35.かのんの帰宅

 長年の習慣を投げ出すのは難しい。酷く落ち込んだ今でさえ、悲しいかな、体は勝手に動いてしまうのだ。


 買い込んできた材料を冷蔵庫へしまい、エプロンを身に着けて、ごちそうの準備に取り掛かる。


 ほんのりレアに仕上げたローストビーフ、バターを効かせた白身魚のムニエル。とろとろチーズのオニオングラタンスープと、色鮮やかな春野菜のサラダ。デザートにはたっぷりのいちごと生クリームを巻き込んだロールケーキ――食べることのない三人分の料理を作り終えた後、俺は自虐的に呟いた。


「現実逃避だな、これは」


 まったく、自分でも嫌になる。凹んでいるのを誤魔化すための行動が料理をこしらえるだなんて。


 こんな調子だから、陽太のやつに「オカン」だなんだと言われてしまうのだ。


『お前のそばからいなくなるってことも考えておかねえと』


 同時に先日の忠告が脳内をよぎり、俺は激しく頭を振った。


 そんなことぐらい、いちいち言われなくてもわかっている。でもさ、まさかこんなに早く離れていくなんて、予想できないじゃんか。


 ……いや。今となっては言い訳にしか過ぎない。確かに星月さんの言う通りだ。きちんと言葉にして伝えなかった自分が悪い。


 かのんがあれほどまでに、言葉と態度で好意を示してくれていたにも関わらず、俺はそれがなんだか照れくさくて、素直になれなくて……。


 ダメだダメだ。考えれば考えるほど落ち込んでしまう。こういう時は体を動かして、少しでも気を紛らわせないと。


 そう思って取り掛かったのが洗濯だったり、寝室の掃除だったりと、結局は家事に終始してしまうのが我ながら虚しい。


 ともあれ、身体以上に精神的なエネルギーを消費していたらしく、俺はその夜、意識を失うようにして眠りへついたのだった。


***


 インターホンの音が鳴っている。


 枕元の時計は十一時を過ぎていて、十分過ぎるほど眠っていたのに体は重い。


 どうせ新聞の勧誘とかに決まっている。だるいし、このままベッドの中でしばらく過ごしてしまおう。


 そんな思いを挑発するように、インターホンは規則正しく一定のリズムを刻んで鳴り続ける。


 ピンポーン……ピンポーン……ピンポーンと、無機質な音が八回ほど部屋中に響き渡り、俺は苛立ちを足音に響かせて玄関先へと向かった。


 勧誘だったら怒鳴りつけて追い返してしまおう。攻撃的な気持ちでドアスコープを覗き込んだものの、ドアの前で佇んでいる人物を見て、俺は瞬時に冷静さを取り戻した。


 がちゃりと躊躇いがちにドアを開ける。そこで待っていたのは星月さんだった。


「お休みのところ申し訳ありません。今朝方に伺ったのですが、応答がなかったものですので」


 昨日の優美なドレス姿とは一変し、普段着に身を包んだ黒髪のメイドは、そう言って頭を下げる。


「いや、いいんだ。起きなきゃいけない時間だったし。むしろ助かったというか……」

「それならよかったのですが」

「それで……。今日は、どんな用で?」


 声を発するたびに、心臓の鼓動が早くなっていくのがわかる。自分の中で聞きたくない話だけはしてくれるなと願っていると、星月さんは切り出した。


「本日の夕方、かのん様がお戻りになります」

「……!」

「とはいえ、これはあくまで一時的なもの。ご実家へ帰られるための準備に過ぎません」

「ど、どうして?」

「決まっているではないですか。いつまでも貴方のそばにいては、お見合いの相手にも失礼でしょう?」


 ですので、かのん様の気が変わらぬ内に、帰り支度を整えるのですと、あくまで淡々と付け加え、星月さんは踵を返す。


「それをお伝えに来ただけです。短い間でしたがお世話になりま」

「待ってくれ! そんな突然言われても納得できない!」

「貴方が納得できないとか、もはやどうでもいい話なのですよ、岡園殿。これは天ノ川家の問題ですので」


 こちらに一瞥をくれ、黒髪のメイドは突き放すような態度を示した。


「私としても、推しであるかのん様の将来が、このように決まってしまうのは不本意ですが」

「だったら」

「しかし、推しの幸せこそが私の幸せなのです。どのような形であれ、かのん様が幸せになるのであれば、私はどのような手段を用いても構わないと」

「見合い相手と結婚するのが、かのんの為になると思っているのか?」

「……失礼します」


 最後の問いかけには応えず、星月さんは隣の部屋へ戻っていった。


 星月さんの言う通り、天ノ川家にしてみたら、俺は部外者のひとりにしか過ぎない。ワーワー喚いたところで迷惑だろうさ。


 それでも、譲れない。譲っちゃいけないものがある。


 大きく深呼吸したあと、俺はよしっと小さく呟いて、開き直りにも似た、とある行動を取ろうと決意した。


***


 夕暮れが街並みをオレンジ色に染めていく。


 マンション前の道路の端で、俺はぼんやりと流れゆく雲を眺めていた。


 もうすぐ、かのんが帰ってくる。


 最初、部屋の中で待っていようと思っていたものの、いても立ってもいられず、たまらず外へ飛び出してしまったのだ。


 勉強会、あみぐるみ教室、それにモーニングコール。


 濃縮した時間が鮮明に蘇り、そのたびに、かのんへの想いを再確認してしまう。


 間に合わないかもしれない。かのんも、いまさら何をと思うだろう。それでも、伝えなきゃいけない言葉があるのだ。


「あれ? 蓮くん? どうしたのこんなところで?」


 聞き覚えのある愛おしい声に視線を向ける。ミルクティー色をしたロングヘアを揺らし、青い瞳に戸惑いの色が滲んでいる。


 俺は何も言わず、真っ直ぐに足を向けると、かのんの前に立ちふさがり、そして、その柔らかな体を力いっぱいに抱きしめた。


「ふぇっ!? えっ? えっ!?」


 慌てるような、困惑するような声が耳元に届くけれど気にしない。


 今この瞬間、どうしても伝えたい気持ちがあるのだ。


「かのん」

「なっ、なっ、なに!? れ、蓮くん!? ど、どうしたのっ」

「好きだ」

「……!?」

「今まで言えなかったけど、俺、お前のことが好きだ」


 ようやく言えた。この後、振られて終わるかもしれない。それでも俺は、言葉として、かのんにキチンと言っておきたかったのだ。


「れ、蓮くん……?」


 かのんは困ったような声で、俺の名前を呟いた。お見合いの後に、こんなことを言われても、どうしようもないもんな。


「でも、俺は。俺はちゃんとお前に好きだって伝えておきたくて」

「蓮くん……」

「だから、俺」

「蓮くん……そ、その……」


 言葉を探すように一瞬の間をおいて、それから、かのんは予想外の言葉を口にした。


「……お見合いって、何の話?」

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