第4話 ブッカーズ・ワルツ前編

 琥珀亭に働きだしたとき、ちょっと気になることがあった。


 俺が着るバーテンダーの服を用立てているときだった。真輝さんが店の奥から何着かのベストとサロンを持ってきた。


「尊さんの分は注文しておきましたから、それまでコレを着てもらえますか? Lサイズで合うと思うんですよね」


 その手にあるのは、ベストの合わせやサイズからいって、どう見ても男物だった。

 誰のものだろう、と少し眉をひそめたのを、彼女は見逃さなかった。


「これ、以前ここで働いていた人の予備なんです。未使用ですから嫌じゃなければ」


「あ、嫌なんてとんでもない」


 見透かされた恥ずかしさを誤摩化して、俺は俯いてしまった。


「ただ革靴はご自分で用意してほしいんですよ。黒い革靴は持ってますか?」


「あ、はい。あります」


 就職活動のために母親が買ってくれた革靴を思い出し、頷いた。ほんの数回しか出番のなかった革靴が活躍する日がくるなんて、人生何がどうなるかわからないものだ。


「じゃあ、必要なものはメモに書いておきますね。まず革靴と、白いワイシャツ......できれば襟はウイングカラーがいいかな」


「ウイングカラー?」


「あぁ、ワイシャツの襟がこういう形になってるものなんですけど......」


 真輝さんはぶつぶつ言いながらメモ用紙にペンを走らせ、ウイングカラーがどういうものかを絵で説明してくれた。


 このとき、本当は訊いてみたかった。


 以前にも男のバーテンダーがいたんですか? どうして一時期、琥珀亭を閉めていたんですか? そして何故またこの店を開くことになったんですか?


 でも、何故か質問は喉の奥に沈んで言葉にならなかった。メモ用紙に目を落とす横顔が、心なしか遠く見えたんだ。手を伸ばせば届くほど近くにいるのに。そのせいで声に出すのが躊躇われ、結局そのままうやむやになった。


 そうして、俺はバーテンダーの服に身を包み、とうとう琥珀亭のカウンターに立つようになった。


「習うより慣れろです」


 初日の俺にそう言ったとき、真輝さんの顔は微笑んでいたものの目が笑っていなかった。


 彼女は仕事に関しては職人タイプだ。目で見て盗めというスタイルを貫く。ちょっとは手取り足取り教えてもらうのを期待していた俺は、すぐに自分が甘かったと思い知った。


 バーテンダーの仕事も楽じゃない。

 カウンターの外から見ていると優雅に思えるけれど、実際やってみると勤勉さと細やかな神経、そして体力が必要だった。


 琥珀亭の営業時間は午後六時から午前一時まで。だけど店の準備もあるから、午後四時には仕事開始だ。

 始めの頃は生活スタイルが昼夜逆転するのに体が慣れず、睡眠時間のコントロールに手間取った。


 仕事内容だって、ただカウンターでお酒を振舞えば終わりというわけではない。

 開店準備だけでも仕事は山積みだ。日替わりでお通しを用意し、夜のライトの下ではわからない汚れを落とす。特にトイレは念入りに掃除し、備品もきちんと整える。カウンターには季節の花を飾ることも忘れちゃいけない。それに、お酒や氷、カクテルの材料を仕入れ、伝票整理をする。


 お通し一つにしても、お凛さんのように毎日来る人がいるんだから、同じものは避けたい。しかも美味しくて、経費のかからないメニューでなくてはならない。盛り付けにも気をくばる。


 氷は大きな板氷をアイスピックで割って冷凍庫にストックしていくんだ。丸氷だってアイスピック一本で氷の塊から作ってしまう。製氷皿で作るわけじゃないと知って、そこまでやるのかと驚いた。


 閉店後はまた店の掃除が待っている。最後に翌日のお通しのメニューを決めて買い物リストを作る。そんな作業を二人で手分けしてこなしていくんだ。


 店の休みはなんと元旦のみ。真輝さんは「日曜日は私一人でも大丈夫ですから、休んでいいですよ」と言ってくれたが、俺はしばらくの間は辞退することにした。覚えることは山ほどあるんだ。休んでいる場合じゃない。


