あめふりアーケード
静かな朝だった。アパートの住人は毎朝しているように大通り沿いの窓をぐいと引き上げて空を見上げ、それから通りを見下ろして、一人の通行人を目に留めると静かに窓を閉じた。
花屋の主人は仕入れたばかりの花を水揚げし、水を張ったバケツに部屋番号をつけてそれぞれの種類別に住まわせていく。開店と同時に日当たりの良い大通り側に植木鉢や花苗を出して、顔を上げて一人の婦人を見つけると即座に店頭のテラス屋根を広げビニールカーテンを降ろした。
彼女は道を歩いていた。
街の人々は彼女の姿を認めるや、踵を返して自身の家に帰っていくか、あるいは家の窓を閉めて閉じこもってしまった。商店は入り口を狭めやはり窓を閉めて息を潜めた。街は眠りについたかのように静けさのヴェールで包まれた。
彼女が周りを見渡すと、街は随分と人気が少なくなり、足早に歩く人も増えている。そうしているうちにヴェールを雨粒が濡らした。湿り気を帯びたそれは重さを増して、街は更に沈黙を決め込む。彼女は足元を見下ろした。靴は水を含み歩くと沼地に足を踏み入れたようで脱ぎ捨てたくなるし、新しくおろしたばかりのワンピースの裾はしとどに濡れてじんわりと色が変わっている。これが悲しいという感情なのか、慣れているからという諦めなのか、彼女はわからず花壇の端に腰掛けた。雨よけを失った膝に染みが点々と数を増す。座っているため下着もじんわりと冷たくなっていく。
彼女はそのまま雨に降られる街を眺めていた。
電車を降りた彼女は、雨が降っていることに絶望して立ち尽くした。
しばらく考えるが代替案が浮かばず、仕方なく背負っていたリュックを頭上に掲げて街に飛び出した。撥水ではないが、無いよりはマシだろう。石畳は水捌けが悪く、何度か大きな水溜りに飛び込んで悪態をつきながら駅前公園を抜けて商店街に向かい、アーチ看板の下を駆け抜けようとした時、彼女はその婦人を見つけた。
「あれ!」
雨の中、膝下を濡らしながら座る婦人が珍しく、彼女は思わず声をあげた。婦人の顔がゆっくりと上がりこちらを見たような気がして、駆け寄り覗き込む。
「どうしたんですか、お洋服が濡れてますよ」
「ええと、あなたは……」
婦人は困惑したように身動ぎをした。
「あ、すみません。何度か伺ったことがあるんですけど、覚えてないですよね。トロル宅配便の、」
名乗ると、まあ。と手を口があるらしき場所に持っていって驚嘆の声をあげる。婦人の頭からパタパタと水滴が落ちて膝を濡らした。表情は全く見て取れない。それはそのはずで、婦人の頭があるべき場所には開いた傘が一本あるだけだった。胴体から下は一般的な人間と同じそれだが、首が生えるべき場所からは金属製の持ち手が伸び、布地は控えめな小花柄が広がる。
「申し訳ありません。制服を着ていないと、気がつかないものですね」
「謝らないでください、そういうものです。ほら、お洋服も濡れていますから、屋根のあるところへ移動しませんか?」
手を差し伸べると、婦人はそれを握り返そうと手を伸ばしかけて、そして躊躇した後それをそっと膝の上に戻した。
「……いいえ、わたくしはこのままで」
頭を振ると雨粒が小さく跳ねる。
「ーーなにかあったんですか?」
黙り込んでしまった婦人を、彼女はじっと待っていた。途中、中に入っている教科書の危機を感じて頭上のリュックを降ろして抱え込んだ。
しばらく婦人は何も言わなかったが、
「わたくしは、あめふり婦人ですから」
ぽつりと漏らしたそれは雨のはじまりの一滴のごとく、そこから婦人は箍がはずれたように一気に話し始めた。
「わたくしが歩いていると、街の皆さんは避けていかれます」
「雨が降る日しか歩くことができないのに」
