第二部 巫女
17 チェリーガール来襲
――わたし、いつか殺されるんじゃないかって思うの。
カラスの鳴き声がした。があがあ、という濁った声だ。
――このままだと彼は壊れちゃうかもしれない。どうにかしたいよ。でも、どうすればいいんだろう。お姉ちゃんはどう思う?
意識に靄がかかっている。カラスの鳴き声、カーテンの隙間から差し込む薄明かり、タイマーで作動しはじめた空調の音、首までかぶった布団のぬくもり、いつも抱いて眠るぬいぐるみの柔らかさ、染みついた自分の匂い。それらが個々に輪郭を結ぶことはなく、溶け合っていた。
――ずいぶんと仲がいいんだね。まるで双子みたいだ。
そうだ、ここは
――君を待ってる。
わたしは知佳だ。市川知佳。いまはそう、名乗ってる。
――こちらから追うまでもない。待っているよ。
微睡の霧が晴れると、知佳はおずおずと目を開いた。まだ暗い。枕元のデジタル時計を上から叩いてバックライトを点灯させる。
07:54
この数字の並びを、どこかで見たような気がする。そうだ、たしか始業式の朝にスマートフォンで時計を確認したときの――
知佳は時計を持ったまま上半身を起こした。
また知らないうちにアラームが解除されている。無意識にやったのか、二度寝して記憶が曖昧になっているのか。これは永遠に解けないミステリーだ。
知佳は時計を所定の位置に戻し、もう一度ごろんと横になった。
大阪の家から持ってきたペンギンのぬいぐるみを抱きしめる。
いま寝たら、さすがに遅刻するだろう。それともおばさんが起こしに来るだろうか。
流れに身を任せるのも悪くない。
そう思った。もしも、長い連休の後でなかったら、本当にそうしていたかもしれない。一回くらいサボるのも悪くないと思ったかもしれない。
始業式の翌日、知佳は熱を出した。
雨に濡れたせいかもしれない。折れた傘を持ち帰ったときはおばさんにえらく心配されたものだ。
――大丈夫だから。
そう強がった結果がどうだろう、翌朝のかなり早い時間に目覚め、起きた瞬間、熱があると悟った。
体温計を借りると、三八度越えの高熱を叩き出し、おばさんは半狂乱だ。知佳は自分で直接冨士野にメールで欠席する旨を伝えなければならなかった。
けっきょく、熱が下がったのは金曜の午後だった。そこから土日は休みだったから、久しぶりの登校になる。
知佳は欠伸とともにベッドから降りた。寝相がよくなかったのか、床にぬいぐるみがいくつか落ちている。シャチ、ビーバー、シロクマ。まとめて拾い上げ、枕元に戻す。姿見の前で足を止め、手櫛で軽く寝癖を直すと、パジャマのまま部屋を出た。
知佳の部屋は三階にあった。起きたらまず洗面台とリビングがある二階に降りることになる。
ドアを開くと、三毛猫のおかゆが小町の部屋の前で座り込んでいた。
「ご飯まだなの?」
知佳が近づくと、おかゆはその脇を抜け階段の方に向かってしまった。まだ警戒されているらしい。知佳はため息を吐き、おかゆの後を追った。
「あら、そんなことがあったのね。知佳ちゃんったらそういうことは何も言ってくれないのよ」
階下からおばさんの声が聞こえる。おじさんがまだいるのだろうか。そう思いながら階段を降りていくと、途中でおかゆに追いついた。
何やら階下の様子を窺うようにして立ち止まっている。今度は逃げない。ひょいと抱き抱えることができた。
どうしたのだろう――そう思っていると話し相手の声が聞こえた。
「ええ、でもご心配なく。この五條櫻子が――」
なぜここに?