 毎日、自分の駄目さ加減に嫌気がさした。氷はうまく割れない。バー・スプーンは使えない。メジャーカップでグラスに酒を入れようとしたら、ほとんど外にこぼしてしまう。


 寝る前に、その日の自分の醜態を思い出すだけでため息が出る日々だった。早く覚えなきゃという焦りばかりが募っていく。


 だけど、真輝さんは決して不出来な俺を責めたり、叱ったりしなかった。ただ、弥勒菩薩みたいに穏やかな顔をして、ぼそりと言うんだ。


「もう一度」


 できるまで延々とそれを繰り返す。優しく聞こえるけど、有無を言わさぬ凄みを感じる声なのが、意外と叱られるより怖いんだ。


 どうしても俺がうまく出来ないときには、冷静な指示を出してくれたりもする。

 グラスに氷とお酒を入れてバー・スプーンを使って混ぜることをステアというが、これが俺には特に難しく思えた。バー・スプーンの当たる指は皮が剥け、ひりひりと痛む。

 いつまでたっても進歩のない俺に、彼女はこう言った。


「肩の力を抜いて。スプーンの背をグラスに寄せるイメージです。バー・スプーンを回そうと思わないでください」


 回そうと思わないって、じゃあ、どうすりゃ回るんですか? と、俺は途方に暮れたっけ。


 毎日、ひたすら練習あるのみ。ステアだけでなく、空の酒瓶をもらい、それに水を入れてメジャー・カップで量ったり、家でもできることはある。

 練習を終えると、今度は布団の中でカクテルの本とにらめっこだ。無数にあるカクテルレシピを覚え、スピリッツの知識をつめこんだ。こんなにがむしゃらに暗記したのは、大学の受験勉強以来かもしれない。


 そんな慌ただしい毎日だったせいで、あの男物のベストのことや、琥珀亭を閉めていた理由が何かなんて疑問は脳裏からすっかり消えていた。


 一人での店番を初めて任された、あの夜までは。


 琥珀亭で働き出して一ヶ月ほど経った頃だった。真輝さんから突然、こう切り出された。


「尊さん、今度の日曜日、一人で店番お願いできますか? その日はどうしても外せない用事があってお休みをいただきたいんです」


 目を見開いて「えぇ!」と、大声を上げてしまった。大丈夫か、自分。いや、大丈夫じゃない。確実に無理だ!

 おろおろしていると、真輝さんが微笑む。


「大丈夫です。尊さんも随分慣れてきましたし、お凛さんが開店から閉店までいてくれるそうです」


 また見透かされた。俺って顔に出るのかな?


「お凛さんは私が生まれる前からこのバーで夜を過ごしている人ですからね。困ったときには助け舟は出してくれますよ。どこに何があるか把握してますし、大体のお酒の値段まで知ってるんですから、あの人は」


 俺は苦笑しつつも、頷く。琥珀亭にはメニューや料金表がないんだ。一杯あたりの価格を覚えきれていない俺には、お凛さんがいてくれると思うだけで心強い。


「本当ですね、確かにあの人がいたら出来そうな気がします。わかりました。なんとかしてみます」


「ありがとうございます。申し訳ないんですけど、よろしくお願いしますね」


「真輝さん、どこかに出かけるんですか?」


 別に他意のない質問だったけど、彼女は言葉に詰まったようだ。二人の間にちょっとぎこちない空気が流れた。


「......まぁ、あの、任せてください! 俺とお凛さんで乗り切ってみせますよ」


 その場を取り繕うと、彼女は「ありがとう」と俯いてしまった。


 真輝さんはたまに儚げな顔をする。そこにいるけど、どっか遠くに行ってしまいそうな気がするんだ。

 それは彼女の心がここにないというよりは、彼女がどこか遠い、俺には見えない何かを見ているという印象だった。


 そういうとき、俺は言葉では言い表せない気持ちになるんだ。胸が締め付けられるような、それでいてちょっと寂しいような......。それは、俺にとって初めての感情だった。


