11 トイレの告白
死人のような顔だ。
青ざめた顔、虚ろな目。頬もやつれて見える。色つきのリップクリームでは隠しきれないほど血色の悪い唇が鏡の中で引き結ばれた。
「保健室に案内しましょうか」五條が尋ねた。
「いい」知佳はティッシュで口を拭いながら答えた。「大丈夫だから」
教室で嘔吐した後、知佳は五條に介抱されて最寄りのトイレに連れて来られた。しばらくは頭が真っ白だったが、洗面台で口をすすぎ終えるころには人心地ついてきた。
失敗した――
とんだ醜態をさらしたものだ。転校初日から教室で嘔吐してしまうなんて。あだ名はゲロ子で確定だろう。
「何か悪いものでも食べましたか」五條は知佳の背中をさすりながら言った。
「ううん」知佳は努めて明るく言った。「緊張しただけ」
「関西から来たんですよね」五條は気遣わしげに言った。「何から何まで違って大変でしょう。なんならわたしだけでも関西弁を――」
「それはいい」知佳は即答した。
「無理せず、関西弁で話してくれてもいいんですよ。誰も馬鹿にしませんから」
「本当に。これが自然体だから」
五條は目を丸めた。
「順応性が高いんですね」
「たぶん逆だと思うよ」知佳は自分で口にして驚いた。「向こうでうまく馴染めなかったから」
どうしてこんなことを話しているのだろう。さっきので口が緩くなったのだろうか。なんにしても、
「あの、やっぱり保健室で一度診てもらいませんか。お顔が真っ青――」
「変だと思わなかった?」知佳は遮った。「こんな時期に転校なんて」
「……家庭の事情なんでしょう?」五條は言葉を選ぶように言った。
「そうなんだけどね。もうわかんないんだよ。他の人がどう考えるかなんて」
――
「おばさん――いまの保護者に言わせるとね、偏差値の高いいじめなんだって」
「何がです」
「前の――ううん、正確には前の前の学校でのことなんだ。そこはけっこう有名な進学校だったから」
私立の女子高だった。高い学費に見合うだけの充実した設備と、大学と提携した高度な授業が売りの人気校。当然倍率も高い。
知佳が入学した年度は府の学費助成が強化されたこともあり、例年以上に狭き門となった。
「お母さんはね、わたしをどうしてもそこに入れたかったみたいなんだ。近場の高校では、一番『将来』があるからって」知佳は苦笑した。「うちの両親、高校の同級生だったんだって。二人とも学年きっての優等生で、生徒会長の座を争うライバルだったってよく聞かされた」
「それで結婚したんですか。漫画みたいですね」
「そうだね。わたしが小学生のとき離婚したけど」
「……すみません」
「ううん。うちの親が悪いんだよ」
知佳は首を振った。
「それでね、三年生のとき二人は大喧嘩になったの」
「そこで亀裂が入ると、市川さんが生まれない気がするんですが」五條は言った。「なんでまた喧嘩に?」
「それがね、結婚したらどっちが家事と育児を担当するかってこと」
「……高校生の喧嘩なんですよね?」
「当時から将来のことについてかなり具体的に話し合ってたみたいなんだ。大学を卒業したら結婚して、共働きを続けつつ二六歳で子供をもうけるってとこまで合意ずみだった。子供が生まれたら、どちらかが育児と家事を主に担うことも。でも、それをどっちがやるのかで喧嘩になった」
「仕事をやめたくないということですか」
「うん。二人とも頭がよかったし――それでね、勝負になったの。いい大学を出た方が勝ち。子供が生まれても仕事を続けるって」
「いい大学とは?」
「さあ。基準はよくわからないけど、あらかじめ二人で話し合って大学をランク付けしたみたい。後からじゃ水かけ論になるからって」
「なるほど。それで?」
「お父さんが勝ったの。お母さんも京都のいい大学に受かったんだけど、お父さんは一浪して大阪のもっといい大学に受かって、二人ともその大学を卒業した」
「……浪人するのはありだったんですか」
「お母さんもそこはよく愚痴ってた。お父さんはむかしからずるいって」知佳は苦笑した。「もしかしたらそれが離婚の原因だったのかもね。離婚すれば、約束は反故になってお母さんも働きに出れるし」
