8. 隠された思惑と、災難の予感

 背中を押されて入ったその館の内部は、思ったよりも普通だった。外壁は黄金に包まれていたが、中は柱と梁と一部に黄金の彫刻が施されていることを除けば、あとはいぶし磨き上げられた艶やかな深い木の色に包まれている。


 人気のない回廊を進み、やがて大きな扉の向こうにあったのは、大きな食堂のようだった。そこには逞しい容姿の男たちと、勇ましくも美しい乙女たちが思い思いに食事をしながら談笑している。男たちは一様に武具を身にまとい、その体にはあちこちに傷が見える。一見して戦士だと知れた。

「そうだ、ここは黄金の死者の館。死した英雄たちが戦乙女ヴァルキューレに選ばれ、招かれる場所だ」

 ベルヴェルクは隻眼せきがんを細めてそう言うと、かたわらのジークがさらに毛を逆立てる。その背中を撫でて落ち着くように伝えたが、何となく気味が悪いのはエルにとっても同様だった。

「死者の館に、私みたいな生きてる人を招くのはよくあることなの?」

「まさか」

 隻眼の主は平然とそう答える。薄い色のその眼差しは今はエルを射抜くように鋭い。

天映てんえいの瞳を持つそなたなればこそ、だ」

「天……何?」

「空を映すその瞳だ」


 エルの瞳は空の色とともに刻々と変化する。曇り空でも色は変わっていくから、正確には空というよりは、時刻とともに変化する、と言うべきなのだろう。鏡がなければ自分ではその色を確認することができないから、エル自身にとってはあまりよくわからないのが実際のところだったのだけれど。


「この瞳がどうかしたの?」

「その瞳は力持つ森の精霊の一族の証。かつて、その瞳を持つものは、ことごとく滅ぼし尽くされたがな」


 どこか面白そうに言う隻眼の主に、エルはなぜだか背筋がぞくりと震えた。同じ瞳を持つものたちが滅ぼされた——ロキもそんなことを言っていた気がする。では、彼女の母であるディルはその生き残りということなのだろうか。


「どういうこと?」

「かつて、我らの世界とそなたらの世界の境界はもっと曖昧だった。虹色に燃える橋ビフレストを渡れば、いつでも行き来できる程度にはな」


 だが、いつしか神と精霊と人とは隔てられた。その原因が何だったのかはよくわからない。ただ、そうして隔てられ、分かれて生きるようになっていくうちに、神族である彼らの力も少しずつ失われていっているのだという。


「我らは元より長き生命をもつ。だがそれも、イドゥンの黄金の林檎なくしてはもはや保たれぬ。いずれ神々の黄昏ラグナレクが来る頃には全てが滅びよう」

「……何を言っているのか全然わからないけど、あなたたちは不死でも全知全能でもないってこと?」

 端的なエルの言葉に、ベルヴェルクは何が面白いのか声をあげて笑った。帽子を脱ぎ、エルの背を抱くようにして、テーブルの奥へといざなう。食卓には黄金のゴブレットと、何かの丸焼きや果物、それにこんがりと焼かれたパイなどご馳走が並んでいる。

 そういえば、昼食がまだだったと気づいて、丸い焼き菓子ガレットに手を伸ばそうとすると、隣でジークが低く唸った。その金の双眸そうぼうは険しく、今にも噛みつきそうに牙を剥き出しにしている。

「毒でも入ってる?」

「そんなわけはなかろう。だが、まあその獣の懸念もわからなくはないがな」

「どういうこと?」

「異界で、その地の食物や飲み物を口にしたものは、元の世界へと戻れなくなるという逸話を知らぬのか?」

「そうなの……?」

柘榴ざくろの実を四粒食べたがために、一年のうち四ヶ月を冥府で過ごさねばならなくなった娘がおるそうだぞ」

「……神話とか伝説?」

「そのたぐいだな」

 相変わらずくつくつと低く笑うその横顔に悪意は見えない。神族と名乗る者から神話を聞かされるというのもおかしな話だったが、エルは焼き菓子に伸ばしていた手を引っ込めた。ベルヴェルクの得体の知れなさは元より、魔法に関わることならば、黒狼こくろうの姿のジークの方がはるかに信用がおけるとわかっていたので。

