21.昔話

 どこから話したらいいものかなと思案顔を浮かべた後、雪之新さんは口を開いた。


「七年前のある日のことさ。今まで見たことのないぐらいにニコニコした顔をして、かのんが私の前に現れてね。知らない男の子からぬいぐるみをもらったと自慢しに来たのだよ」


 フェルト生地で作られた、拙い黒ネコのぬいぐるみを見せつけると、かのんはこう続けたそうだ。


「お礼も言えずに別れてしまったから、探すのを手伝ってほしい。そして、もし叶うのであれば、その男の子と友達になりたい、とね」

 

 遠い日を懐かしむような父親の口ぶりに、かのんは照れ混じりの表情を浮かべ、それを誤魔化すようにフラペチーノのストローを口元へと運んだ。


「いくら幼いとはいえ、愛娘の口から男の話題が出るのは、父親として愉快ではないがね」

「はあ」

「しかし、よくよく話を聞けば、随分と親切にしてもらったらしい。これはお礼のひとつも言わねば礼儀を欠くと、家の者に探すよう命じたのだが」


 正体がわかった時には、俺はすでに引っ越していた後で、流石にこれ以上は難しいと、捜索を一旦終えることにしたらしい。


「しかし、かのんとしては納得しなかったのだろうな。私にある約束を迫ってきてね」


 それが『男の子と再会できた暁には、その子のすぐ近くでお礼をさせて欲しい』というものだった。


 雪之新さんとしては再会できるわけがないと踏んでいたようで、かのんをなだめるためにも、約束を了承してしまった。


 ……が、現実というのは時として運命的なものが作用してしまうようで、高校入学を機に、かのんと俺は再会した。


「いやあ、慌てたね。かのんから、あの時の男の子と再会したと聞かされた時は、正直どうしようかと思ったよ」


 苦笑混じりの雪之新さん。すると、かのんはやや拗ねたように口を挟んだ。


「聞いてよ蓮くん。お父さんったら酷いんだよ? 約束覚えてないとかいうんだもん!」

「覚えてないとは言っていないだろう? 『そんな風な話をしたかな?』と、疑問を呈しただけじゃないか」

「同じようなことじゃない!」

「落ち着きなさい。結果的にはお前の望むように叶えたやったんだ。それでいいじゃないか」

「う〜ん……。それもそっか!」


 そして再び顔を見合わせ、「ウヘヘヘ」とだらしなく笑い声を上げる天ノ川親子。……マジで俺はどうしたらいいんだ?


 ……まあ、雪之新さんの気持ちもわからなくはない。年頃の娘が、気になっている男の家の隣へ引っ越すとか卒倒してもおかしくないもんな。


 それを許してしまう度量の広さはある意味すごい。……オレのことをなんとも思ってないだけかもしれないけどさ。


「さて、と。とにかく、かのんが無事だとわかってよかった」


 カップに残ったコーヒーをぐいっと飲み干し、雪之新さんは改めてこちらを見やった。


「私はそろそろお暇するよ。せっかくのデートなんだ。邪魔をしたら、かのんに恨まれそうだからね」

「もう、お父さんってば。そんなことしないもん!」

「そうかそうか。それならいい。……ああ、そうだ」


 思い出したようにスーツの内ポケットから財布を取り出して、雪之新さんは千円札を一枚、かのんへと手渡した。


「かのんが飲んでいる、それな。お父さんも飲んでみたいからテイクアウト用に買ってきてくれないか?」

「いいけど、すっごく甘いよ?」

「そういうのもたまには飲みたくなるのさ。頼むよ」

「それなら俺が買ってきますよ」

「私が行くから大丈夫だよ! 蓮くんは座ってて!」


 そう言い残し、かのんは颯爽と駆け出していく。……単に雪之新さんとふたりっきりになるのを回避したかっただけなんだけどなあ。


 フレンドリーに応対してくれているとはいえ、初対面の父親と一対一の状況はかなりキツイ。


 天気の話でもしてお茶を濁そうかと思っていた矢先、笑顔で娘の背中を見送っていた雪之新さんが静かに口を開いた。


「……少し真面目な話をしようか」


***

 

