第6話 テキーラ・サンライズに照らされて前編
季節が移り変わり、肌寒くなってきた頃だった。
「秋って、サンマ食べたくなりますよね」
琥珀亭でボトルを磨く真輝さんがため息を漏らした。恋煩いでもしていそうな顔で、色気のないことを呟いている。
華奢な彼女は、ウエストだって俺の両手で掴めそうなくらいだ。一見すると食が細いように見える彼女だが、実はもの凄くよく食べる。いわゆる痩せの大食いだ。
「真輝さん、牛丼の次はサンマですか?」
先週、真輝さんが閉店後に「どうしても牛丼が食べたい」と言い出した。夜道は危ないから、俺も一緒に牛丼のチェーン店に行くことになった。
真輝さんはスタイルも良いし、目がくりくりした綺麗な顔をしている。そのときも牛丼のチェーン店で居合わせた男どもの視線を独り占めだった。
そんな彼女が目を輝かせたまま、黙々と牛丼を食べるのを見たとき、そのギャップに思わず笑ってしまった。俺はあんなに牛丼を美味そうに食べる人を他に知らない。
のちに真輝さんに聞いたところによると、そのギャップに幻滅されて振られたこともあるんだとか。馬鹿な男もいるもんだ。
その頃の俺は、真輝さんを『綺麗』ではなく『可愛い』とか『面白い』とも思えるようになっていた。仕事の面では菩薩の顔をした鬼だけど。
まぁ、いくら俺が『綺麗だな』ってドギマギしたところで、彼女は俺のことは男として見てないだろう。目の前で大盛り牛丼を頬張るくらいだし、しかも豚汁付きときたもんだ。
でも、こういう飾らない関係が心地良くもあった。
「尊さんはお腹すきませんか?」
目の前でアヒルのように唇を尖らせる真輝さんは、ちょっと恨めしそうに俺を見た。
その視線を無視して、磨いたグラスをライトにかざしながら仕上がりのチェックをする。
「夜中にそんな想像は危険ですよ。俺は真輝さんと違って食った分だけ肉になるタイプですから道連れにしないでください」
そう、ただいま真夜中の十二時半過ぎ。お凛さんをはじめとするお客様は全員お帰りになった後で、閉店準備を待つばかりだ。
「お願いですから、俺を太らせないでくださいよ」
「尊さんだったら、もう少しお肉ついてもいいと思いますよ」
「どうせつけるんだったら筋肉のほうがいいです」
俺たちがそんな話を呑気にしているときだった。扉が動いて呼び鈴を鳴らした。
「いらっしゃいませ」
俺たちが声をかけた先には、一人の客が立っていた。
高い鼻に細い顎、それに人懐っこい目が印象的な男だった。背が高く、肩幅も広い。何かスポーツをしているのか、浅黒い肌で体も引き締まっていた。頬がこけてはいるがいたって健康そうだ。爽やかな笑顔で、いわゆる色男。
「よっ!」
陽気な声で近づいてくる。白い歯がちらりとのぞいた笑みを見る限り、女には不自由してなさそうな男だ。
「久しぶりだなぁ。この店は相変わらず落ち着くね」
俺にとっては初めてのお客様だったが、彼は琥珀亭をよく知っているらしい。懐かしむような顔で店を見渡してから、真輝さんに気さくに微笑みかけた。
「元気にしてたか?」
一方、声をかけられた真輝さんは挨拶を無視して、彼とは対照的に低い声でこう言った。
「......何をしにきたの?」
こんなにぶっきらぼうな真輝さんの声を初めて聞いた。だけど、なにより驚いたのは、彼女が敬語を使わずに話すのを初めて聞いたことだった。旧知の仲にしても、遠慮がない。
「つれないなぁ。閉店時間ギリギリだからってそんな顔をするんじゃないよ」
「私はそんなことじゃ嫌な顔しないわ。暁だからしたのよ」
アキラと呼ばれた男は肩をすくめると、カウンターの椅子にドカッと腰を下ろした。
「うん、まぁ、元気そうでなによりだ」
慌てておしぼりを出すと、彼は右の口角をつり上げた。
「ふぅん......新しい子? 君も大変だね。よくこいつの下で働いてるな。こいつ、仕事の鬼だろ?」
この状況で「そうですね」なんて言えるか!
俺の苦笑いをよそに、彼は開襟シャツの襟元からのぞく鎖骨をボリボリとかいている。
薄い唇が愉快そうに笑っているところを見ると、このけんか腰の会話が二人にとっての親密さの証のようだ。
「一杯くらいは飲ませるから、尊さんを引き抜くのは止めてよね」
「ひどい言い草だなぁ。まだ勧誘もしてないのに」
「油断できないわ。引き抜きは得意技でしょ。抜け目ないんだから、暁は」
「はいはい。えっと尊君だっけ。というわけで俺にテキーラ・サンライズくれるかな?」
「かしこまりました」
「あ、俺のことは暁さんって呼んで。よろしくね。この冷たい師匠に愛想が尽きたら、ウチの店に来ていいんだよ」
はは、と笑っておいたけど、俺の目は笑ってなかったと思う。第一、店って何の店だ?