 日曜日はどしゃ降りだった。俺は一人で琥珀亭に立ちながら、ため息を漏らす。


「今日はお客さん来ないだろうなぁ。でも、客がゼロで......給料出るのかな?」


 困るような、ほっとしたような奇妙な気持ちでグラスを磨く。

 タダ働きよりも困るのは、お凛さんが来ていないことだった。


「お凛さん、開店から来てくれるって言ってたくせに」


 心細さにため息をこぼしたときだった。呼び鈴が派手に鳴り、お凛さんの大きな声が飛び込んできた。


「いやぁ、ちょっと! まいるねぇ、この雨! ひどいもんだよ」


 彼女は「まったく嫌になるね」と文句を言いながら、扉の外に向かって傘についた水滴をふるい落とした。左手にはバイオリンケースが握られている。


「やっと来てくれたんですね!」


 傘をたてかけながら、お凛さんは豪快に笑う。


「なんだい、尊! あんた、捨てられた子猫みたいな目をしてるよ」


「お凛さんが遅いからですよ」


 情けない声を出していると、彼女はバイオリンケースを足元に置いた。


「すまないね。こいつを楽器職人のところに取りに行かなきゃならなかったもんでね」


「買ったんですか?」


「いや、メンテナンスだよ。弟子の楽器さ」


 お凛さんはかつてオーケストラの主席奏者だったらしいが、俺は彼女の演奏を聴いたことがなかった。


「ねぇ、お凛さん。バイオリン弾いてみてくださいよ」


 好奇心むき出しの俺に、取りつく島もない返事がきた。


「タダじゃ駄目だね。こちとらそれで飯食ってんだ」


「確かに。すみません」


「真輝はもう出かけたのかい?」


 俺はおしぼりを出しながら頷いた。


「はい。俺が起きたときにはもう『よろしく』って置き手紙がありましたけど。午前中には出かけたみたいですね」


 ひんやり冷えたおしぼりで両手をふきながら、お凛さんは「そうか、そうか」と何度か頷いた。


 俺はいつものようにお凛さんのキープボトルを取り出した。赤い蝋封が目印のバーボン、メーカーズマークだ。

 すると、お凛さんが意外なことを言いだした。


「尊、すまないが、今日はこれじゃないのをもらうよ」


 しんみりした声がぽつりと響いた。


「今日はブッカーズだ」


 珍しく湿り気のある声に、ちょっと戸惑ってしまう。


「ブッカーズ? それってなんですか?」


「ああ、知らないか。バーボンの名前だよ。そこの、木箱に入っている酒だよ。一番奥の......その右。そう、それだ」


 お凛さんはバックバーを指差し、俺にブッカーズのありかを教えてくれた。

 そうして取り出したのは、細長い木箱に収まったボトルだった。俺には解読不能の筆記体がラベルに連なっている。


「それをハーフロックで」


「すみません。えっと、オン・ザ・ロックスとは違うんですか?」


「あぁ、それの仲間さ。ウイスキーと水を1:1で入れてくれ」


「わかりました」


 頷きながらも、俺は驚いていた。お凛さんがメーカーズマーク以外のお酒を飲むのは初めてだったからだ。

 しかも、いつも氷を入れたグラスにウイスキーを注ぐだけのオン・ザ・ロックスだったのに、今日は水を足せという。


 珍しいこともあるものだ。同じバーボンとはいえ、銘柄の違うお酒をお凛さんがオーダーするなんて、このどしゃ降りはお凛さんのせいかもしれない。なんとなく、そんなことを思った。


「お凛さんが習慣を崩すなんて、珍しいですね」


 お凛さんは俺の言葉を鼻であしらった。


「今日だけさ。尊も何か飲むといいよ」


「ありがとうございます。じゃあ、ウーロン茶をいただきます」


「しけた男だね。あんたもブッカーズにすればいいじゃないか。こいつは、もう休売になってるんだから、今のうちしか飲めないかもしれないよ。味を知るのもバーテンダーの立派な勉強だと思うがね」


