24:イメチェンです!

 土曜日の夕方、午後五時過ぎ。


「……なんてことなの……」

 菜乃花は両手で口を覆い、感動に打ち震えていた。


「いや、大げさだろ」

 大広間の入り口には黒縁眼鏡を外し、十字模様が入ったワインレッドのTシャツに黒のズボンを合わせた千影が立っている。


 普段装飾品を身に着けない彼はシンプルな輪のデザインのシルバーアクセサリーを胸に下げ、左手に腕時計を巻き、まるでモデルのようだった。


 長すぎる前髪が切られたおかげで、どんな表情をしているのかも一目瞭然。


 彼は新しい髪型に慣れないらしく、気まずそうな顔で頭を掻いていた。


「どうよ?」

 今日一日弟を連れ出し、別人のように変身させて帰ってきた総司はドヤ顔で腰に手を当てた。


「素晴らしいです! さすが先輩です! もう尊敬です感服です!! 一億点差し上げます!!」

 総司の手を掴み、菜乃花はぶんぶん上下に振った。


「そうだろうそうだろう」

 総司はご満悦のようだ。


 どうしてこんな状況になったかといえば、話は昨日にさかのぼる。

 昨日は運命の期末テストの返却日で、各教科の赤点のボーダーが判明した。


 最も懸念していた化学の赤点は35点、千影は37点だった。

 他にもギリギリな教科はあったものの、目標である赤点の回避に成功したのは間違いなく、千影は上機嫌で礼を申し出てきた。


 そこで菜乃花がねだったのがイメチェンだ。


 イメチェンと言っても何をどうすれば……と、途方に暮れた千影に手を差し伸べたのが、大広間で一緒に話を聞いていた総司。


 果たして、総司に任せたのは大正解だった。


「千影くん格好良いよ!! 超格好良い!! いまの千影くんを見たら悪口を言ってたクラスメイトだって光の速さで手のひら返しすること間違いなしだよ!? 何あのイケメンって大騒ぎするよ! 私は騒ぐ! 現に心臓が大騒ぎしている!!」

 ひとしきり総司をほめちぎった菜乃花は千影の前に立ち、まくしたてた。


「うん、それは園田さんだけだ。ちょっと過剰反応しすぎ……」

 照れているらしく、千影は軽く丸めた拳で額を押さえた。


「いや過剰なんかじゃないよ! どうしよう、こんなに格好良くなっちゃったらライバルが増える!! 見える、私には見える! 月曜日、学校に行った千影くんを見て女子たちがコントみたいに一斉に倒れて失神する未来が!!」

 菜乃花は両手を広げて天井を仰いだ。


「ねーよそんな未来」

 ソファで紅茶を飲みながら、冷静に大河がツッコむ。


 大広間のテーブルにはティーポットと茶菓子が置いてある。

 天坂兄弟が帰ってくるまで、菜乃花たちは大広間で紅茶を楽しんでいた。


「千影くんの魅力に気づいた女子たちがこぞって告白しだすわ……!! どうしよう? G組の佐藤さんって可愛いよね。小柄でスタイル抜群で。あんな可愛い子がライバルになってしまったらとても太刀打ちできない……ああ、それとも千影くんはスレンダータイプの美女のほうがお好み? B組の門田さんって有紗に匹敵する美人だよね……えっまさか有紗までライバルになるの!?」

 戦慄して、菜乃花は大河の対面で紅茶を飲んでいる有紗に詰め寄り、震え声で尋ねた。


「……あの……有紗様は垢ぬけた千影くんを見てどのような感想を抱かれたでしょうか……?」

「そうね。格好良くなったわね」


「終わった……」

 ふらりと身体を傾け、床に座り込んで項垂れる。


「あら、終わってしまうの? 私が天坂くんのことを好きだといったら諦めるつもりなの?」

 ティーカップを右手に持ち、有紗がからかうように笑う。


「あ、諦めないもん……」

 歯を食いしばって顔を上げる。が。


「でも有紗ちゃんと菜乃花ちゃんじゃ、月とすっぽんっていうか、ぶっちゃけ勝負にならないというか。どっちが美人ですかアンケートを取ったら100%有紗ちゃんが勝つよな」

