生きているということ

NOTTI

第1話:生きるとは

“今、自分は生きている。”そう一般的には感じると思われている。しかし、年齢を重ねると生きてきた過程で積み重なった経験で生きているという感覚が麻痺していく瞬間が次第に増えていく。今の世の中において平等性が担保されているというが、私は不平等性の方がどうも目に付く。例えば、教育なら“この大学は良い大学。この大学は悪い大学”と偏差値などで決めてしまう場合が多い。これはソーシャル・バリュー(社会的価値)の観点で見る人が多いからだ。他にも大学の場合は就職率や卒業生の就職先などの卒業後に自らに有利に働く大学かどうかを同系列の大学などから見定めていく。つまり、教育から見る“生きる”とは“本人の印象を決めるツールとしての指標”であるということになる。


 これは今の世評を表しているように感じるのは自分だけだろうか?表に出てくるのはほとんどが有名大学を卒業した人だ。大手企業も採用実績を見ると難関から中堅大学の学生が採用されているケースが多い。これがどのような意味を持つのか?それは、3つの社会的な要因が関係していると私は推測している。


1つは前記した“社会的価値”だ。これは、その人の経歴が社会的に定評を得ているイメージが強くなる事で相手からの好印象と信用を勝ち取るという戦略の一部として機能する。この戦略を成立させるには一定レベル以上の社員をそろえ、相手に好印象を与えるための知識を理解させる必要があるため、どのような人材でもかまわないということにはならない。


 2つ目は“ブランド力”だ。例えば、大手企業の名前を言うとほとんどの人が中心の商品などを言えるように有名大学を卒業しているというだけで、そのことが1つのブランドとなり、相手との会話をスムーズに進めることが出来るだけでなく、仮に担当者が同じ大学を卒業していた場合に共通の話題でコミュニケーションが取りやすくなることで会社の業績につながりやすくなるということになる。つまり、その地域で有益な人材を求める傾向にあり、ブランド力というのは会社にとっては1つのコミュニケーションツールのようなものなのだ。


 3つ目として個人差はあるが、私は“社会的協調性”だろう。これは、会社という組織の中での協調性や団結力と同様に外部の取引先やグループ会社などと足並みをそろえることが出来るかという1つの指標だろう。有名大学に行っている人はたいてい頭の思考回路が柔らかいため、柔軟な発想を持っている。しかし、レベルを上げすぎても下げすぎても一定の効果を得ることは出来ない。つまり、会社から求められている意見やブランドイメージに沿って思考調整が出来る人材が会社などでは好まれているのだろう。


 しかしながら、今の日本では“生きる”という認識が1人歩きをしているように感じる。なぜなら、需要と供給のバランスが崩壊していていることにより、失職者や低所得者などに対するケアが十分ではないように感じるからだ。特に、雇用面や精神衛生面ではかなり疑問を感じる点が多い。

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