26:月が綺麗ですね

 終業式が終わっても強制参加の補習があるため、あまり夏休みだという気分にはならない。


 八月になると補習は自由参加に変わり、ここでようやく選択肢が生まれる。


 すなわち、お盆と土日以外毎日行われている補習に参加するか、それとも家に帰って家族や友人と夏休みを謳歌するか。


 菜乃花は引き続き寮に残って補習に参加するかどうか迷ったが、両親に「夏休みくらい帰って来なさい」とせっつかれたため、八月に入ってすぐ実家に帰った。


「この戦国武将誰だったっけ?」

「細川政元?」

「それは明応の政変を起こした人でしょ? 違うわよ。すえ……なんとかじゃなかった?」

「なんとかって何?」

「だからそれが思い出せないんじゃないの」


 八月十二日。夜の九時半過ぎ。

 菜乃花はリビングの座椅子に座り、録画していたクイズ番組を家族と見ていた。


(千影くんはこんなふうに一家団欒することってあるのかな。実家でも千影くんを無視しないで欲しいって頼んでおいたけど、先輩は約束を守ってくれてるかな)


 テーブルの向かいで言い合う両親の声を聞き流し、物思いに耽る。

 家族と楽しく過ごしていると、頭の隅に千影の顔が思い浮かぶ。


 異常なまでに厳しい天坂家で千影が辛い思いをしていないか、寂しい思いをしていないか――そんなことばかり考えてしまう。


(いまどこで何してるんだろ。お盆は日本に帰るって言ってたけど、もう帰ってきてるのかな。それとも明日? 明後日?)


 別れて二週間も経っていないのに、会いたい気持ちは募る一方だ。


 せめてメッセージのやり取りくらいは、なんて思っても、大した用事もないのに連絡するのはどうにも気が引ける。


 恋人という肩書があれば許されたかもしれないが、菜乃花は友人止まり。それが現実だ。


 迷惑に思われたらどうしよう、そう思って結局、何のメッセージも送れずにいた。


(寮ではいつでも会えた。ほとんど毎日部屋に行って勉強を教えてきた。だからかな。会えないのが寂しい。声が聴きたい……そう思ってるのは私だけだよね。千影くんはいま何を考えてる? 遠く離れた海外にいても、少しくらいは私のこと考えてくれたりしてるかな……)