「お店はドアを閉めてしまうし、きっと迷惑だと思われているんです」
「わたくしも、お買い物楽しみたい」
「……できれば、街の人たちとも仲良くなりたいのです」
ぎゅ、とワンピースの裾を握りしめて絞り出した最後のそれが、婦人の本当の願いなのだと彼女は理解した。そして、婦人は大きな勘違いをしているということも。
「天音さんは、迷惑がられているって言いましたけど、違いますよ」
婦人の前にしゃがみこんで顔を見上げる。相変わらずそこには鈍く光る骨があるだけで、表情はわからない。そのうえ相変わらず雨粒は容赦なく降り注いでいて、溶け出した化粧が目に滲みてひどく痛かった。しかしこれだけは伝えなくてはならない。
「少なくとも私は、天音さんが居てくれるだけで本当に助かってます」
「どうして」
「天音さんが歩いているのを見ると、あっ、そろそろ雨が降るなって思うんです。私は荷物を運ぶ仕事なので、商品が濡れてしまうと困ったことになります。だから、台車にビニールカバーしておこうって」
だからね、と彼女は笑った。
「きっと、街のみんなも同じだと思うんです。天音さんが見えたら、ああ洗濯物取り込まなきゃ。お店の人は商品が濡れる前に雨避けしなきゃって思うんじゃないでしょうか。傘を取りに戻る方もたくさんいます。ここは、天気予報があてにならないから」
むしろ、私たちはみんな天音さんに助けられてると思うんですよ。
婦人は答えない。彼女は構うことなく婦人の手をとった。
「あなたを避けてるんじゃない、あなたのおかげで雨に備えることができてるんです。きっと仲良くなれますよ、だってみんな、あなたが大好きですから」
雨脚が強くなり、婦人の頭で跳ねては小さな虹を作り出しながら踊る。アーチ看板の下を風が吹き抜けると同時に「風邪ひくよ」「濡れてる」といくつもの小さな囁き声が走り去っていった。
ちょっと! と呼ぶ声に顔をめぐらせると、商店街のレンガ道を女が足早に向かって来ていた。
「濡れてるじゃないか!」
目の前で急ブレーキをかけて、両手に抱えたタオルを彼女と婦人それぞれに押し付けて女性は怒ったようにまくしたてた。
「風邪なんかひいたらどうすんの! アンタも、せっかくの傘があるのにお洋服がびしょ濡れ! ほらちゃんと拭いて!」
呆気にとられてなにも言えず、婦人は力強く拭かれるがままにされていた。彼女は風呂上がりと同じくらい濡れている頭を、渡された真っ白いタオルで拭き取りながらそれをにこやかに眺めて「ほら」と呟く。
「アンタのお陰で、うちのカフェテラスがいつも濡れずに済んでるから助かってんだよ。今日だってね……おっと」
怒涛のごとく喋ろうとしたその女は、慌ててふくよかな身体を揺すって口を噤んだ。
「ここで話しても濡れる一方だね。うちの店でコーヒーでもどうだい? アンタ雨が降ってる間しか出られないんだろう」
「ええと、」
「だぁいじょうぶ! 帰らなきゃいけなくなったら気にせず帰っていいから! この街はみんなそういう奴らばっかりだよ!」
アタシも人のこといえないけど! と笑う女は手際よく四本の腕で婦人のワンピースの裾を絞り上げていく。もう一対の腕は婦人の手を握っていた。
「こんな冷えちゃって! ほらとにかく店に! アンタはどうするんだい、宅配のねえちゃん」
「わたしは仕事があるので帰ります、タオルまた返しに行きますね」
彼女は女に頭を下げ、頭を上げると婦人に笑いかけた。
「雨が降っている時も降っていない時も、あなたは街の一員なんですよ」
雨はまだ降り止む気配を見せず、街は静かに濡れ続けていた。
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