範囲選択してキリトリ
海が見たい。
大学からの帰り道、ほぼ無人の電車に揺られながら車窓の外を眺めていると、無性にそんな衝動にかられた。そもそも今日はついてなくて、大学の講義場所が変わったのをすっかり忘れて誰も来ない講堂でしばらく放心して欠席扱いになったし、学食の格安ランチは売り切れだし、駅で会いたくもない人に会って動けなくなったし、とにかくもうこれは海を見ないと癒されないのだと直感的に思った。のだけれど、あいにく私の住む街は望んでいるような景色を見ることはできない。海はあるけど、私が見たいそれとはちょっと違う。
次の休みにどこか遠出してみようかな。そう思いながら長い尾を揺らす女の後について終着駅で電車を降りた。
いつも通り駅長さんに挨拶をして古い駅舎を抜け駅前の噴水に目をやると、いつもと違うものがそこには居た。
「カエルだ……」
しかも、かなり大きい。噴水横に御座を敷いて座り込んでいるそれは凡そ私の胸あたりまである巨体を揺らしながら歌うように声をあげていた。
「儂は窓売りだよ、窓はいらないかねぇ」
確かにカエルの両隣には多種多様な窓枠が大小乱雑に置かれている。木製で両開きのものから、現代風なアルミサッシ、装飾の施された額縁に近いようなもの。
ちょっと悩んだけれど、好奇心には勝てない。近づいて挨拶をすると、帽子を浮かせて彼は挨拶を返した。
「やあお嬢さん、窓はいらんかねぇ」
「窓売り、ですか?」
カエルは手近にあった小さめのひとつを持ち上げた。
「そう、窓を売ってるんさぁ。窓は世界を切り取るからね、ほうら」
言うと同時に、手にした窓を開くと少し冷えた風が頬をなぜて私は目を見張った。窓の向こうは、新緑の眩い森が広がっていた。遠くで小さく鳥の鳴く声がする。青々とした葉が風に身を委ねてくすぐり笑い合うように震える。
それは切り取られたどこかの風景。驚いた私を見て、カエルは満足げに丸々と太った腹を揺らした。
「これが儂の売る窓さぁ。お嬢さん、おひとつ如何かね?」
窓売りは年に二回しか来ないから、買うなら今さぁ。
そういう売り文句は狡いでしょう、と思うものの私の気持ちは完全に傾いていた。カエルは悩む私の前で再び歌い始める。道ゆく者たちは見慣れた様子で素通りしていくので、やっぱり年に二回は買わせるための常套句なのかもしれない。
それでもまあいいか、今日はただでさえツイていなかったのだから、多少騙されていようとも納得できる買い物ができるならそれで満足だ。なんなら失敗しても「ツイてなかった」で乗り切れる、気がする。多分。
息を吸った。
壁から数歩離れて腕組みをする。よし、ちゃんと曲がらず掛けられたと思う。真っ白いクロスに昔は足場として使われていたという木の枠がよく合っていて自然に笑みが漏れる。うん、悪くない。
ドキドキしながら窓の鍵を外す。昔、祖母の家で使われていたものに似ているスライド式のもので、錆び付いているそれは案外抵抗することなくすんなりと開く権利を譲った。
ひと呼吸おいて、窓を開ける。音が部屋に流れ込む。
そうして私は夜が更けるまで窓の外を眺めていた。
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