10 フラッシュバック
教室に戻ると課題のテストが待っていた。英語、国語、数学の三教科だ。
課題は知佳にも出ていた。二学期の復習のような内容だった。
このテストはさらにそのおさらいみたいなもので、ちゃんと課題をやっていれば悪い点を取る方がむずかしい。成績に響くようなテストでもないし、気楽なものだった。
いい息抜きだ。
休み時間の度にわらわらと集まってくる同級生たちの相手をするよりはよっぽど気が休まる。方程式や読解問題には必ず答えがあるし、間違えたところで誰も傷つけないのだから。
斜め前の席に目を向けると、カナは頬杖を突きながらペンを淀みなく動かしていた。
早々に解き終えたのか、二〇分近く時間を残してまた机に突っ伏してしまう。どの教科でもそうだった。
たしかに勉強ができないわけではないらしい。数学などは知佳より早く解き終えていた。
いや、解き終えたかどうかはわからない。投げ出した問題がないとは限らない。
そんなことを思いながら、知佳も机に顔を伏した。
まるで対抗しているみたいだな、という考えが一瞬脳裏をよぎる。
どうでもいい。いずれにせよ昨夜はよく眠れなかったのだから。カナがいてもいなくても、きっと自分はこうしていたはずだ。
あの子は関係ない。きっと。
「今日はどうでしたか」
HRが終わると、五條が席に座したまま話しかけてきた。やはり少し前傾姿勢だ。知佳は思わず身を引きながら答えた。
「うん、大丈夫」笑みを作る。「みんないい人だね」
ボス猿のような子がいたらどうしようと心配していたが杞憂だったようだ。そんな子がいたらきっと真っ先に「挨拶」に来ただろう。新参者を値踏みし、それとなく自らの立場を誇示したに違いない。
幸いにして、そのような動きはまだ見られなかった。好奇心と親切心を持て余した女子たちが寄ってたかって情報交換を持ちかけてくるだけ。
曰く、学食のタコライスがどうだとか、中庭の桜がどうだとか、再放送中の人気アニメがどうだとか、根を張ったミントの除草方法がどうだとか、そんな情報と引き換えに、知佳は自らのプロフィールを少しずつ切り売りしなくてはならなかった。誕生日は六月六日、好きな動物はペンギン、身長は秘密、といった具合に。
「ええ、まあ。ゆるいんですよ。良くも悪くも。催しごとでも一致団結してがんばるぞって感じではありませんし」五條は肩をすくめた。「それより、連絡先を交換しておきませんか」
五條はスマートフォンを操作しながら言う。知佳は慌てて自分のスマートフォンを取り出して、五條を連絡先に追加した。
「はい、これで四六時中、二十四時間、わたしと市川さんはつながることになるわけですね」
「え」
「ふふ、冗談です」
本当に冗談ならいいが。知佳は思った。どうもこの五條という子からは、単に転校生に向ける以上の関心を向けられている気がする。
「おいおい、あんまり市川さんを困らせるなよ」
前方から、体格のいい男の子がやってきた。五條はその姿を見て、露骨に顔をしかめ、舌打ちをした。
「さっそく、転校生の女の子に唾をつけに来やがったわけですか。汚らしい」
「唾つけてるのは櫻の方だろ」
「そんなわけないでしょう。ねえ。市川さん」
「う、うん……」
「見ろ、市川さんが困ってる」
「あなたに怯えてるんですよ」五條はため息をついてから言った。「目障りだから消えてくれませんかね」
知佳は、五條が男の子に対して身を乗り出さずに話していることに気づいた。どうやら、誰彼かまわずやっているわけではないらしい。
「お前なあ。いつも言ってるけど、いくら男に興味がないからってその態度はどうかと思うぜ」
知佳は五條の顔に目線をやった。「そうなの?」という意味を込めたつもりだった。
「男性全体にこういう態度を取るわけじゃありませんよ。わたしがこうするのはあなたがあなただからです」