「でも、市川さんが大変じゃないですか? ご両親が離婚されたときは、まだ小学生だったんでしょう?」
「まあ、自分で言うのもなんだけど手がかからない子供だったし――」知佳は続ける。「でも、お母さんは思ったような仕事ができなかったみたい。学歴はあっても、育児でブランクがあったし――離婚してしばらくはいろんなパートを転々としてた」
アパートの居間にはいつも求人情報誌が積まれていたのを思い出す。暇なときは特に意味もなくページをめくって時間を潰したものだ。
ビル清掃に飲食店のオープンスタッフ、ポスティングといった毎度代わり映えのしない募集もあれば、情報量が少なく怪しい募集もあったが、母が印をつけるのは決まって「正社員」の募集だった。給与の欄が「時給」ではなく「月給」で表記され、福利厚生の欄が充実した募集だ。
「わたしが中学に上がるとき、お母さんに泣いて謝られたことがあるんだ」知佳は言った。「私立の学校に入れてあげられなくてごめんねって。別に地元の中学が荒れてたわけでもないんだけどね。でも、お母さんにとってはそれが重要なことだったみたい。自分が許せないほどに」
知佳は笑みを作った。
「ごめんなさい、ごめんなさいって何度も謝んだもん。逆に不安になっちゃった。『こーりつ』ってそんなスラムみたいな場所なのかなって。わたしの人生、ここで終わりなのかなって」知佳は続ける。「お母さんは子供には自分の轍を踏ませたくなかったんだと思う。お父さんよりいい大学を目指しなさいって口癖みたいに言ってた。男なんかに騙されず、自立した自分の人生を歩んでほしい――って。そのためには男の子よりたくさん勉強すべきだって。お父さんよりもっといい大学に入るべきだって」
「ああ、それで」
「うん。例の高校になんとしても受かりなさいって」知佳は言った。「塾とか家庭教師は高くつくからって、大学時代のツテを辿って院生のお姉さんを居候させて家庭教師代わりにしたり」
「市川さんはどうだったんです。その学校に入りたかったんですか」
「どうなんだろう。わたしはただ勉強していい点を取るのがゲームみたいで楽しかっただけだから。他にやりたいこともなかったし――逆に言うと、その学校に入ってやりたいこともなかったんだけどね。お母さんはわたしが獣医を目指してると思ってたみたいだけど」
「違ったんですか?」
「うん。お母さんの勘違い。というよりは願望かな? お母さんが元は医学部志望だったから。でも、おかしいよね。お母さんたら『お医者さんにはなってほしいけど、別にそれが動物のお医者さんでもかまわないわよ』なんて、まるで自分が譲歩してあげてるみたいに言ってさ」知佳は苦笑した。「そういう思い込みが強い人なの。
五條が少し訝しげに眉根を寄せるのと、知佳が自らの失言に気づくのはほぼ同時だった。
「ああえっと、その、お母さんがね」知佳は咄嗟に言い繕った。実母を下の名前で呼ぶ娘はそう多くないという独自研究に基づく判断だった。五條が何か口を挟む前に続ける。「合格したとき――お母さんは柄にもなくおおはしゃぎで喜んでた。あれは恥ずかしかったな。合格者一覧の前で抱きついてきたんだよ?」
「それで」
「けっきょく、わたしがあの学校に在籍してたのは一学期の三ヶ月間だけだった。授業の進行は早かったし電子黒板とかタブレットをフルに活用した新鮮なものだったけど、その後に予定されてたプログラムを体験する前にわたしはあの学校を去った。わたしが体験できたのは、広くてきれいな校舎とかわいい制服、そしておばさんが言う《偏差値の高いいじめ》」
「何があったんですか」
五條は促すように尋ねた。
「吸血鬼事件」知佳は言った。「去年の梅雨入りするかしないかって時期にそんな事件があったでしょ」
「ええ。こちらでも大々的に報道されてましたし――」
「じゃあ、被害者の子の顔って覚えてる?」
「いえ、ぼんやりとしか」
「そう、じゃあ後で検索でもしてみて」知佳は言った。「その子――
「……確かに雰囲気は似てた気がしますが、それが?」
「それがはじまりだったんだよ」
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