俺の顔は疎外感と戸惑いで引きつっていた。
暁さんが頼んだ『テキーラ・サンライズ』は、その名の通りテキーラをベースとしたカクテルだ。
テキーラとオレンジ・ジュースをグラスに注いでステアし、仕上げに深紅のグレナデン・シロップ、つまりザクロのシロップを底に沈める。
見た目はオレンジの朝焼けと、這い上がる真っ赤な太陽を思わせる。味は甘口で飲みやすいと思う。
ローリング・ストーンズのヴォーカル、ミック・ジャガーが気に入ったカクテルとしても有名だ。同名の映画もある。
最近、勉強したばかりで蘊蓄は頭にあったが、実際に作ったのはほんの数回だ。
覚えたてのカクテルを緊張しながら作っていると、暁さんが俺の動作を観察している視線が、痛いほど伝わった。意識したあまり、グレナデン・シロップをバー・スプーンの背を使って沈めているとき、微かに手が震えてしまった。
「どうぞ」
差し出したテキーラ・サンライズを、彼は「どうも」と小さく言って一口含む。
果たして、彼の口に合うだろうか。そうビクビクしていると、暁さんはにこやかに、こう言った。
「うん、初々しいね。でも筋はいい。さすがは蓮太郎師匠の孫が雇うだけあるな」
「蓮太郎......師匠?」
思わず俺が聞き返した。蓮太郎というのは、以前お凛さんが話してくれた真輝さんのお祖父さんのことだ。師匠ということは、彼もバーテンダーなんだろう。
「俺は昔、ここで修行してたんだよ」
暁さんがにやりとした。
「これでも君の先輩だぜ? 駅前と繁華街でバルとアイリッシュ・パブを経営してるんだ」
彼はそう言った後、無邪気な顔で首を傾げる。
「あれ、蓮太郎師匠のこと、聞いてないの?」
「尊さんは知ってるわよ。お凛さんが話したみたいだし」
あ、ばれてる。
ぐっと言葉に詰まる俺をよそに、真輝さんは淡々としていた。
「墓参りの日にね、私がお祖父さんのことを話さずに、尊さんに店番を頼んだもんだから、怒っちゃって。腹いせにお祖父さんの話を尊さんにしたそうよ。お凛さんに『休みをもらうときは理由をちゃんと説明するもんだ』って叱られちゃった」
「さすがオババ様! 相変わらずだね。真輝に説教できるのっておババ様くらいだもんな。久々に会いたくなっちゃうな」
「あんたくらいよ、あの人をオババ様なんて呼べるのは。お凛さんなら、今日はもう帰ったわよ」
真輝さんがこの口調になるのも頷けた。暁さんという人はエネルギーの塊すぎてこっちが疲れてくる。でも、どこか憎めないんだ。
こちらが身構えていても、彼はなんなく垣根を越えてしまう。それも底抜けに朗らかで、不思議と悪い気にはならない。すっと相手の空間に入っていって、自分のペースで踊らせるのが上手い、という印象だった。
おまけに、彼は笑うと可愛げがあるんだ。お凛さんがオババ様なんて呼ばれても怒れない理由がなんとなく解る。
「でもなぁ、俺は決してオババ様に気に入られてた訳じゃない。確かにずいぶん優しくしてもらったけど、あれは同情だ。遥さんと自分に、正義と俺を重ねてるだけだよ」
ハルカ? マサヨシ?
