21 ベーコン・レタス・トマト
作法室の手前では二年生のカップルがじゃれ合っていた。スマートフォンをいじる彼氏に彼女がちょっかいをかけている。彼氏はやめろよと言いながら、にやにやと笑い、逃げる彼女を追いかけ後ろから抱き締めた。
完全に二人だけの世界だ。知佳に気づいた様子もない。あるいは気にも留めないのか。
いずれにせよ好都合だ。作法室に出入りしても注意を引くことはないだろう。
知佳はカップルの脇をすり抜け、作法室のドアを開いた。
「待ってたわよ」蒼衣は笑顔とともに出迎えた。「お茶、淹れるわね」
「ごめん。遅れちゃって」知佳は詫びた。「図書室に寄ってて」
「あら、御愁傷様」
「え?」と思わず声が出た。
蒼衣には「図書室」が「お通夜」にでも聞こえたのだろうか――そう思っていると、蒼衣ははっとしたように口を押さえ、
「ごめんなさい。家ではお決まりのやり取りなの。本にまつわる話題のときのね」
「そうなんだ」
どういうお決まりなのかさっぱりわからないが、どの家庭にも変わった習慣の一つや二つあるだろう。知佳は特に気にせず、スリッパを脱いで座敷に上がった。
カナは炬燵で、手作りと思しきカップケーキを食べていた。あるいはマフィンかもしれない。小鳥がついばむような食べ方だ。傍らには空のカップが置いてある。一度、お茶を淹れた後らしい。
「よお」とカナ。
「うん」
「これ残り物なんだ」カナは唐突に言った。カップケーキのことだろう。「昨日、家で作ったんだけど――あんまり砂糖も使ってないし、もそもそしてるし、人様に出せるような味じゃないから。その、すまん」
「え、うん」
「カナちゃんが言いたいのは」蒼衣が補足する。「自分だけお菓子を食べててごめんってことね」
「別にいいのに」知佳は腰を下ろした。炬燵に脚を突っ込む。「森野さんってけっこう律儀だよね」
「そうらしい」カナは他人事のように言った。そして自分のリュックを引き寄せ、漫画雑誌を取り出す。「代わりと言ってはなんだけど、読むか。先週のだけど」
「なんで先週の漫画雑誌を持ち歩いてるの」
そう言えば、休み時間に漫画雑誌を読んでいた。先週号だとは気づかなかったけれど。
「叔父さんが漫画の感想ブログをやってるんだ。だから買ってくるんだけど、しばらくはじっくり読み込むから。ハルとかも読みたがるし」
「カナちゃんまで回ってくるのに時間がかかるってことね」
「そうなんだ」知佳は言った。「いいよ。途中から読んでもわかんないだろうし」
「そうか。読み切りもあるんだけどな」カナは特に失望した様子もなく言った。「まあ、ハルも叔父さんもイマイチだって言ってたけど。せっかく絵がうまいのに台詞に頼りすぎだって」
カナは相変わらずちびちびとカップケーキを食べている。もしかしたら、唇に油分がつくのを気にしているのかもしれない。
「おかしいよな」カナは続ける。「ハルの奴、叔父さんの影響ですっかり評論家気取りなんだ」
この子はいったい何を考えているのだろう。カナを前にすると、思わず考えてしまう。
カナは多弁だ。馴れ馴れしいと言ってもいい。初対面であっても遠慮というものがない。思いつきをそのまま話しているようにも思える。
しかし、話しているうちに気づくのだ。彼女の言葉には彼女自身のエゴがほとんど含まれていない、と。
巫女として語るべきこと。家族のこと。相手への気遣い。それだけなのだ。
肉体的な欲求はわかる。彼女だってお腹を空かせたり、眠そうにしたり、寒そうにしたりもする。
それらの欲求さえ満たされればいいのだろうか。彼女の家庭環境はそこまで劣悪だと?
