26.陽太の忠告
今日はまだ火曜日。一週間は始まったばかりだというのに、この精神的な疲れっぷりは何なんだろうか。
いや、原因はわかっているんだ。朝っぱらからのゴタゴタで調子が狂わされたせいに決まってる。
あの後、朝食の席で「もしかして、明日もくるつもりか?」と問いかけた俺に、かのんは何も答えず、「ウヘヘヘ」とだらしなく笑って応じるだけだったしさ。
……はあ。今日からはある程度の覚悟を決めて就寝するようにしよう。ドアチェーン、掛けたところで無駄っぽいし。
まあ、そんな調子なので、平常心を取り戻そうと必死だったのかもしれない。
登校後、教室で待ち構えていた陽太と挨拶を交わした俺は、雑談に応じながらも、ちょっとした違和感を覚えたのだった。
「おい、陽太。袖のボタン取れそうになってるぞ」
ブレザーから垣間見えるワイシャツの袖口から、ボタンがだらしなく垂れ下がっている。
「お。ホントだな。まあ、別にいいだろ」
「良くはないだろ。縫い直してやるから脱げ」
「は? 今ここでか?」
「全裸になるわけじゃないんだし、恥ずかしがるなよ。下にシャツぐらい着てるだろ?」
「そりゃ着てるけどよ……」
「一、二分で終わるから、さっさと寄越せって」
ブツブツと文句をこぼしながら、陽太はワイシャツを脱ぎ始め、俺はひったくるようにそれを受け取ると、カバンの中からソーイングセットを取り出した。
Tシャツ一枚にブレザーを羽織る旧友をちらりと見やって、クラスの女子たちが何やら囁きあっている。内容までは聞き取れないけれど、あまり好意的でないのは確かなようだ。
俺は俺で、そんなことはお構いなしに、心を落ち着かせるためにも、裁縫に没頭しようと針に糸を通し始める。
そしていざボタンを取り付け直そうとした矢先、陽太は何気なく口を開いた。
「そういや、オカン。日曜に天ノ川さんとデートしてたんだって?」
危うく指に針を刺しそうになった。……なんで知ってんだ? もしかして、かのんが言いふらしていたとか?
「いや、同中のダチから聞いたんだよ。そいつもショッピングモールに行ってたんだと」
Tシャツの上からブレザーを羽織りつつ、陽太は続ける。
「そいつが言うには、天ノ川さん放っておいて、知らねえオッサン助けてた、って。マジなのか?」
知らないオッサンどころか、かのんの父親の雪之新さんだったんだけど……。話がややこしくなりそうなので、黙って頷いておこう。
「ありえなくね?」
俺の答えが気に食わなかったようで、陽太は肩をすくめてみせた。
「彼女放り出して人助けとかよ。お人好しにも程があるぞ」
「なんだよ、そりゃ。悪いことじゃないだろ。第一、そいつだって見てたんだったら、声をかければよかったんだ」
「変なやつだったらどうすんだ? このご時世、どんなやつがいるかわかんねえんだから。面倒なこたぁ避けたほうがいいんだよ」
手早くボタンを縫い付けたYシャツを手渡すと、陽太は袖を通しながら「とにかくだ」と話題を転じる。
「人助けはいいとして、天ノ川さん放っておくとかよ。どうかしてるぞ、オカン」
「放っておいたわけじゃない」
「結果的に一緒にはいなかったんだろ? 同じことだぞ」
かのんがお手洗いへ行った間の突発的な出来事だったんだけどなあ。この調子だと、言ったところで納得してはもらえないだろう。
「いいか、オカン。よく聞けよ」
「聞いてるよ」
「あれだけの美少女がお前の彼女なんだぞ? もうちょっと大事にしてやったらどうなんだよ」
「別に彼女ってワケじゃ……」
「あのなあ……。どっからどうみても彼氏彼女の関係なんだ。いまさらお前がどうこう言ったところで、周りの見る目は変わんねえって」
返す言葉も見つからず、ソーイングセットを片付ける俺に、陽太は深いため息をついた。
「いいのかあ? お前がそんな調子だと、そのうち天ノ川さんに愛想つかされるぞ」
「そんなわけ」
「ないとは断言できないだろうが。どっかの色男が天ノ川さんをさらっちまうかもしれねえし」
「……」
「いまはラブラブでいいかもしれねえけどな。それがいつまでも続くと思ったら大間違いだぞ。お前のそばからいなくなるってことも考えておかねえと」
返事をしなかったのは面倒だったとか、得意げに語る陽太がウザかったとかではなく、俺の前からかのんがいなくなるという想像ができなかったからだ。
だって、わざわざ俺の家の隣に引っ越してきて、頼んでもないモーニングコールに押しかけるような子だよ? よほどのことがない限り、いなくなるっていうのはないと思うんだよなあ。
とはいえだ。陽太の言っていることももっともで、かのんから向けられる好意がいつまで続くかわからないという不安も確かにある。
そんな風にならないよう、もっと真剣に、かのんと向き合う必要があるんだろう。……とは思いつつも、この時の俺は、ただまあ、それは今じゃなくてもいいだろ、なんてことも同時に考えていたのだった。
――でも、それがよくなかった。
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