7 白衣のゆるキャラ

「うちのクラスにカナって子がおるかって?」

「はい」


 担任の冨士野が眉をひそめた。眠たげな瞳の数学教師だ。生徒からは「ふじのん」と呼ばれ親しまれているらしい。


「舐められている」の間違いではなければいいが、と知佳は思う。ジャージに白衣という気の抜けた着こなしや、地毛の色が目立ちはじめたキャラメルブラウンは、教鞭を執るより大学の研究室でビーカーでも揺らしていた方が様になりそうに見えた。


 屋上で季節外れの怪談を聞かされた後、知佳は職員室を目指した。


 職員室は一号館の二階にある。地図上では「川」の字で並ぶ校舎の、一番左側のかくにあたる棟だ。

 校門から入ってすぐ正面にあり、保護者などの来賓客が他の棟を経由せず直接訪ねられるが、三号館からは渡り廊下を用いていったん二号館を経由しなければならない。

 やや急ぎ足で向かい入室すると、ちょうどいま出勤してきたところだという冨士野と対面した。

 そこでこれからの段取りを簡単に説明され、何か質問があるかと訊かれたのでカナのことを尋ねたのだ。


「カナ……カナ……おったっけなあ」


 冨士野はシュシュでまとめたサイドテールを肩から払った。考え込むようにしながら、座り心地がよさそうな回転椅子を左右に小刻みに揺らしはじめる。


「あの……いますよね」

「いや、クラスの子の名前を覚えてへんわけちゃうよ?」冨士野は弁解するように言った。「ただ、急にはちょっと……」


 少し不安になってきた。まさか、本当に幽霊だったとでもいうのだろうか。


 ――きゅるるるるる。


 屋上に間の抜けた音が響いたのは、少女が知佳の胸にナイフを突き立てるような構えをした瞬間のことだった。


 ――え。


 思わず声が漏れる。


 ――……なーんてな。


 少女はそう言ってナイフを翻した。まるで、いましがた自分のお腹が発した音をごまかすように。


 ――心臓の取り出し方なんて知ったところで、なんにもなりゃしないよな。

 少女はこれ見よがしといった風にあくびを漏らした。

 ――眠いな。八時間は寝たのに。


 考えてみれば、さっき知佳は彼女を殴ってるし、落ちる靴があるくらいだから足もある。くしゃみもしてたし、あくびもすれば腹も鳴る。霊的な存在のわけがない。


 ――脅かして悪かったな。

 少女は慣れた手つきでナイフを畳んだ。

 ――でも、そっちもそっちだぞ。ここはいちおう神域だから関係者以外立ち入り禁止なんだ。蒼衣たちから聞いてないか?


 ――……それはごめん。


 ――気にするなよ。こっちも脅かしすぎた。

 少女はため息を吐いた。

 ――よくないな、こういうの。不浄っていうのか? 血とか殺生とか、神様はそういうのを嫌うらしいからな。特に巫女がそういうのはまずいんだ。


 ――巫女……?

 ――そ、これでもそのりんご様とやらの巫女でな。というか、そういうことになってるらしい。

 ――らしいって、自分のことでしょ。

 ――しょうがないだろ。普通の学校には巫女なんていないらしいし――そもそもその神様だっているかどうかもわかんないんだから。


 そしてボソッと呟く。


 ――まったく、


 なら、どうして巫女なんて――そう口にしようとすると、少女は不意に、


 ――ああ、ちなみにだ。一年四組の、カナ。巫女はいつでも募集してるから、気軽に声をかけてくれ。


「ああ、なんや。森野もりのさんのことやな」冨士野は手を叩いた。

「え」

「本名は違うんやけどねえ。もっとこう……キラキラした感じで」冨士野はつけ足した。「まあ、そのせいもあるんと違うかな。友達には《カナ》って呼ばせてるみたいやね。ちっちゃくってくせ毛の子やろ? セーラー服の」

「はい」

「じゃあ間違いないわ」腕を組んで満足そうに微笑む。

「なんでセーラー服なんです?」

「うち、ブレザーになったのはいまの二年生からなんよ」冨士野は続けた。「三年はあんまり見いへんから気づかなかったんやな。この時期はコート着てる子も多いし」

「でも森野さん一年ですよね」


 ああ見えて二回留年しているとでも言うのだろうか。


「あの子も入学したときはブレザーやってんよ」冨士野はそこで少し声のトーンを落とした。「ただ、衣替えの時期になくしてもうてな。うちは校則ゆるいし、ブレザーなんてほとんど着てこうへん子もおるんやけど、さすがに式典では正装せなあかんやろ。それで知り合いから制服を借りたっていう話や」

「いいんですか、そういうの」

「まあ、二年には留年してセーラー服のままいう子もおるし」

「クラスで浮きませんか」

「そういうの気にせえへん子やから」冨士野は目を細めた。「なんや気になるのん。なんならもっと教えたってもええで。出席番号三六番。得意科目は数学。出身中学は――」

「あの……間に合ってますから」

「あら、そう」


 カナの話題は打ち切り、この後の段取りを改めて確認する。職員室で教員たちに紹介された後は会議室で待機。予鈴を待って、冨士野と教室に向かうことになる。


「まあ、普通なら自己紹介するんやけど」冨士野は言った。「なんならやらんでもええのんよ」

「え」

「もう高校生やしねえ。特に知佳やんの場合、事情が事情やし」

「誰ですか、知佳やんって」


 冨士野は無視して、


「先生な、やりたくないことはやらんでええと思うのよ」言いながら、コーヒーをすすった。「先生も他の先生に仕事押し付けて自分ははよう帰ってるし」


 それは大人としてどうなんだろう。そう考えたのが伝わったのか、冨士野は言った。


「公立やしへーき、へーき」

「先生のクビは心配してません」

「なんや、漫才みたいやなあ」ボケの自覚はあったらしい。「で、ええよね。挨拶はせんでも」


 いつの間にかそんな話になっていた。すっかり冨士野のペースだ。


「あの……やりますから」知佳は言った。「しれっと教室にいたらそっちの方が目立ちそうですし」

「まあ、そういう考え方もあんのかもね」


 冨士野は少し肩を落とした。もしかして、自分が面倒くさいからやりたくなかっただけじゃないのか、この人。


「あ、ばれてもた?」

「……心が読めるんですか」

「声に出とるんよ」

「え、嘘」知佳は口許を押さえた。

「冗談冗談」冨士野は手をひらひらさせながら言った。「知佳やん、ちょっと騙されやすいんと違う」

「そんなことは……」言葉を切った瞬間、コンパクト編集版の走馬燈が脳裏を駆け巡った。「あるかもしれません……」

「女の子やし気いつけへんとな」

「そうします……」


 気づいたら説教される形になっている。

 冨士野の机に目を落とした。猫のイラストがあしらわれたマグカップ。サボテンのフェイクグリーン。書類の山と申し訳程度の作業スペース。


「最後にもうひとつだけいいですか」

「ええよ」

「最初に会ったときは標準語でしたよね?」

「ああ、これな」冨士野は言った。「知佳やんも新しい環境で大変やろと思ってな。少しでも前の環境に近づけよういう先生なりの工夫や」

「わざわざですか」

「わざわざでんがな」


 掴みどころのない教師だ。やりたくないことはやらないのではなかったのか。


「わたし、訛って聞こえます?」

「ん? 確かにそやね。きれいな標準語やわ」しかし、冨士野は気にした風もなく、「まあ、これはこれでおもろいしええんとちゃうかな」

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