第2話:生きる意味は十人十色
今は“生きる”と1つにまとめることは難しい。なぜなら、1人1人“生きる“という意味が違うからだ。ある人は”人の役に立ちたい“という自分も相手も幸せになりたい。ある人は”幸せな生活を送りたい“といった個人的な願いが込められている場合もある。しかし、これらの夢を崩してしまうのが、その人の人格を否定することや身体的苦痛・精神的苦痛を与えることだろう。まず、強く感じることとして“いじめ・ハラスメントに対する危険認識の薄さ”だ。今は、いじめやハラスメントなどは社会的に問題になっているが、一向に減る兆しが見えない。これは、私は他者共感や相互承認の部分における攻撃ファクターが心理的に働くことからくるものだと思っている。
これは、幼少期から積み重ねてきた行動や経験してきた記憶がこれらの反応が早く形成されるか、遅れて形成されるか変わってくる部分だと認識している。1番怖いのは両親などの大人が人に対して暴力を加えている場面や言い争いをしている場面を見てしまった場合に“考えが違うなら暴力をしてもいい”という認識になってしまう。その結果、こども園などの集団生活が始まった段階でお友達を殴ってしまう、突き飛ばしてしまう、悪口を言ってしまうなど本当はいけないことをやるようになってしまうのだ。しかし、これを親が「なんでそんなことをしたの?」と叱るのは逆効果になる場合もある。なぜなら、その行動は両親などの本人が見た光景をそのまま真似している可能性があるからだ。仮に親のやっていることを真似していたとすると、叱られたことで“なんでパパとママがやっていることは良くて、僕(私)がやっているのはだめなの?”となってしまうのだ。
日本においてこのような習慣の積み重ねがいじめやハラスメントに発展しているという認識が海外に比べると薄いのではないか?と感じる。これは上下関係が影響している場合が多く、“この人は年上だからこういう対応をしなくてはいけない”・“この人はこういう関係の人だから・・・”と社会的な関係性を重視しすぎた結果、ストレスが過剰に作用してしまい、結果として体調を崩してしまう。もちろん、適度なストレスであれば問題ないが、適度なストレス状態で過ごせている人は多くはないだろう。
私は生きる意味というのは自己創造も重要だが他者創造も同じくらい重要だと思っている。なぜなら、自己形成をする上で必要な情報や感性は自分だけでは磨くことが出来ないからだ。だからこそ、この世界には自分以外の人間が存在していて、そこから必要な情報を抽出して、自分の考え方における柔軟性の向上や視野の拡大など必要な知識を蓄えることになる。その手段がその人を追い詰めることなどの不必要な行動における方法として用いられるのはお門違いだろう。そして、人というのは他者から必要とされることで生きていくことを実感しているのだ。
仮に自分とは考え方が違うとしても本人の生きる意味を失わせるような行動はしてはいけないと感じている。
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