それ以上の望みが持てないほどに。
願いを持つことが許されないほどに。
――あの子自身にこうしたいっていうビジョンがあるとええねんけどねえ。人生、やりたいことをやるのが一番なんやから。
あるいは――と知佳は思う。彼女はただ不器用なだけなのかもしれない。いわゆる長女気質というやつだ。面倒見がいい反面、甘えるのが苦手で、感情を表に出そうにも出せない。我慢することに慣れすぎている。そういう子なのかもしれない。
「どうした? やっぱり読みたくなったか?」
カナの瞳は不思議な色合いをしていた。光の加減なのかいつも違う色に見える。屋上では暗い色合いに見えたが、いまはわずかに緑がかった褐色に見える。
「もしかして読んでほしかったりする?」
知佳は試すように言った。当てずっぽうだが、もしかしたら感想を共有したいのではないかと思ったのだ。たとえば、《ハル》や叔父には不評だった読み切りについて。
「そういうわけじゃないんだけど」
カナは簡単に引き下がった。本当にこだわりがないのか、強く推す勇気がないのか、知佳にはわからない。ただ、雑誌をリュックに押し込む姿を見ていると、少しだけ後悔の念が湧いてくる。
「そう言えば、知佳の趣味を聞いてなかったな」カナは話題を変えた。「ペンギンが好きとは聞いたけど」
「え、うん」少し驚いた。「そんな話したっけ」
「リュックにぬいぐるみぶら下げてるだろ。自己紹介でも言ってたし」
たしかにそうだ。カナは寝てるものだと思っていたが。
「前々から疑問だったんだけど」カナは頬杖をして言った。「動物園とかにいるペンギンって日本で暮らしてて夏バテとかしないのか」
「一口にペンギンって言っても、いろいろいるんだよ」知佳は言った。「たぶん森野さんはペンギンはみんな南極に住んでると思ってるんでしょ? でも、それは一部のペンギンだけ。南極で繁殖するのは、コウテイペンギンとアデリーペンギンの二種類だけなの」
「ペンギンって全部で何種類いるんだ」
「現存しているもので十八種」
「十八分の二か。本当に一部なんだな」
「そう。たとえば動物園なんかでよく見るフンボルトペンギンはアフリカ南部のの海岸で暮らしてたりするの。日本は気候が近いし、過ごしやすいんだと思う。増えすぎて繁殖を制御してるくらいだし」
「だからよく見るわけか」
「そうだね。逆に国内でコウテイペンギンを飼育してる施設は数えるほどしかない。キガシラペンギンに至ってはもっと希少で、たぶん野生でしか見られないし」
知佳はスマートフォンを操作し、アルバムを開いた。ペンギンの画像を見せながら一種ずつ解説する。
「奥が深いんだな」
「でしょ?」
「じゃあ、知佳の推しペンはなんだ」
その略し方ではまるで文房具だ。
「ああ、悪い」カナは詫びてから言い直した。「好きなペンギンの種類を訊いたんだ」
「うん。それはわかってるんだけど――」知佳は返答に詰まった。「ちょっと待って。考える時間がほしい」
「悩むほどなのか」
「悩むほどだよ!」思わず口調が強くなった。「コウテイペンギンの子育てはやっぱり感動するし、アデリーペンギンの喧嘩っ早さもギャップがあっていいでしょ。ジェンツーペンギンは温厚でかわいいし、フンボルトペンギンは身近でいいよね。マカロニペンギンはおしゃれだし、キガシラペンギンのミステリアスさも――」
絶滅種も含めるなら、ジャイアントペンギンも外せない。現存種最大のコウテイペンギンをも凌駕する巨大なペンギンだ。対面したら、知佳の方が見上げる高さになるだろう。
そもそも、「ペンギン」というなら北極に生息したオオウミガラスが元祖だ。その温厚な性格ゆえ人間に容易く殺し尽くされたというこの鳥に思いを馳せるとき、知佳はいつも心がきゅっと締めつけられる。人間という種はなんと野蛮で欲深いのだろうと暗澹とした気持ちになる。
「……あー、そうだよな」カナは言った。「好きなもののことだもんな。簡単には決められないか。軽い気持ちで訊いてすまん」
