8 聖セバスティアヌスの殉教
予鈴を待って、知佳は冨士野とともに教室に向かった。
冨士野はドアを開いた。知佳はその場に待機する。
教室でも関西弁で通すつもりらしい。一年四組の面々は「ふじのん」の唐突なイメージチェンジに、戸惑いを隠せない様子だった。
一方のふじのん本人はマイペースなものだ。ざわめきが収まらないうちに新学期の挨拶をはじめたかと思えば、誰もろくに聞いていないと悟ってか、かなり強引に話を切り上げてしまった。転校生の紹介まで一気に前倒しだ。
「実はふじのん、転校生を連れてきました」
これには、さすがに生徒たちも無関心ではいられなかったらしい。教室が一気に沸き返った。知佳は思わず後ずさりする。廊下側の窓はすりガラスになっているが、無数の視線が向けられるのを感じた。
「はい、静かに」冨士野が言う。「あんまり騒いだら、入って来づらいやろ」それから、少し大きな声で、「じゃあ、入って来」
知佳は一度大きく息を吐いた後、ドアを開いた。瞬間、教室中の視線が矢となって突き刺さってくる。
足がすくんだ。
弁慶じゃないがこのまま立往生してしまいそうだった。知佳はロボットのようにぎこちない足取りで教壇の横まで歩を進めた。冨士野がチョークを差し出してくる。手が震えて、うまく受け取れない。
「緊張しいな」
冨士野が言うと、教室がどっと沸いた。そうなると、もう駄目だった。知佳は一度は掴んだチョークを床に落としてしまった。
「す、すびばせん」
知佳が噛みながら言うと、教室がふたたび沸き返った。知佳は耳が熱くなるのを感じながら、チョークを拾った。クラスメイト達に背を向け、黒板に向かう。
集中しろ。集中。知佳は自分に言い聞かせた。視線の矢は気にするな。いまは背中が盾になってくれる。自分の名前を書くことに集中するんだ。
市川知佳。
いまだなじみのない名前だが、書き損じるようなことはない。小学校で習うような漢字だ。落ち着けばこれ以上失敗することなんてありえない。
黒板にチョークを立てた。だが、力を込めすぎたのだろう。チョークが真ん中でぽきりと折れ、知佳はその勢いで前のめりに倒れ、黒板に衝突した。額をしたたかぶつける。
激痛――それから、遅れて羞恥の念がやってきた。頭が真っ白になり、顔からはいまにも湯気が出そうだった。
「がんばれ」
背中に応援の声が投げかけられる。知佳はほとんど泣きそうになりながら、「市川知佳」の四文字を書き上げ、クラスメイト達に向き直った。顔は努めて見ないことにする。後ろの黒板に意識を集中させた。瞬間、思わず吹き出しそうになる。
黒板にらくがきがしてあったのだ。おどけたうさぎのイラスト。知佳は俯き、笑いをかみ殺した。それが涙をこらえているようにでも見えたのだろう。ふたたび「がんばれ」という声が浴びせられた。
「市川知佳です」
知佳は顔を上げて言った。それからベッドの上で何度となく検討した至極当り障りのない自己紹介を続けた。
「よろしくお願いします」
最後にそう言って頭を下げる。やりきった。
「じゃあ、席は五條の隣な。学級委員長やから困ったことあったら頼り」
「はい」
知佳は返事をして、指定された席に向かう。その間、無数の視線が自分に突き刺さるのがわかった。
机にリュックをかけ、椅子に腰を下ろした。その瞬間を待ち構えていたようにして、五條という生徒が話しかけてきた。
「
五條がぺこりと頭を下げた。その動きにつられて、おさげにした髪が尻尾のように軽快に揺れた。
「こちらこそよろしく」
返事をしながら思った。体ごとこちらに乗り出して話しかけてくるのはこの子の癖なのだろうか。
他人行儀な言葉遣いの割りに、妙に距離が近い。まるで、知佳の顔の造作や息遣いを余さず記憶に焼き付けようとしているようだ。
その目がまた平板で、何の感情も宿していない。これは何かのプロの目だ。知佳は骨董屋の店主に鑑定される壷の気分になった。
「いい……ですね」
五條が言った。平板な口調なのに、なぜか舌なめずりの音が聞こえてきそうだった。
「え、何が」
知佳は五條の視線を避けるようにして妙に体をよじった。それから両腕で体をひしと抱く。
「いえ、こっちの話です。お気になさらず。じゅるり」
五條はこれ以上なくわかりやすい舌なめずりの音を立てた。
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