19 まるで天使のような
「作法室では何もされませんでしたか」五條は自転車を押しながら言った。「壺を勧められたりとか」
「宗教の勧誘じゃないんだから」知佳は言った。
「じゃあ、部屋で奇妙な香を焚いたりとか、裸になって鶏の血を塗りたくり合ったりとか」
「森野さんを運んであげたお礼にって、ちょっとお茶をごちそうになっただけ」知佳は苦笑した。「森野さんたちってそんなに評判悪いの」
「悪いというか、どう接していいのかわからないといったところでしょう。小太刀さんのことはよく知りませんが――森野さんも岬さんも少し変わってますから」
「ああ、うん。それはなんとなくわかった」
話してるうちに例の稲荷坂にさしかかった。始業式の朝、りんごを拾った坂だ。
五條は自転車を押しながら言った。「始業式の日、森野さんたちのことを訊かれたでしょう?」
トイレでのことを言っているのだろう。知佳は「うん」と答えた。
「あのとき、話そうか迷ったことがあるんです。迷って、けっきょく《
そういえば、知佳が質問を投げかけたときどこか答えにくそうにしていた。
「そうなんだ」知佳は言った。「いいよ、別に。話しづらいなら話さなくても」
「いえ、わたしは構わないのですが――」五條は言葉を区切った。「この話は、市川さんに嫌なことを思い起こさせることになるかもしれません」
「どうしてそう思うの?」
「あの日、直前に市川さんの話を窺ったでしょう? あの話を聞いて、思い出した話なんです」
稲荷坂は勾配を強めつつあった。電動補助付き自転車にまたがった女子生徒が二人を追い抜いていく。
「そう、なんだ」知佳は言葉を絞り出した。
「ええ、ですから――」
「でも、五條さんはその話をしたいんでしょ?」知佳は言った。「ううん、こういう言い方は狡いかな。わたしが知りたいっていうのが本音。だからよかったら話して」
五條は無言で自転車を押し続けた。両手でハンドルを持ち、やや前傾姿勢になりながら。
「……森野さんの制服。わたしたちと違うでしょう?」五條は口を開いた。「二学期のまだ暖かい時期のことです。森野さんはブレザーを着ずにそこいらに放置していたんですが、ある日なくしてしまったようでしてね。本人もどこに置いたか覚えてないそうで見つからないまま数日が経ったんです」
「見つかったの?」
「ある意味では」どうにも歯切れが悪い。「数日後のことです。朝、黒板に写真が貼ってありましてね。彼女のものと思われるブレザーが川に浮かんでいる写真でした」
「どういうこと?」
「さあ。貼った本人しかわからないでしょうね」五條は坂の上を見やったまま言った。「撮影者が自らブレザーを盗んで捨てたのなら明確な悪意でしょう。しかし、撮影者はたまたまそういう光景に出くわしただけならどうでしょう? 何せ、ブレザーそのものが故意に傷つけられた証拠はないわけです。どうとでも解釈できます」
「だとしたら、なんで森野さんに直接教えなかったんだろ」
「言いづらかったのかもしれません。自分が捨てたんじゃないかと疑われかねないですし――見かけたときは森野さんのものだと気づかなかったかもしれません。興味本意で撮影したらクラスメイトのものだとわかって後ろめたくなったのかも」
「それで匿名で知らせることにした?」
「かもしれません」五條は頷いた。「始業式の日、後ろの黒板にウサギのキャラクターが描いてあったでしょう?」
「え、うん」知佳は反射的に言った。それから、自己紹介のときのことを思い出す。「あれ見て笑っちゃった」
「たまに黒板に描いてあるんです。うちのマスコットのようなものでしてね」五條は続ける。「あれも考案者は不明なんです。最初は誰かの何気ない落書きだったのでしょう。しかし、それが受けましてね。クラスのみなさんが真似て描くようになったんです」
「それが?」
「森野さんの件のときも、写真の横にあのウサギが描いてありました」五條は答えた。「泣いている絵でした。ごめんなさいと頭を下げていたんです」
それではやはり撮影者も後ろめたさを感じていたのかもしれない。
「森野さんは、それを見たの?」
「ええ、どうしたものかと話し合ってる間に、教室に入って来られましてね」
「それで?」
「しばらく無言で黒板を見ていましたが――」五條は言葉を区切った。「チョークを取って自分でもウサギの絵を描きはじめたんです。あまり上手ではありませんでしたが――もう一匹のウサギを励ますように肩に手を置くウサギのイラストでした。『気にするな』という台詞を添えたウサギの」
五條は白い息を吐き出す。
「それ以来、森野さんはあの通りのセーラー服です」
「それで話しかけづらくなったとか?」
