」

「いや、そうだろうけど、だいたいでいいんだ」

「……わたし、一五〇あるよ」


 そのはずだ。四月の身体測定では一四八センチだった。一年近く経つし、もっと伸びてたっておかしくない。まだ十代半ばなんだし。


「六センチ差か」カナは考え込むようにして言った。「いけるかな」

「カナちゃんもこの一年でけっこう伸びたんじゃない? そんなに離れてないと思うわよ」

「だといいんだけどな」そして、知佳に言う。「悪いけど、ちょっと脱いでくれ」




 知佳はカナとコートを交換した。知佳やカナの背丈から考えると、オーバーサイズ気味のコートだ。

 フードを被り、紐を絞る。外れないようにしないといけない。

 カナと蒼衣は自分を先に立たせた。校門が見えてくると、二人はさっと自転車置き場の陰に隠れる。カナは、幸運を祈るとばかりに親指を立てて知佳を送り出した。


 知佳は校門を前にすると歩みを止め、大きく深呼吸をした。


 校門を出たら、すぐに走り出すようにと言われていた。足の速さには自信がないし、いきなり走り出してどこかを痛めてしまっては笑えない。

 できれば準備運動がしたいところだ。

 いいだろう。やればいい。いつだって人はその意思のままに生きる権利がある。だが、周りを見てみろ。防寒着にくるまれた人の波だ。その中で急に屈伸運動を始める自分を想像してもなおやるというのか。

 人目を気にしないなら実際にそうしていただろう。でも、君は違う。そういうタチじゃない。だから、こんなことを考えている。


 知佳は嘆息した。そして、決心がつくと、生徒たちの間を縫って全速力で駆け出した。


「あっ」


 誰かの声が聞こえた。次いで、自分を追ってくるような足音。タタタと敏捷な音を立てながらどんどん迫ってくる。

 ずいぶんと敏捷な追っ手のようだ。対するこっちは足ののろい獲物。

 手と足を大きく動かす。ただ前方だけを目指して、そこに意識を集中する。

 知佳は思った――あの標識はブラックホールだ。

 自分のような軽い身体などひとたまりもなく飲み込まれてしまうに違いない。そうだ、飛べ。あの標識まで一直線に飛んで行け。

 知佳は走った。リュックが揺れて背中を叩く。


「こら、待て」


 今度ははっきりと少女の声が聞こえた。その声には怒りと同時に真摯な嘆願が感じられた。

 かといって足を止めるわけにはいかない。もはやカナの言いつけなど関係なかった。

 これは本能というものだ。捕食者が全力で追ってきているというのに、足を緩める獲物はいない。少し油断すればあっという間に捕らえられてしまうようなプレッシャーを背中に感じながら走り続けた。


「逃げられるとでも――」


 その声音で相手ももはやなりふりを構っていないことがわかる。懇願の色は消え、捕食者の本能だけがあった。

 背中にぞくっとしたものを感じたのも一瞬、今度はそこに質量のある何かがぶつかってくる感覚を覚えた。追っ手の腕が体に巻きついてくる。捕まった――知佳は背中に追っ手をぶらさげたまま転倒した。


「あれ」


 戸惑うような声がした。体から追っ手の腕が離れるのがわかった。追っ手が体から完全に離れるのを待って、知佳はようやく体を起こした。

 フードが外れている。追っ手が目でも瞑ってない限り、知佳の後頭部が目に入っただろう。ピンクブラウンのショートボブが。

 そして、自分の捕まえた獲物がそうでないことを悟ったはずだ。

 どれ、捕食者とご対面だ――知佳が振り向くと、そこに見覚えのある顔を見つけた。半ば開いた口から覗く八重歯。猫のような目が驚愕に見開かれている。


「誰ですか」


 カナそっくりの少女がカナそっくりの声で訊いた。


「えと……」

「お姉ちゃんに頼まれたんですね」少女は不機嫌に続ける。「森野カナに」

「はい」


 知佳は少女に答えた。カナの妹ということはもちろん年下だろう。しかし、相手が敬語で喋るのでつい釣られてしまった。


「ああ、もう。お姉ちゃんに裏をかかれるなんて」少女は天を仰いだ。「お姉ちゃん、何か言ってませんでした?」

「え、うん。『陽動に引っかかるとはまだまだだな』って……」


 少女は一瞬ぽかんとして、


「陽動……やられた」とつぶやいて校門の方を眺めた。カナたちはこの逃走劇の隙に逆方向に逃げたことだろう――そう考えているのがわかった。

「お姉ちゃんから聞いてると思いますけど――」


 少女は名乗った。カナ同様キラキラした名前だ。


「でも普段はアヤって呼ばれてます」アヤは言った。「先輩は?」

「……市川知佳」

「そうですか」


 アヤはそう言うと意気消沈したように逆方向へと歩き始めた。


 なんだったのだろう――そう思っていると、アヤは立ち止まり、こちらに向き直って言った。


「お姉ちゃんにはかかわらない方がいいですよ、市川先輩」

「うん」


 アヤは少し微笑んで、「お互い二度と会うことがないといいですね」


 そう言って、また駆け出していった。

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