「菜乃花。どうしたの、ぼうっとしちゃって」

「え、なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」

 呼びかけられて我に返り、菜乃花はテーブルの向かいに座る母に目を向けた。


「それならいいんだけど。この問題、わかる?」

 テレビ画面は『厳島の戦いで毛利元就に敗れ、自刃した武将は誰?』という問題が出た状態で止まっていた。


「陶晴賢」

「そうそう、はるかた! すえはるかただ!」

 母は喉に刺さっていた魚の骨がやっと取れたような顔をして、リモコンをテレビに向け、停止していた録画を再生させた。


「駄目ねえ、年を取るととっさに出てこないわ」

「よくわかったなあ、菜乃花。さすが中間で学年トップだっただけある。期末は2位で残念だったけど」

 表情からして父に悪気はないのだろう。

 でも、菜乃花は毅然と反論した。


「2位でも十分でしょ? 普段の成績も大事かもしれないけど、受験のときに実力を出せればいいんだから、1位にこだわることないと思う」


 寮で同じことを言ったとき、総司はまずい薬でも飲まされたような顔をした。

 彼の前で言うべき言葉ではなかったかもしれないが、言わずにはいられなかったのだ。


 1位はなるほど立派だが、倒れるまで頑張る必要なんてないんじゃないか。

 1位なんかより、総司の身体のほうがよっぽど大事で心配だとわかってほしかった。


「お父さんは私が無理して倒れてでも1位になってほしいと思う?」

「まさか、そんなわけないだろ」

 母にジト目で睨まれ、肘で突かれた父は慌てたように言った。


「いまのはお父さんが悪かった、ごめん。2位でも十分に立派だよ。菜乃花はお父さんの自慢の娘だ」

「ありがとう。私もお父さんの娘で良かった」

 機嫌を直してにっこり笑うと、父はほっとしたように笑った。


「お父さん、私は? お姉ちゃんみたいに出来が良くないから嫌い?」

 菜乃花の隣で妹が自分を指さす。

 春から公立の中学に通い始めた妹の成績は平均以下だ。


「まさか。二人とも俺の大事な娘だ。まだまだ嫁になんてやらんぞ」

「気が早すぎるでしょ、あなた」

 真顔の父に母が呆れ顔で言った直後、テーブルに置いていた菜乃花のスマホが震えた。


『起きてる?』

 スマホのロック画面には短いメッセージの通知が届いていた。


『天坂千影』という送信者の名前を見た瞬間、菜乃花は脊髄反射の勢いでスマホを引っ掴み、両手で持った。

 テレビでは数学の問題が出題されたらしく、父と母がまた何か話し合い始めたが、もう耳にも入ってこない。


『起きてるよ』

 菜乃花は高速で文字を打った。


 慌てるあまりに誤変換してしまい、もどかしく思いながら文字を消し、また打ち直して送信ボタンを押す。


「彼氏?」

 表情と態度から何かを察したらしく、桃花がテーブルに頬杖をついてニヤニヤ笑っている。


「彼氏!?」

 出題された問題について母と話し合っていたはずの父が耳聡く聞きつけ、こちらを向く。


 しかし、それもまた菜乃花の目には映らない。


『電話していい?』

 菜乃花の目を奪ったのは新たに送られてきたメッセージ、ただその一文だけだった。


(電話!!!)

 もはや父のことなど頭から吹き飛び、菜乃花はスマホを手に立ち上がった。


「ちょっと外に出てくる!」

「電話か!? 彼氏と電話する気か!? 許さんぞ! お父さんは彼氏と電話するためにスマホを与えたわけじゃ――」

「はいはい黙りましょうね。過保護も度が過ぎるとゴキブリより嫌われるわよ」

「ゴキブリよりっ!?」

 母に片手を上げて感謝を示し、ショックを受けている父を放ってリビングを出る。


 玄関へ行き、サンダルに足を入れて扉を開けた。

 生温い夏の夜風を浴びながら庭に回り、スマホを見つめて深呼吸。


 そして、無料通話アプリの電話ボタンを押した。


『……もしもし?』

 五秒も経たないうちに千影が電話に出た。

 電話越しに声を聴くのは何気に初めてで、心拍数が上がる。


「こんばんは。どうしたの?」


(ああああ違う! 間違えた! これじゃ用事がなければ連絡してくるなって言ってるみたいじゃない! もうちょっと無難な話から始めれば良かった!)


 後悔してももう遅く、ハラハラしながら菜乃花は千影の返事を待った。


『大した用事があるわけじゃないんだけど……』

 千影は気まずそうだ。声のトーンが低い。


(いやあああやっぱり気にしちゃったじゃない!! 私の馬鹿!!)


「ううん、大丈夫! 用事なんてなくてもいいの!」

 見えていないとは知りつつも、菜乃花は激しく頭を振った。


「私もちょうど声が聞きたいなって思ってたから。電話してくれて嬉しい。いまはどこにいるの? 日本に戻ってきた?」

『ああ。今日フランスから帰ってきた』

「フランスに行ってたんだ。時差ボケは大丈夫?」

『どうかな。目が冴えてるし、今日は眠れそうにないかも』

「大変だね。夜更かしするなら付き合うよ? 完徹でも全然オッケー。大河先輩のゲームに朝まで付き合ったことあるし」

『いいよ。ちゃんと寝て』


 他愛ない会話が、なんて幸せなのだろう。

 スマホを耳につけたまま空を見上げれば、半月が銀色に輝いている。


「いま自分の部屋にいるの?」

『うん』

「窓の外の月を見て。綺麗だよ。きっと明日は晴れだね」

 電話の向こうで千影が動く音が聞こえた。

 シャッ、という小さな音は、カーテンを開けた音だろう。


『……確かに綺麗だけど。月が綺麗って、深い意味があるわけじゃないよな?』

「ご想像にお任せします」

 思わせぶりなことを言ったせいで千影は沈黙してしまった。


(あ、やばい。切られるかも)

 菜乃花は急いで話題を変えた。


「実家はどう? 居心地悪くない? 総司先輩は味方してくれてる?」

『ああ。園田さん、兄貴に言ったんだってな。実家でも俺を無視するなって。兄なら弟を守れって』


(総司先輩、ばらしたな!?)

