第5話 ブッカーズ・ワルツ後編
「この琥珀亭を始めたのは真輝のじいさんだ。蓮太郎って言ってね、背の高い、いい男だった」
「レンタロウさん、ですか」
「あぁ。『蓮さん』なんて呼んでたよ。私の想い人だったんだ」
「へぇ」
思わず、じっと彼女を見つめた。ちょっと失礼ではあるが、いつもニヒルなお凛さんが恋をしている姿なんて、想像もできなかった。
「知り合った頃は私もオーケストラに入団する前で、コンクールに出たり忙しかった。蓮さんはまだ琥珀亭を開く前で、他所の店の見習いバーテンダーだったんだけどね、暇を見つけては蓮さんところに飲みにいったもんだ。そのうち、私は音楽仲間の一人を連れて蓮さんのいたバーへ行くようになった」
「お友達ですか?」
「親友ってやつだよ。女の私から見ても惚れ惚れする粋な人でね。彼女はチェロを弾いていた。そして、いつしか蓮さんと彼女は恋仲になったんだ。それが、真輝のばあさんだね」
それでは、お凛さんは親友に好きな人をとられたことになるのか。そう考えていると、彼女は小さく笑って見せた。
「まるっきり『テネシーワルツ』みたいだろ? でもちょっと違うのは、私と蓮さんは恋人じゃなかったってことだ。まぁ、蓮さんも彼女も、私の気持ちを察してはいたんだろうけど」
そんな話を聞くと、テネシーワルツのメロディに哀愁を感じてしまう。けれど、お凛さんの表情には、そういう暗い影はなかった。
「それから、蓮さんたちは結婚してね。しばらくしてこの琥珀亭を始めた。私はそれから、ずっとここに通い続けてる。彼女が癌で死んだ後も」
「二人が結婚したとき、辛くなかったんですか? その後も蓮太郎さんが他の人と幸せになっている顔を見てきたんでしょう?」
「そりゃあ、確かに辛かったよ。でもね、それよりも二人と一緒に過ごす時間を失うことのほうが辛かった。そのとき、私は本当の恋心じゃないことに気づいた」
「じゃあ、なんだったんです?」
「私が欲していたのは、孤独を埋めてくれる誰かに過ぎなかったのさ」
言葉を失った俺に、彼女はふっと笑った。
「そんな顔するんじゃないよ。それで良かったのさ。その後、私は旦那に出会えたんだからね。先立たれたけどさ」
彼女はブッカーズのボトルを見つめ、にやりとした。
「ブッカーズはね、蓮さんが好きだったバーボンだよ。度数はキツいけど、最高だ。これをボトルキープしたいって言いだした私に、彼がすすめてくれたのはメーカーズマークだった。『凛々子は強い印象を人に与えるから、せめて酒はもっと、とっつきやすいのにしろ』って笑ってね」
「あぁ、それで、いつもあのお酒なんですか」
「そう。それ以来、私はメーカーズマークだけを飲んでいるんだ。蓮さんのすすめてくれたロックでね」
「なるほどね。でも、今日はどうしてブッカーズなんですか?」
その問いに、彼女は静かに答えた。
「今日は......蓮さんの命日だからね。この日だけは、蓮さんの好きだった『ブッカーズ』を、蓮さんと同じようにハーフロックで飲む。そして、真輝は墓参りに行くんだよ」
そう言った後、お凛さんは伏し目になった。
「でも、真輝は蓮さんの墓参りだけじゃなくてね、もう一つの墓を参らなきゃならない」
「遥さんですか?」
「違うよ。彼女は蓮さんと一緒だからね。誰の墓かは真輝の口から聞くといい」
俺は『独り言』という名の告白を聞いているうちに、すっかり言葉を失っていた。
話し終えると、お凛さんは右手でくいっとグラスを傾けるジェスチャーをした。「チェイサーをくれ」という意味だ。慌てて水を出すと、彼女は静かに喉を潤す。
「お凛さん、どうして俺にこんな話をしてくれたんですか?」