足音を忍ばせながら段差を降りきると、壁に身を隠したまま覗き込んだ。
ダイニングテーブルで五條とおばさんが向かい合って座っている。
「そうなのよ、知佳ちゃんってば意外と負けず嫌いで。お正月なんて、羽子板でムキになっちゃって。顔中墨まみれになりながら
「ほうほう、市川さんにそのような一面が」
「ホント、可笑しかったわ。写真に残せなかったのが残念なくらい」
にゃあ
おかゆが鳴いて腕の中から飛び出す。知佳はとっさに壁に身を隠したが、急に馬鹿馬鹿しくなり、おかゆを追ってリビングに姿をさらした。
「あら、知佳ちゃん。おはよう」
「おはようございます。市川さん」
「おはよ」知佳は手で髪をとかしながら言った。「……なんで、五條さんが?」
休んでる間、メッセージアプリで住所を訊かれはしたが、来るとは聞いていない。
「すみません」五條は言った。「いちおうさっき連絡は差し上げたのですが――」
「え、うん。ごめん。まだ見てない」
「ごめんなさいね。知佳ちゃん、スマホは最近持ちはじめたから」おばさんは言う。
「ええ、それも窺ってますのでご心配なく」
「それにしても、知佳ちゃん、どうして言ってくれなかったの。まだ一日しか通ってないのにこんな素敵なお友達ができてたなんて」
「いえいえ、おばさま。わたしはあくまで学級委員ですので。お友達になるのは――」言葉を区切って、知佳を見やる。「まだ、これからです」
じゅるり、という舌なめずりの音が聞こえた気がした。
「……五條さんって家どこ?」
知佳は五條がローファーをつっかけるのを見ながら尋ねた。
「遠くではありませんよ」五條は振り向きもせず言った。「高台の上ではありますが」
市川家がある南区はほぼ全域が低地だ。高台で近所となると、北の隣区ということになってくるのだろう。政令指定都市である彩都市の心臓部で、役所が集まる区だ。県警本部もある。
後で道場がないか検索してみよう。そう思いながら家を出た。
五條は自転車で来たらしい。家の前に見知らぬ自転車が停めてあった。赤いフレームの、スポーティーなデザインだ。サドルの位置もやや高い。前籠こそついているが、クロスバイクというやつかもしれない。知佳は詳しくないのでよくわからないけれど。
「少々お待ちを」五條はそう言うと、鍵がいくつか連なったキーホルダーを取り出した。
よく見ると、五條の自転車には錠が何種類かついている。後輪の一般的な馬蹄錠。前輪をフレームに固定するU字ロック。チェーンタイプの長い錠は家の柵に結ばれ、遊びがないように巻き付けられている。五條はその一つ一つを慣れた様子で解錠していった。
「お待たせしました」五條は自転車のスタンドを蹴り上げ、言った。
「……いい自転車だね」
「ありがとうございます。そんなに高いものでもないんですが」五條は満更でもない様子で言った。「まあ、これでも定期的に整備してますからね。きれいな自転車は狙われやすいですし、いちおうの用心です」
たしかに錆びや目立った疵も見当たらず、卸したてのように見える。
「自転車好きなんだ」
「ええ、まあ。どちらかと言えば」五條は少し照れたように言葉を濁した。「市川さんは乗らないんですか? あの真新しいミニベロ、市川さんのでしょう?」五條は敷地内の自転車を指差した。「うちのシールも貼ってありますし。いちおう言っておきますが、今日は一日晴天ですよ」
知佳は自分のものとして与えられた自転車を注視した。子供でも乗れるような、背が低い自転車だ。白に近いクリーム色を基調としたモノトーンの配色で、前籠は藤風のバスケットになっている。ミニベロと呼ぶなんて知らなかった。
「うん、まあ。今日はいいかな」
「もしかして乗れなかったりします?」
知佳は返答に窮した。すると、不意に、五條が吹き出したように顔を背ける。
「何?」
「いえ、すみません。本当におばさまの言う通りだなと思ったので」
「負けず嫌い」のことだろう。むかしからよく言われるのだ。
「あれはつぐみちゃんがおもしろがって――」言葉に詰まる。「その、楽しそうだったから付き合ってあげただけ」
「そうですか」気のない返事だ。
「本当だから」知佳は強調した。「つぐみちゃんの部屋にいさせてもらってるわけだし、ちょっとくらい接待してあげないと――その、追い出されはしないにしても」
「わかりますよ」五條は可笑しそうに言った。「ときに、よければ自転車の練習に付き合いますが」
いつもそうだ。否定すればするほど「ほらね」と笑われる。普段はおとなしい知佳が勝負事に熱くなるというギャップがおもしろいのだろう。だから知佳はそういう「キャラ」にされる。
何も不都合なことじゃない。親しみを持ってもらえるならむしろ好都合だ。だから知佳はいつも空気が悪くならない程度に否定する。その方が「知佳らしい」から。
「五條さんがそうしたいなら考えとく」
「ええ、ぜひ」五條は自転車を押しながら、続ける。「地元では乗られてなかったんですか?」
「うん、まあけっこう坂がちな街だったし、交通の便もよかったから」
実際には単純に自分の自転車を持っていなかっただけだ。小学生のときは母がどこかからもらってきたキックボードで移動していた。
「なるほど。まあ、ここからだと学校までにも坂がありますしね」
「うん、学校手前の坂、けっこう急だよね」
「それはおそらく
ルートの指南までしてくれる。よっぽど自転車に乗せたいらしい。
「乗れると便利なんだろうね」
「ええ、それはもう」
そこで会話が途絶えた。自転車のタイヤが回る音だけが響く。
「始業式の日は大変でしたね」五條が切り出した。
「うん、まあ」
「森野さんたちとはあの後どうしたんです」
ずっとそのことが訊きたかったのだろう。あるいは、そのために迎えに来たのかもしれない。
「いろいろとね」知佳は言葉を濁した。「五條さんが言いかけてた先輩の話を聞いたりした」
「
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