 赤面して何も言えないでいる間に、千影が続けた。


『気にかけてくれてありがとう。おかげで兄貴、実家に帰るなりじーさまと派手に喧嘩したよ』

「派手に喧嘩!?」


『うん。凄いよな、兄貴。70を越えてなお辣腕を振るい、天坂を切り盛りする化け物みたいなじーさまに逆らったんだ。兄貴だって怖かったと思うよ。でも俺のために勇気を出してくれた。喧嘩の最中、俺のことを大事な弟だって言ってたって要に聞いた。いままで兄貴に嫌われてると思ってたけど、本当にそんなことなかったんだなって実感した』

「……そっか。それは良かった」

 素直に喜びたいが、しかし喜んでばかりもいられない。


「でも、一族の当主様に逆らって大丈夫だったの? 今度は先輩まで疎外されることになったとか言わないよね……?」

 菜乃花はスマホを握り締めた。


『言わないよ。大丈夫。俺、いま母屋のほうにいるんだ。離れから兄貴の隣の部屋に引っ越した』

「そうなんだ。良かった。じゃあもう千影くんも寂しくないよね」

 菜乃花は胸を撫で下ろし、今度こそ声を弾ませた。

 使用人がいるとはいえ、千影は家族の中で一人だけ離れに押し込められて辛かったはずだ。


『ああ。これも全部、園田さんのおかげだよ』

「そんな。私は何もしてないよ」

 スマホを握る右手はそのままに、左手を大きく振る。


『いいや。兄貴に行動を起こさせたのは園田さんだよ。園田さんは兄貴に演技を止めさせた。無理して取った1位なんてくだらないって、言いにくいことをはっきり言ってくれた。兄貴に面と向かって意見を言えるなんて凄いよ。俺にはできなかった。ずっと。俺に勇気があればここまでこじれることなんてなかった。無視するな、邪険にするなって怒ってたら、もっと早く腹を割って話せたはずなんだ。厳しい言葉の裏でどんなに兄貴が想ってくれてたか、馬鹿な俺はようやく気づいた』


 菜乃花はただ黙って耳を傾けた。


『園田さんのおかげで兄貴も俺も変わることができた。本当に感謝してる。ありがとう』

 砂場に降る雨のように、感謝の言葉は胸に染みた。


「……どういたしまして」


 本当は、違うと否定したい。

 変わったのは彼ら自身の意志で、彼ら自身の力だ。


 でも、否定するよりも受け入れるべきだと思ったから、菜乃花は微笑んでそう答えた。


 しばらく千影は何も言わず、菜乃花もまた黙って美しい夜空を見ていた。


 焦って言葉を探す必要はない。

 千影も同じ気持ちでいるから電話を切らないのだろう。


『花火大会、伏見さんたちと一緒に行ったんだろ? 楽しかった?』

 熱を含んだ夏の微風に吹かれていると、ややあって千影が尋ねてきた。


「うん、楽しかったよ。リンゴ飴を食べながら屋台を回って、三人でヨーヨー釣りもしたよ。ヨーヨー釣りなんてしたの何年ぶりかな。そうそう、会場に行く途中で小さな神社を見つけて、三人でお参りもしたの。くじを引いたら私と有紗は小吉で、一人だけ大吉を引いた杏は得意げだった」

 思い出して、くすっと笑う。


「花火は凄く綺麗だったよ。千影くんと一緒に見たかったな」

 あのとき彼が傍にいてくれたら。

 夜空を彩る大輪の花火を一緒に見て、綺麗だねって笑えたら、どんなに嬉しかったことだろう。


『……打ち上げ花火は無理だけど。手持ち花火ならできるよ』

「!!」

 菜乃花は思わず手に持ったスマホを凝視した。


『寮に戻ったら皆でやろうか』

「うん! やろう! 是非!!」

 菜乃花の食いつきっぷりが面白かったらしく、微かに笑う声が聞こえた。


『楽しみにしてる』

「え」

(それって――)


『じゃあ、また寮で』

「うん、またね」

 電話が切れた。


(……楽しみにしてるって、皆と花火をするのが、だよね?)

 夜の闇の中、いまだ眩しく光り続けているスマホの画面を見つめる。


(私と、っていう意味じゃないよね。いやでも、みんなというのは私も含まれるわけであって。もしかしたら……いやまさかそんな都合のいい話があるわけが、でも……あああああ止めた止めた! 蚊に刺されそうだし、帰ろう!)


 菜乃花はスマホの画面が暗くなるのと同時に頭を振って気持ちを切り替え、家に戻った。

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