「そのあなたって呼び方もやめろって。いったい何年の付き合いだと思って……」
「市川さんの前で誤解を招くような発言はやめてください!」
五條は声を荒らげた。教室中の視線が一瞬、彼女に集まる。知佳はぎょっとして五條の顔を眺めた。相変わらずの無表情だ。こんな表情で叫ぶ人を知佳は他に知らない。
「ああ、はいはい。俺だって何もお前に罵られるために来たわけじゃねえっての。ただ、市川さんに注意を促したかっただけ」それから知佳に向かって、
「気をつけろよ、市川さん。こいつ男よりも女が好きなクチだから。それもちょうど君みたいな……ごぉっぐ!」
男の子は奇声をあげてうずくまった。五條が男の子の鳩尾に裏拳を叩き込んだのだ。
「いって……お前、さすがにそれは
「ええ、さっさと
「ああ、もういいや」男の子は鳩尾をさすりながら言った。「じゃあな。市川さん、また明日」
「うん、さよなら」
男の子が教室を後にすると、五條はどっと肩を落として言った。
「ふう、男の子の相手は疲れますね」
どちらかと言えば男の子の方が大変な思いをしていた気がするが、知佳はあえて口にしなかった。
「幼馴染……とか?」
「腐れ縁ですよ」五條が被せ気味に言った。「うちの道場に通ってるんです」
「道場って」
「ええ、道場です」五條はその一言ですべてが説明できるかのように言った。「何の自慢にもなりませんが、その筋ではそこそこ有名でしてね。警察関係者も出入りしてたりするんですが……まあ、つまるところ汗臭い場所ですよ」
五條は顔をしかめた。いままさに道場の匂いが漂ってきたとでもいうように。
触れない方がいい話題なのかもしれない。そう思っていると、
「イエーイ、市川さん四組はどう? 楽しんでる?」
今度はデジカメを持った女の子が話しかけてきた。
「こちら、犬神さんです」五條が知佳に紹介する。
「ども、犬神です。よろしくねー」
「うん、よろしく」
「イニシャルI同盟結成だね」
言いながら、ハイタッチを求めてくる。知佳は戸惑いつつも簡単に応じた。平時からテンションが高いらしいタイプらしい。ベリーショートの黒髪とピンクフレームの眼鏡も相まって明るく活動的な印象を受ける。
「委員長はね、意外と腹黒いけど同じくらいいい人だから」犬神は言った。「そうじゃなきゃ学級委員なんてしないでしょ」
「誰も立候補しないからですよ」五條は気まずそうにおさげの毛先をいじりながら言った。「あの日はガチャの更新日だったんです。早く帰って、課金したかったんですよ」
「ほらね」犬神は知佳に向けて言った。「まったく褒められると弱いんだから。この前もね――」
「それで」五條は遮った。「わざわざわたしを持ち上げるために来たんですか――って、ああ。そういう用件ですね」
「そういうこと」
「えっと……」
「犬神さんはこのクラスの写真係なんですよ」
「そんな係が?」
「ああ、違う違う。いくらうちがフリーダムでもそんな係ないから。みんなが勝手に言ってるだけ」
犬神は照れたように言った。
「クラスアルバムを作っててさ、進級祝いに希望者に配ろうと思ってんの。というかそういう話になってんの。まあ、製本するのもただじゃないし印刷代はいただくことになるけどねえ」
それから、ここからが本題とばかりに続ける。
「始業式じゃん? 我らが栄光の
犬神はカメラを構えた。
――似てるって。写真で比較したらわかるんじゃない?
「うん」知佳は笑みを作った。「いいよ」
だけど、
――
「はい、チーズ」
胃から酸っぱいものが込み上げてくる。知佳は拒絶の意志を示そうとした。しかし、それより早くフラッシュが瞬き、知佳はパンケーキとヘーゼルナッツペーストの混合物を床の上にぶちまけた。
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