知らない名前ばかり出てきて、置いてけぼりにされた気分になった。
「暁......!」
真輝さんが鋭く咎めた。そして、なにやら気まずそうに俺を見た。彼女の目を見た途端、俺の胸に冷たい亀裂が走った。俺は邪魔なんだ。そう直感した。
「......あの、俺......」
咄嗟に嘘をついた。
「ゴム手袋に穴があいてたの思い出しました。あの、コンビニで買ってきますね。閉店時間には戻りますから。すみません、暁さん、ちょっと席外します」
「あ、おい......」
俺はろくに二人の顔を見ずにサロンを外し、店の奥へ引っ込んだ。
「尊さん!」
引き留める声を無視し、奥へ通じる扉を閉める。
思わずため息を漏らした。胃の辺りがむかむかした。あれ以上、あの場にいたら露骨に仏頂面をしそうな自分がいた。
あのときの真輝さんの顔が、目に浮かんで離れない。俺が居ては都合が悪いという顔だった。
「なんだってんだよ、まったく」
やりきれなさに、首の後ろを掻いたときだった。「にゃあ」と、滑らかな声がし、黒猫のスモーキーが音もなく歩み寄ってきた。彼は今夜もこのアンバービルを探索中らしい。
スモーキーは俺の足に額をこすりつけ、そっと傍に座り込んだ。思わず腰をおろし、スモーキーのなだらかな背を撫でる。彼はもの言わず、俺を見つめた。
お前にはわかるか? 今の俺がなんか変だって。
思わず苦笑したときだ。背後の扉越しに、真輝さんの声が聞こえた。
「もう、余計なこと言わないでよ!」
滅多に聞けない真輝さんの責める声だ。俺はびっくりして思わず聞き耳をたてた。スモーキーが「何事だ?」という風に俺を見上げている。
「尊さんは正義のことはまだ知らないの」
少し興奮してるようだった。暁さんは「そうなの?」と参ったように呟く。
「そうか、ごめん。てっきり彼には全部話してると思ってた」
そして、椅子をぽんと叩く音がした。
「悪かったよ。なぁ、真輝。こっちに座って、一杯飲めよ。詫びさせてくれ」
大きなため息がして、沈黙が訪れた。やがてグラスをカウンターに置く音がなる。氷が音をたて、ボトルを置く気配がした。その直後、暁さんのちょっと萎れた声がする。
「相変わらず、それを飲むのか」
「そうね。だって、好きなんだもの」
「......そうか」
乾杯でもしたのか、少し静かな時間が続いた。やがて、暁さんが低い声で切り出す。
「すまなかったな」
「うん......まぁ、私も顔に出しちゃったしね」
「真輝。俺は今日、どうしてもお前に訊きたい事があってきたんだ」
「なに?」
真輝さんの声はいつも通りに戻っていた。ちょっと素っ気なくはあったけど。
「俺の店に来ないかって電話したときさ、お前は『三日考えさせて欲しい』って言ったよな」
「うん」
「お前が俺の話をその三日間でどう考えたのか教えてほしいんだ」
「どうして? 私の答えは琥珀亭よ。それだけ」
「あぁ、答えはここだ。でもその答えに至る過程が知りたい」
「まどろっこしい言い方ね。あんたはいつからそんな理屈っぽい男になったの? もっと直球勝負だと思ってたわ」
「真輝、真面目な話だよ」
暁さんの声は確かにさっきまでのおちゃらけた雰囲気ではなかった。俺はその場を動くのを忘れ、扉越しの会話に聞き入っていた。
何故だろう。立ち聞きしちゃ悪いとは思ったけれど、足が動かなかった。
真輝さんは軽くため息をついた。
「正直、この店をまた開ける気はなかった。だから、暁に電話したんだから」
「そうだな。俺もびっくりしたよ。久々に電話がきたと思ったら、あんな取引だしな」
「でも、あんたは私に自分の店で働かないかって言ってくれたじゃない?」
「お前のバーテンダーとしての腕は勿体ないし、蓮太郎師匠が悲しむだろうと思っただけさ」
「ふふ、ありがと」
真輝さんはやっと笑った。
「あのときね、私、思ったの。私はバーテンダーが好きなんじゃない。この琥珀亭が好きなんだって。だから、この店をまたやることにした。それだけ。電話でも、そう説明したでしょ?」
「真輝、俺が訊きたいのは、どうして琥珀亭を好きなんだってことだ。誰のために琥珀亭を残そうと思ったんだ?」
暁さんの声が熱を帯びて早くなった。
「蓮太郎師匠の店だからか? 正義の店だからか?」
「暁、それは......」
「なぁ、真輝。俺はまだ諦めていない。お前を店に引き抜くことも、お前を好きだって気持ちも」
俺の目が見開いた。同時に耳まで赤くなってしまった。
「暁、それは......」
真輝さんの言葉を、暁さんが遮った。
「俺はお前がバーテンダーとして琥珀亭を続けたいっていうんだったら、いくらでも応援するさ。だけど、そうじゃないだろ? バーテンダーとしてではなく、この琥珀亭にこだわってる」
「そんなこと......」
「もちろん、蓮太郎師匠の守りたかったものを守るためっていう理由でも賛成だ。俺は蓮太郎師匠の一番弟子だからな。だけど......」
暁さんの声は真摯だった。さっきまでの陽気な男はどこにもいない。重く、苦しげな声色が訴えているようだった。
「お前が正義の過去に浸りたいっていう理由なんだったら、俺は断固反対だ。正義のいた場所から動けないでうずくまるお前を、俺はもう見たくない」
真輝さんは何も言わない。
「忘れるなよ。辛いのは、俺も同じだ。だけど......」
「ちょ......!」
ガタッと椅子の動く音がした。
「暁......離して......」
「真輝......俺、お前を真っ暗な夜から朝日の下に引きずり出したいんだよ」
絞り出すような声だった。
「......頼むよ。俺を見てよ」
俺はもう、いてもたってもいられなくって、こっそりその場を離れた。顔が熱い。
俺は足元についてくるスモーキーと一緒に外へ出た。
頭が真っ白になるくらい興奮してた俺は、コンビニまでダッシュした。なんだか、横浜行きが駄目になった夜もこうしてダッシュしてたっけ......。
「まいったな」
俺はコンビニでゴム手袋を手に取りながらため息をつく。真輝さんと暁さんへのお土産として、ハーゲンダッツを買い物かごに入れた。立ち聞きの罪悪感からだった。
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