 穏やかな表情はそのままだけど、真剣味を帯びた声に、俺は思わず姿勢を正した。


「ああ、そんなかしこまらなくてもいいんだ。娘の昔について軽く話をしたかっただけなんだよ」

「昔のかのん、ですか?」

「ああ。この手の話は本人がいる前ではなかなかしづらいだろう? こうでもしなければ話せないと思ってね」


 空になったカップを両手でもてあそび、ここではないどこかを見ているような眼差しで雪之新さんは続ける。


「信じられないかもしれないが、あの子は昔、とても内向的な性格をしていてね。内気で泣き虫で、誰かの後ろに隠れては、オドオドしているような子だったのだよ」


 そうして父親の口から語られる、かのんの幼い頃の話は今の姿からは想像できないことばかりで、俺は疑い半分で耳を傾けた。


「妻譲りのあの髪色や瞳の色も、幼い頃はいじめの対象となっていたようだ。学校に行っては泣きながら帰ってくるような毎日だったのを覚えているよ」


 そしてそれを精神的に支えていたのが、かのんの母親だったそうだ。


『貴女の髪も瞳も、私に似てキレイなのだからドーンと胸を張りなさいっ!』


 事あるごとにそう励まし、内気なかのんを励ましていた。


 ところが。


「そんな妻も他界してしまったのさ。……七年前にね」


 母親に癌が見つかった時には時すでに遅く、手術を受けることすらできず、静かに息を引き取った。


 絶望の淵に立たされた雪之新さんは仕事に没頭し、かのんはますます塞ぎこんでしまう。


 家の人たちが元気づけてくれるものの、母親の代わりにはならず。どうしたものかと途方に暮れかけていた、そんなある日。


 見違えるように上機嫌で家に帰ってきたかのんは、母親譲りの笑顔を浮かべ、そしてこう切り出したそうだ。


「男の子と約束したの! ママみたいな人になるって!」


 その後、明るさを取り戻していったかのんは、まるで魔法でも掛けられたように、朗らかで活発な性格へと変わっていった。


「あの子のそばに美雨を付けたのもその頃さ。いじめの問題もあったからね。美雨の通っていた学校へと転校させたのだよ」

「そうだったんですか……」

「父親としては不甲斐ない話さ。もっと早く手を打つべきだったんだが……」


 苦渋の色をにじませて、雪之助さんは二、三度首を振ってみせた。


「……兎にも角にも、かのんが変わるきっかけをくれた君にはお礼を言わねばと思ってね」

「頭を上げてください。正直言って、俺自身、昔過ぎて覚えてないっていうか」

「それでもいいんだ。大事なのは、娘の今があるのは君のおかげでもあるのだからね」


 受け取り口で商品を待つ娘を見やる雪之新さん。それに気付いたのか、かのんは天使ののような微笑みを浮かべ、こちらに手を振っている。


「……最近はすっかり妻に似てきてね。見ているこっちが嬉しくなる限りさ」

「その、いいんですか?」

「何がだい?」

「約束とはいえ、見知らぬ男の隣の部屋に引っ越すとか、心配にならないのかなって」

「もちろん不安ではある。しかし、美雨が付いているからね。定期連絡を欠かさないようにときつく言っているし」


 それにだ、と付け加え、雪之新さんは朗らかに声を上げた。


「相手が君だとわかれば一安心さ。心配するようなこともないだろう」

「あまり買いかぶらないでください。もしかすると、かのんを傷付けるようなヤツかもしれませんよ?」

「そうなのかい?」

「例えばって話です」

「そうは思えないけれどね」


 ダンディズム漂う表情を綻ばせ、雪之新さんは席を立った。


「もちろん、娘が傷つくようなことは許さないが、君たちはまだ若い。酸いも甘いも、これからいくらでも経験していくだろうし、ある程度はいい経験になるだろう」

「そういうものですか?」

「それにだ。あの子が好き勝手やれるのも今のうちだけだし……」

「……それって」


 どういう意味ですか? と、問い尋ねるよりも早く、雪之新さんは言葉を続けた。


「私もあの子と約束を交わしていてね……っと、帰ってきたようだ」


 お待たせ〜と声を弾ませ、紙袋を片手にかのんが戻ってくる。


 和やかに声を交わす親子を眺めやりながら、俺はその約束が持つ意味を問いただすこともできず、ぬるくなったカフェラテをすするのだった。

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