「あれ以降、森野さんに話しかけづらい空気ができたのはたしかです」五條は言葉を選ぶようにして言った。「思うに――みなさんどこか後ろめたいのでしょう。他人ごとのように言ってますが、わたしも少なからずそう感じたものです。森野さんのことに自分まで責任があるような気がして」
「どういうこと?」
「森野さんはあの通りポーカーフェイスですからね」五條は苦笑した。「ウサギを描いているときもそうでした。何も思うところがないはずがないのに、何の感情も見せずウサギの絵を淡々と描いていたんです。あの小さな体で、腕を目いっぱい伸ばしながら描いていた。その背中がどうにもやるせなくて、かける言葉も見つかりませんでした」
その光景を想像する。爪先立ちになりながら、一方のウサギを励ますウサギを描くカナの背中を。
「泣くとか、怒るとか、もっとわかりやすい反応があればある意味安心したでしょう」五條は言った。「慰めるなり、なだめるなりする人もいたかもしれません。そうすれば自分は正しい立場に立てます。ただ見てるよりはよっぽどすっきりする」
「それは……そうかも」
「ええ。でも彼女はそうしなかった。本当に気にしていないのかもしれないし、抑え込んでるだけかもしれない。それがわからないから誰もどうしようもなかった」
坂の頂上にたどり着いた。交差点の向こうに、学校の石塀が見える。五條は横断歩道の前で立ち止まると、大きく息を吐いた。
「わからないということは快いことじゃありませんからね。理不尽な話ですが、そのことで彼女を悪く言う人もいました。いい子ぶって、とかまあそういうことです」
「そんな――」知佳は思わず口を挟んだ。「森野さんは何も悪くないのに」
「その通りですが――もやもやするのはわかるでしょう?」五條は続ける。「いっそ撮影者を探す流れになっていればすっきりもしたんでしょう。ですが、森野さんは誰の責任も追及しなかった。当事者が灰色の決着ですませたんです。だから誰も潔白を主張することさえできなかった。それがかえって自分が責められているように感じたのかもしれません」
これは視点の話だ、と知佳は思った。知佳も地元の学校で匿名の攻撃を受けた。あのとき、犯人を突き止めようとしていえば、みんなすっきりしたのだろうか。誰も後ろめたさを感じずにすんだのだろうか。
「なんだか」知佳は言った。「誰もいい思いをしなかったんだね」
「まったくその通りです」五條は肯定した。「なお、岬さんが言うには、森野さんは困ってはいたものの怒ったり落ち込んだりといったことはなかったようです。気にしないと言ったのは森野さん本人なのだから本当に気にしなくていいと」
本当にそうだろうか。カナはたしかに無表情だ。しかし、感情がないわけでもないだろう。あれで、気が回るところもある。カナなりにクラスメイトに気を遣っただけなのではないだろうか。
「われわれとしては、それで安心できた部分もありますが、同時に岬さんがいるならば、とあえて森野さんに話しかける人もいなくなってしまいました」
「そうなんだ」
話している間に、校門が見えてきた。始業式のときより人通りが多い。誰も傘をさしていない。
「とはいえ、気にする人はまだ気にしてますからね。市川さんも少し心の準備をしておいた方がいいかもしれません」
「どういうこと?」
「森野さんたちと一緒だったでしょう。何人か見ていたようでしてね。あの森野さんたちですから。どういう関係なんだろうと少し噂になっているんです。むかしからの知り合いとかなんとか」
「え」
「転校してきてすぐお休みになられたでしょう。みなさん、情報に飢えているんですよ。初日は連絡先を交換する暇もありませんでしたし」
無理もない話だ。転校してきたと思ったら、教室で胃の内容物をぶちまけてそれきり、という状態なのだから。限られた情報から話を広げたくもなるだろう。
「いろいろ訊かれるかな」
「それはそうでしょうね。みなさん心配されてましたし」五條は言った。「控えるように通達した方がいいですか?」
「ううん。大丈夫」知佳は笑みを作った。「本当のことを言えばいいだけだし」
校門をくぐり、冬枯れの桜並木を歩く。それからほどなくして、昇降口にたどり着いた。出席番号が離れている五條とは少し距離を置き、自分の下駄箱を解錠する。
下駄箱を開くと、上履きの上にメモ用紙が乗っていた。戸の隙間から差し込んだらしい。
お手本のような楷書で短いメッセージが書かれている。
「どうかしましたか?」五條が尋ねる。
知佳はとっさに素早く上履きを取り出し、戸を閉めた。
「ううん、なんでもない」知佳は笑みを作った。
一瞬で十分だった。メッセージはすでに知佳の脳裏に焼き付いている。
――猫の行方を知っているか?
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