「まぁ、いつかはわかることだしな。それに、ちょっと気に入らなくてね」
お凛さんはひょいと肩をすくめる。
「理由も言わずに店番させるなんて、真輝もズルいじゃないか」
「はぁ......」
お凛さんって、なんだか掴めない性分なんだよなぁ。
「ただし、これは私の独り言だ。だから、真輝から話すまではもちろん黙っておいで」
「はい、もちろんです」
「でも、これでちょっとはスッキリしたろ?」
「え?」
「何も聞いてないって言ったとき、仲間はずれにされたみたいな、むくれ顔してたからね」
「そんなことないですよ」
そう言いながら本当にむくれる俺を、お凛さんが笑う。
「蓮さんが死んだとき、この琥珀亭は一時、閉店したんだ」
「あ、俺、それ知ってます。張り紙見ましたから。あれ、お凛さんの字ですよね」
お凛さんはため息をこぼした。
「あのときの真輝は見てられなかった。泣いてばかりいて、食事もとれないでさ。私が閉店することをすすめたんだ。真輝がそんなんじゃ、誰も酒を注げないんだからね」
「でも、復帰したんですね」
「丁度、あんたが来る一週間前くらいじゃないかな。真輝がまたバーをやるって言いだしたのは」
お凛さんは残り少ないブッカーズを飲み干した。
「理由は私も知らないよ。真輝に訊くといい」
なんだか、真輝さんから聞き出さなきゃいけないことばっかりだ。
「いえ、まぁ、いいですよ。真輝さんが言いたくなったらで」
「尊は、そういうところが良いね。真輝が言ってたよ。尊は決して自分を主張しないから、相手に居心地良く感じさせるってね」
「褒めてんですかね、それ?」
自分がないって言われたみたいで、ちょっと複雑だ。
「もちろんだろ。あんたを雇ったのは同情と賭けだったけど」
「同情ですか......」
がっくりくる俺に、お凛さんが悪戯っぽい目をした。
「お前、あの面接に来た日を覚えてるだろ?」
「はい」
「あのとき、スニーカーを履いていただろう」
「え? あぁ、そうかもしれません」
「真輝が言うには、あんた、左右違うスニーカーを履いてたんだってさ」
「マジですか」
顔がみるみるうちに熱くなる。
「俺、覚えてないですよ!」
「それだけ慌てて、手には就職情報誌ばっかり入れたコンビニ袋持ってるんだから、よっぽどだって思ったらしいぞ。まぁ、最初は同情でも、いつか雇って良かったと思われるように、精進すればいいんだよ」
「そうですね。でも慰めになってませんよ」
「慰める気なんざないね」
「ですよねぇ」
へへっと笑う俺に、彼女は白い歯を見せた。
「ほらね、やっぱり尊は誰かを和ませる天才さ。それも才能だよなぁ」
この言葉は、素直に嬉しかった。
「尊、念のため言っておくけどね、私は本当に真輝のばあさんが好きだったんだよ。一時はテネシーワルツみたいな気分を味わったけどね」
「わかってますよ。でも、あのテネシーワルツってそんな切ない歌だったんですね」
「ワルツが全部ズンチャッチャって明るい三拍子だと思ったら大間違いさね」
お凛さんは吸っていたハイライトを灰皿に押し付けた。
「切ないワルツだってある。チャイコフスキーの『感傷的なワルツ』って曲もあるんだ。知ってるかい?」
「いいえ。聴いてみたいですけどね」
俺がそう言うと、お凛さんは黙って、足元のバイオリンケースをカウンターに上げた。
彼女の骨ばった手が、ケースからバイオリンを取り出す。照明を反射して輝くバイオリンが姿を現したとき、まるで宝箱を開けている瞬間を見守っているような気分になった。
お凛さんは弓を張ると松やにを擦りつけた。それが済むと、鞄から肩当てを取り出して付け、バイオリンを構えた。
