第3話

 彼女のもとに置いてきた指環が、気にかかった。


 潜入捜査。警察内部の人間にも、自分の素性は明かせない。敵も味方もいない、どこまでも、ひとりきりの仕事。


 もともと家族も友人もいないので、適任だった。実際、天職だと思う。色々な企業や組織に潜入して、良いことがあったら報告し、悪いことがあったら証拠つきで資料を提出する。その後どうするかは、官邸の差配。


 普通に働いて、普通に暮らす人たち。そういう人たちの普通を守るために、自分は存在する。

 だけど、自分は、その普通の輪には、入れない。自分には、誰も、いない。


「すいません。カプチーノひとつ」


 好きなひとがいた。

 とても明るくて。自分の仕事や、ひとりきりの生活が、ばかみたいだと思えるぐらい。一緒にいて、とても気分が安らぐ。

 一緒に暮らしていた。郊外のモールへ買い物に行ったとき、彼女がショーウィンドウに飾られていた指環をちらっと見たので。欲しいのかと、訊いた。


 彼女は、欲しくないと言って、さびしそうに笑っていた。耐えられなくて、その店に入り、店員にいろいろ聞きながら指環を買った。


 今、なんとなく、間違いだったのだと思う。

 自分の仕事やひとりきりの生き方を考えれば、彼女を、巻き込むべきではなかった。


 彼女に会えなくなってから、もう、どれぐらい経つだろうか。彼女がいた街から遠く離れ、都心部の一等地に暮らしていた。次の内偵先は、大きい。いわくつきの外資なので、命の危険もある。


 カプチーノ。美味しかった。どんな街でも、カプチーノは美味しい。


 自分が、死んだら。

 その死は、やっぱり、誰にも分からないものになるのだろうか。官邸が裏から手を回して、自分という人間が存在しなかったことにするはずだった。ニュースにすらならないだろう。


 このカプチーノの泡のように。消えてなくなる人生。


 彼女に指環を買ったとき。自分も、買えばよかった。その瞬間だけでも、共有すればよかった。彼女の指に、指環をはめて。そして、抱き合う。愛を誓う。

 それだけのことが、とても遠い、決して許されないことのように思える。そして実際、それは叶わない。


 ひとりで生きる。

 そのつらさが、今更、わかってきたのかもしれなかった。


 カプチーノ。もうひとつ頼もうか迷う。

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