「仕事中は酔えませんよ。今日は俺一人なんですから、俺が酔い潰れたら閉店じゃないですか」


「どうせ、誰も来ないよ。こんな雨じゃね」


 お凛さんは苦笑いしたが、ぼそりとこう付け加えた。


「真輝には悪いが」


 それっきり黙り込み、お凛さんは俺がバー・スプーンを回す姿をじっと見つめていた。しわのある目元が、ちょっと憂いを帯びている。いつもだったら「スプーンの使い方がまだまだヒヨっ子だねぇ」なんて冗談っぽく野次を飛ばすくせに、今日は何も言わずおとなしい。


 俺がウーロン茶を用意し終わるのを見届けてから、お凛さんがゆっくりグラスに手を伸ばした。


「今日はね、特別な日なんだ。一緒に乾杯しておくれ」


「ありがとうございます。いただきます」


 乾杯の後、彼女は深いため息を漏らした。


「......懐かしい味だね」


 吐き出すような言葉。そして、しばしの沈黙が漂った。降りしきる雨の音だけが絶えず響く。


「あ、いっけね」


 店の有線の電源を入れ忘れていたことに気づいて、思わず呟いた。道理で静かだと思った。

 慌てて電源ボタンを押すと、穏やかなメロディで雨音が少しかき消された。


「おや、やっと気づいたね」


 お凛さんは少し唇の端を上げて、俺を見た。


「すみません」


「はは。真輝には黙っててやるさ、これくらい。雨音を聞きながら一杯ってのも悪くなかったけどね」


 それからしばらくの間、お凛さんは黙っていた。いつもなら頼んでもいないのにベラベラ喋ってるくせに、じっとグラスを見つめたままだ。


 なんだか、真輝さんといい、お凛さんといい、今日は変だ。そう思いながら、俺はウーロン茶をちびちびやっていた。


 そんな中、曲目が変わって聞き覚えのある歌が流れ出した。


 テネシーワルツだった。このときは、この歌声がパティ・ペイジのものだということも、六十年以上も前の曲だということも知らなかったけれど。


 お凛さんがやっと口を開いた。


「尊、あんた、この曲知ってるかい?」


「聴いたことはありますけど、誰の歌かは知りません」


「......そうか」


 お凛さんは頬杖をついた。


「どんな歌だと思う?」


 お凛さんはときどき、こういう人を試すような質問をする。


「どんなって言われてもなぁ。俺、英語わかんないし」


「感じた通りに言ってごらんよ」


「そうですね、なんだか懐かしい感じがします。故郷のことでも歌ってんのかなぁ、みたいな」


「まぁ、そんな感じはするわな」


 俺の答えは誤りらしい。正解を待つ間、お凛さんのグラスにブッカーズと氷を足した。


「恋人とテネシーワルツを踊っていたら、古い友達が来たから紹介した。すると、彼を盗まれちまったって歌さ」


「へぇ、意外ですね」


 お凛さんはクラシックだけじゃなく、いろんな音楽に精通していた。気が向くと、こうして俺に音楽を教えてくれるんだ。


「まぁ、まるで私のことだね」


「えぇ?」


 俺の大声が店中に響いた。お凛さんが「昔のことさ」と、自嘲するように笑う。


「なぁ、尊。真輝が今日出かけた理由をきいたかい?」


「いいえ。だって、答えたくない顔してましたし」


 お凛さんはちょっと顔を傾け、まるで観察するように俺の目をじっと見つめた。


「あんたは知りたくないのかい?」


 試すような口調だった。


「知りたいですけど、答えたくないんじゃ、仕方ありません」


「一人で留守番させられても気にならないのかい?」


「まぁ、武者修行だと思えばいいですよ。こういうのも獅子の子落としっていうんですかね」


「はは。人がいいというか、楽観的というか。でも、無闇に人の垣根を越えようとしないのは、あんたの良いところだね。真輝はあんたを雇って正解だ」


 お凛さんが右の眉を吊り上げる。彼女が機嫌の良いときによくやる仕草だ。


「少し気分が晴れた。私はこれから独り言を言うことにするよ」


「はい?」


「独り言さ。お婆ちゃんの独り言」


 お婆ちゃんって......お凛さん、いつも「ババア扱いされるのは御免だよ」なんて言ってるくせに。そう戸惑っている俺をよそに、お凛さんはグラスの氷を指で回しながら、長い独り言を始めた。ちょっと切ない、独り言を。

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