俺が固唾をのんで見守る中、お凛さんは物悲しい旋律を奏で始めた。左手のビブラートが叙情的な響きを生む。
確かに、チャイコフスキーの『感傷的なワルツ』は明るい曲ではなかった。ちょっと胸をしめつけられるような、切ない旋律だ。
弾き終わったとき、俺は惜しみない拍手を贈った。
「すごいです! 俺、初めてですよ、バイオリン弾いてるのを生で見るの」
お凛さんはふんと鼻を鳴らす。
「本当は金をとるところだけどね。でも、今日はお婆ちゃんの独り言に付き合ってくれたしね」
チャイコフスキーの演奏は、素直になれないお凛さんからの礼のようだった。
「スッキリしたかったのは、私のほうだったのかもしれないね」
弓にこびりついた松やにを落としながら、彼女はそう呟いていたから。
チャイコフスキーを弾き終わったお凛さんは、バイオリンの弦を大事そうに撫でて言った。
「この曲は蓮さんも好きだったんだよ。よくねだられて、飽きるくらい弾かされたもんだよ」
そう話す彼女の顔に浮かぶ表情は、いつになく柔らかい。
「大好きだったんですね、蓮太郎さんのこと」
「まぁ、旦那の次だけどね」
この人の心を射止めた旦那さんのほうが、すごく気になる。
お凛さんはバイオリンをケースに戻しながらぼそりと言った。
「この曲はね、悲しいんじゃないんだよ。ただセンチメンタルなのさ」
座り直した彼女がライターの音をたてる。独特なハイライトの匂いがし、ただよう紫煙が渦を巻いた。
「そう、このワルツみたいに感傷的になっているだけさ。時が止まっているだけ。真輝も......まぁ、私もだね」
俺は何も言えなかった。だって、俺はまだ大事な人を亡くした経験がないからだ。それは幸いなことなんだろうけれど、自分が人の痛みをわかってあげられない鈍感な人間に思えてきた。
真輝さんが抱えているものは、きっと俺の想像よりはるかに重いものなんだろう。
お凛さんは最後にこう言った。
「真輝はね、大事なものを突然失ってばかりだ。だから、余計に動き出せずにいるのさ」
真輝さんの華奢な背中が思い出されて、痛々しさに胸が締め付けられるようだった。
翌日、琥珀亭に出勤すると、真輝さんは店番の礼を言いながらお土産をくれた。それは、ここから快速列車で30分ほどのところにある街の特産物だった。思ったよりそう遠くないところに行っていたらしい。
「すみません、気を遣ってもらっちゃって」
お土産を受け取り、お凛さん以外には客がいなかったことを詫びると、真輝さんは首を横に振った。
「謝ることなんてないですよ。雨もひどかったようですし、毎日の保証がないのがこの商売ですから」
彼女はそこで口をつぐむと、ふっと声をひそめた。
「あの、お凛さんから何か聞きましたか?」
おずおずとした上目遣いが、まるで小動物みたいだ。
「......いえ、何も」
頼むぞ、俺。いくら顔に出やすいからって、今度ばかりは見透かされるなよ。なにせ、あれは独り言なんだから。俺は何も聞いてないことになってるんだ。
「お凛さんは、ずっと音楽の話をしてました。テネシーワルツを教えてくれましたよ」
「オーダーはブッカーズでしたか?」
「えっと、はい。ハーフロックでした」
シラを切ろうとしたが、真輝さんにはその答えだけで、おおよそのことを見抜いてしまったらしい。
「そうですか。すみませんでした。来年はちゃんと行き先を言うようにしますね」
それだけ言って、微笑んだ。それは、少し哀愁を滲ませた笑顔だった。俺は何故か、しばらくその顔を忘れることができなかった。
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