謝られてしまった。知佳は急に恥ずかしくなる。いったい、何の話をしてるんだろう。
「楽しそうね」蒼衣が言った。知佳のカップに紅茶を注ぐ。「はい、お茶。カナちゃんも喉乾くでしょ? 二人分だから余った分入れるわね」
「サンキュ」カナは短く言った。
「ありがとう」知佳はそこでふと気になり、問う。「でも、小太刀さんの分はいいの?」
蒼衣はすぐには答えなかった。困ったような顔でカナに視線を送る。
まずいことを訊いただろうか。いや、当然の疑問だ。
「蒼衣から聞いてると思うけど」カナはリュックの中をまさぐった。「話しとかないといけないことがあってな。知佳が休んでる間にちょっとしたアクシデントが起こった」
「小太刀さんに何かあった?」
瑞月とはクラスが違う。たとえば、交通事故で入院したとしても、知佳には気づきようがない。
「ああ、そんな心配するようなことじゃないんだ。本人はピンピンしてるから。足もたいしたことなかったらしいし」
カナは折り畳まれた紙を取り出した。でたらめにリュックの中を探っていたように見えたが、シワのひとつもなく丁寧に保管されていることがわかる。
「これを見てくれ」
知佳は折り目をつけないよう慎重に受け取り、紙を開いた。
一番上に「退部届」と書いてある。氏名、小太刀瑞月。流れるような行書体だ。
「
「ああ、うちのことな」
「そういう建前なのよ。いちおう、学校の施設を使ってるわけだから」蒼衣が言った。「ちなみにカナちゃんが部長で、わたしが副部長です。活動内容は、お茶を飲んでまったりしながら、日常の貴重さを噛み締めること」
それは部活動というのだろうか。ともあれ、いまはそこじゃない。
「つまり、小太刀さんは巫女をやめたいってこと?」
「らしいな」簡単に言うカナ。
「わたしが休んでる間に何があったの?」
「それが――蒼衣、これって言っていいのか?」
蒼衣は頷いた。「デリケートな話題だけど、しょうがないわ」
「うん、まあよくわからないんだけどな」カナは頬を掻きながら言った。「瑞月は男になりたいらしい」
「え」
「急にそう言い出してな」
「元々、ボクっ娘ではあったけど」
たしかにそうだったが、だからといって男になりたいというのは飛躍がある。
「……それってつまり、あれ?」
「そう、あれだ」カナは頷いた。「何て言ったっけ」
「それは、あれだよ」知佳はごまかした。「知らないの?」
「いや、なんとなくは覚えてるんだ。たしか、BLTとかなんとか」
「それサンドイッチだから」
「そうね、いわゆるLGBTのT」蒼衣が見かねたように助け船を出した。「トランスジェンダーね」
そうだった。公民や現代文で勉強したはずなのに、どうしてすぐ出てこなかったのだろう。
「そう、それだ」カナは指を鳴らした。「どうもな、自分の体に違和感を覚えはじめたらしい」
「と言っても確信があるわけでもなさそうなのよねえ」
「自分が男か女なのか? もし心が男でも巫女は務まるのか? そう悩んで辞めることにしたらしい」
その発想はなかった。おそらく、カナたちにしたところでそうだろう。
なにせ戦後間もない頃まで遡る伝統だ。その頃にLGBTなんて発想はないだろうし、細かい規定があるとも思えない。
「二人は全然知らなかったの」
「知らないっていうか、なあ」
「そうねえ。みーちゃんだから」
「え、何?」
カナと蒼衣は顔を見合わせた。
「どう説明する?」とカナ。
「まあ、それはおいおいでいいんじゃないかしら」蒼衣は困ったように笑った。「ただ市川さん、これだけは覚えておいて。みーちゃんは尋常じゃなくめんどくさい子なの」
「それってどういう――」
そこでドアがノックされた。がんがん、という強い叩き方だった。
「いるんでしょ、茶楽部! 今日こそ、ここから立ち退いてもらうわよ!」
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