「食事をせねばやがて飢えて乾いてしまうぞ?」

「そんなことになる前に帰るよ」

「帰れると思っているのか?」


 じっとこちらを見つめる眼の色が不意に深くなったように見えた。ぞくり、と背筋が震えると同時に、ジークが再び低い唸り声を上げる。だが、ベルヴェルクはゴブレットに口をつけながら残った隻眼をすがめて笑うばかりだった。


「この世界は、緩やかに滅びに向かっている。我らは力を失い、いずれ邪狼フェンリルの戒めの銀の紐も解け、太陽と月はその眷属けんぞくに食い尽くされ、我らもそのあぎとにかけられることになるだろう」


 歌うように言って、エルをじっと見つめる。気がつけば食卓についていたはずの他の乙女や戦士たちの姿はいつの間にか消え、彼らだけが取り残されていた。窓の外には夕闇の気配が近づき、部屋の中はいっそう濃い闇の気配が満ちる。


「滅びを避けるには、新たな力を手に入れねばならぬ」

「新たな力?」

「この地にはない、天地を動かし、世界に関与するほどの力——」


 ベルヴェルクは、その手をエルの頬に伸ばしてくる。髭に覆われた顔は年齢を曖昧にしているが、節くれだったその手はがっしりと大きく、いくつかの傷はあるものの、皺は少ない。少なくとも老人の手ではない。

「あなたの素顔が見てみたい」

 ふと溢れた言葉に、ベルヴェルクがわずかにその隻眼を見開いた。それから、それまでとは異なった、心の底からといった風の朗らかな笑い声を上げる。

「面白い娘だな」

「そう? 相手の顔が見えないと何考えているかわからないし、顔が見たいと思うのは普通のことだと思うけど」

「寝所でなら、見せてやらぬこともないな」


 一瞬言われたことが理解できず、首をかしげたエルの頬に、今度こそその力強い手が触れる。


「言っただろう。我らには新たな力が必要だと。先のその瞳の持ち主を手に入れることは叶わなかったが、私はそなたを手に入れる」

「手に入れるって……」

「寝所で、と言っただろう?」


 気がつけば周囲の闇はさらに深くなり、ジークの姿も見えない。


「何を言って……」

「この腕輪がその証。そなたは私のものだ」

 左腕にぴったりと嵌った腕輪ごと腕を掴まれる。思いの外、強いその力に逃れようと身をよじったがぴくりともしない。

「離して。私には特別な力なんてないし、ディルだってそうだったって」

「知らぬだけだ。現に、あやつとてそなたを手に入れるために印を残しただろう」

 言いながら左手首の内側に浮かぶ黒いあざのような文様を示す。

「あれが見出したのであれば、間違いない」

 隻眼はまっすぐにエルを見据えるように向けられ、明らかに逃さないという意志を示している。この後に待っているのが、彼女にとって望まぬ行為であることは、その手の知識も経験も薄いエルにとっても明らかだった。

「逃さぬよ」

「嫌だ……!」

 抱き寄せるように伸ばされた反対の腕から何とか逃れようと身をよじって叫んだ時、ぐにゃりと空間が捩れるような奇妙な感覚に包まれた。はっと目の前の隻眼が驚いたように見開かれ、それから明らかにそこに怒りの表情が浮かぶ。

「邪魔立てするか……」

「邪魔も何も、俺が先に見出したんだ。横から手を出すなんて、気高き王のすることとも思えませんがね」


 不意に現れたその姿は、一瞬ベルヴェルクが怯んだ隙にエルを引き寄せて胸に抱き込み、人を食ったような癖のある笑みを浮かべる。


「先約がありますので、それではこれで失礼いたします」

「ふざけるな……!」


 不可思議な色の瞳を持つ青年——ロキは、平然と片眉を上げて笑ってみせると、エルを抱いて、その場から霧のようにかき消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る