20 紙の迷宮

 ――猫の行方を知っているか?


 どういう意味だろう。「猫」とはそのままの意味だろうか。だとしたら、どの猫のことを指すのだろう。

 知佳が知る猫と言えば、市川家のおかゆくらいのものだ。室内飼いだから行方も何もない。家の中のどこか、と答える他ない。

 何かの暗喩だとしたら――それはそれで見当もつかない。猫にたとえられるものとはいったいんだろう。


「あ、市川さん。おは。委員長もね」教室に入ると、声をかけられた。挨拶を返すと、別の同級生が言う。「風邪、もう平気なの?」被せるようにしてもう一人。「心配したよ。始業式から顔色悪かったし」


 あのメッセージの意図はなんだろう。

 まさか本気で「猫」の行方を知りたがっているわけではないだろう。それならもっと具体的に書く。

 仮に知佳が質問の意図を理解できたとして、差出人がわからないのでは答えようもない。

 なら、単なるいたずらだろうか。


「うん、大丈夫。ありがと」知佳は笑みを作った。「前に住んでたとこより寒いからまだ慣れなくて」


 あの紙が下駄箱に入れられたのはいつだろう。

 もちろん、始業式の日にあんなものはなかった。あの日、下校してから今日までのいつかだ。

 つまり、いくらでも機会があった。それ以上の特定はむずかしいだろう。


「市川さん、この前は本当ごめん」犬神がやって来て頭を下げた。「よくわからないけど、たぶんあたしのせいだよね。その、タイミング的に。写真苦手だった? たまにいるんだ。強い光が苦手な人とか」


 差出人は誰だろう。

 学校に出入りできる者なら誰だってあり得る。機会も十分にあった。

 しかし、おそらくはクラスの誰か――少なくとも一年の誰かだろう。

 知佳の下駄箱にはまだネームラベルが貼られていない。単なる愉快犯でも、誰も使ってない下駄箱にこんないたずらをする道理はないだろう。犯人は四組に転校生が来たことを知っていたのだ。


「犬神さんのせいじゃないよ」知佳は言った。「新しい環境でちょっと神経が参ってただけだから。本当に」


 それ以上のことはわからない。

 メッセージの意味、意図、投じられたタイミング、差出人――何も。

 だから、知佳ソフィ、これ以上考えるのは無駄というものだ。

 そうだろう? 最初からわかってたことじゃないか。

 誰も信用できないし、気を許してはならない。差出人が誰であれ同じことだ。誰だって裏切り者になり得る。

 今日は違っても、明日はわからない。

 そうだ、それが賢明だ。何も信じるな。この世にたしかなものなんてひとつもないんだから。




 図書室は三号館二階の南端にあった。


 ――図書室に何か用ですか?


 入室し、ほっと息をつく。教室にいると気が滅入った。顔に笑みを張り付け、言葉を選び、相手の態度や発言のどこかに「差出人」の兆候がないか観察する。これではまた思わぬ不調を起こしかねない。


 ――よければ案内しますよ。


 放課後の図書室は閑散としていた。

 公立校ともなればこんなものなのだろう。蔵書も設備も心もとない。いまどきスマートフォンひとつでなんだって調べられるのだ。わざわざ図書室に足を運ぶ場面は限られてくる。


 ――ううん、ちょっと訊いてみただけ。また今度お願い。


 知佳は「生物」のコーナーを見つけ、足を止めた。棚の一角を占めるだけだが、少し胸が弾む。


 最初の高校では「図書室」は「図書館」だった。文字通り、それだけで一棟の建物が割り当てられており、地元の図書館も顔負けの蔵書量を誇っていた。

「生物」のコーナーだけでも棚を何棹も要し、さしもの知佳もそのすべてを把握することは叶わなかった。背表紙とにらめっこしながら、借りるべき本をメモにリストアップしたものだ。けっきょく、借りられたのは、そのうち数冊だけだけど。


 あのメモは引っ越すときに破いて捨てた。知佳が不良少女ならライターで燃やしたかもしれない。他のプリント類や生徒手帳、そして制服と一緒に。用がなくなったもの、無駄になったものをすべて火にくべてしまったかも。

 いま思えば、少し早計だった。探せば、この図書室や南区の図書館にも同じ本と出会えたかもしれないのに。ネットで調べて、購入することだって。


 知佳は棚の前でしゃがみこんだ。棚の一番下の段には、大判の本が並んでいる。写真集や図鑑の類だ。そこから順に見上げるようにして上の棚へと視線を移す。

 背表紙を物色し、気になった本を抜き出した。折り返しや背表紙、目次などを確認しながら何冊か選び、抱え込む。

 それから蔵書を一通り見て回り、受け付け窓口へと向かった。


「あれ、市川さん」


 受付の男の子に声をかけられた。クラスの誰かだろう。そう、誰かだ。


「えっと」知佳は言葉を選んだ。「図書委員だったんだ」

「実はそうなんだ。意外性あるだろ?」男の子は冗談めかして言った。「この前は、チェリ子の奴が迷惑かけたな」


 チェリ子――櫻子と連想が働く。


「ああ、五條さんの」幼馴染みだ。思わず声に出た。

「……もしかしていま思い出した?」

「ごめん。大きい人って覚えてたから」知佳は慌てて言い訳した。「脚長いんだね。上半身だけだとそうでもないというか」


 実際にはそんなことはない。受付窓口がだいぶ窮屈そうだ。


「なるほど。そうだよな。確かにここじゃ座ってるからわかんないもんな」男の子は自嘲するように言った。「俺特徴ない顔してるし」

「特徴がないっていうのは特別らしいよ。わたしもむかし言われたことある」

「なんだよ、それ」男の子は笑みを浮かべた。「市川さんはその、特徴ないなんてことないと思う」

「ありがとう?」


 後ろから咳払いの音がした。知佳の後ろに並んでいるらしい。


「ああごめん。貸し出しだったな」


 男の子は手続きを急いだ。新規の貸し出しカードを作成し、機械でカードと本のバーコードを読み取る。


「へえ、市川さんもミステリ読むんだ」

「え、うん」


 一冊だけ小説を借りていた。おすすめのコーナーから何となく選んだものだった。


「俺も高校に入ってからハマってさ。ほら、おすすめコーナーあるだろ。あれ俺も選んでるんだ。知ってる? この三咲みさき碧留へきるって作家――」


 ごほん。


「ああ、ごめんごめん。また今度な」男の子は最後の一冊のバーコードを読み込んだ。「ん? こんなのも読むんだ」

「この前読んだ本でそういうトリックがあって」

「ああ、よくあるやつな」男の子は納得した。手続きを終えた本をまとめて知佳に差し出す。「じゃあ、貸出期間は二週間だから」

「うん。ありがとう」


 本を抱えて、図書室を後にする。念を入れて、本の順番を並び替えた。三咲碧留のミステリー小説を一番先頭にする。


『彩都探偵奇譚』

『絶滅動物の世界』

『小鳥の飼育日記』

『ねこなでハンドブック 愛猫を幸せにする13のなで方』

『多重人格の嘘と真実』


 本をリュックに押し込むと、スマートフォンのロックを解除し、メッセージアプリを開いた。

 今朝のような不意打ちを食らわないためにも、もっと使い慣れないといけない。

 さっき入れてもらったクラスのグループでは特に重要な会話はされていない。市川家のグループも今朝から更新がない。

 個人宛ても同じだ。休み時間に着信した蒼衣からのメッセージが最新になっている。


 話さないといけないことがあります

 詳しくは放課後、作法室で

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