 大河の言葉は大量の矢となって身体中に降り注ぎ、菜乃花を吐血させた。


「うわあああああん乾先輩が虐めるー!!!」

 菜乃花は弾かれたように立ち上がり、壁際に立っているメイド姿の杏に抱き着いた。

 というより、泣きついた。


「はいはいよしよし。……何故私はいつもこんな役回りなのかしら……?」

 菜乃花の頭を撫でながら杏は自問している。


「もう、乾先輩。菜乃花を虐めないでください。外見なんて関係ないでしょう」

 杏の肩を涙で濡らしている間に、背後で有紗が言ってくれた。


「有象無象が何をどう評価しようと、肝心なのは天坂くんの気持ちです。ねえ天坂くん。菜乃花はあなたがこれから女子に告白されまくるんじゃないかと気をもんでるみたいだけど、もし誰かに告白されたらどう答えるつもりなのか聞いてもいいかしら? 菜乃花の親友として気になるわ」

 それは菜乃花としても大変気になるので、菜乃花は涙腺のスイッチを切って振り返った。


 総司はソファの端に移動した大河の隣に座り、傍らに弟を座らせて、手ずから紅茶を淹れてあげている。

 淹れ終わるのを待っていた千影は顔を上げて答えた。


「誰かに告白されても、俺にはるるかがいるって断るよ」


(ありがとう、るるか……!!)

 菜乃花は胸中で手を組み合わせた。


 外見が洗練されても千影が変わらず二次元美少女を愛し続けるとなれば、潮が引くように女子は離れていくだろう。


(二次元美少女という分厚い壁を貫いてでも進もうとする勇者はいないよね!)

 菜乃花は千影の回答に心底ほっとしたが、有紗や大河はそうではなかったようだ。


「……ふーん……」

 大河は露骨に白けたような顔をして、

「……そう……」

 有紗はため息をつき、やれやれ、といわんばかりに額を押さえて首を振った。


「……なんでそんな微妙な反応なんだ?」

 千影は二人を見て戸惑っている。


「千影がるるかを愛してるのはよくわかったよ。でもさ。三次元にちょっとはいいな、って思う子いないの? 気になる子」

 大河は千影の傍に行き、Tシャツに皺が寄るほど強く肩を掴んだ。


「痛いんだけど……」

「いいから答えろ。正直に。いまこの場を借りて白状してしまえ。な? じれったいんだよお前ら」

 大河の笑顔には奇妙な迫力があった。


「……。いるよ」

 千影はちらりと菜乃花を見て、すぐに視線を床に落とした。

 心なしか、頬が赤い。


「「!!!!」」

 有紗は胸の前で手を叩いて目を輝かせ、大河はぐっと拳を握った。


「ちょっと聞いた!? 菜乃花!! いるって!! 気になる子がいるって!!」

 興奮気味に有紗が立ち上がる。

 有紗は頬を紅潮させて喜んでいるが、菜乃花の心の中では巨大な嵐が吹き荒れていた。


「……やっぱり……」

 茎の折れた花のように俯いて、呟く。


 千影がこちらを見たことでピンときたのだ。

(あれはきっと私に申し訳ないって意味だ……そうだそうに決まってる……)


「ええ、そうよ! やっぱり――やっぱり?」

 目を輝かせてこちらを見ていた有紗が、台詞の途中で引っ掛かったかのように首を傾げた。


「ずばりG組の鈴木さんでしょ!?」

 菜乃花は顔を跳ね上げ、びしりと人差し指の先端を千影に向けた。


「なんでよ!?」「なんでだよ!?」「なんでそうなるの?」「園田様……」


「!?」

 この場にいた使用人を含むほとんど全員から一斉にツッコまれて、菜乃花はたじろいだ。


 千影はなんとも形容しがたい複雑な顔をしている。

 すぐ傍にいる杏はかくりと肩を落とし、呆れ返った顔で菜乃花を見ていた。


「え、だ、だって、杏ちゃんが。G組の鈴木さんは千影くんとよく喋ってるって……」

 その情報を聞いて、菜乃花はこっそりG組の様子を確認しに行った。

 ちょうどそのとき千影は隣の席の女子――鈴木と喋っていた。


 鈴木は唇の近くにほくろがある可愛らしい女子だったが、一番菜乃花を打ちのめした事実は千影が彼女に無防備な笑顔を見せていたことだった。


 告白を断られてからというもの、千影が笑う回数は激減した。


 そもそも千影はあんなふうに――特に女子には――気軽に笑う人ではなかった。


 かくして、千影を変えた自覚がない菜乃花は『もしかして千影くんは鈴木さんのことが好きなのでは。そもそも最初から横恋慕だったのでは?』などという、あらぬ妄想に取り憑かれる羽目になったわけである。


「鈴木さんは席が隣だからよく喋るけど、それだけだよ。人間として好きでも、恋愛感情があるわけじゃない」

 何故か怒ったような顔つきで千影は言った。


「じゃあ気になる子って誰? G組の佐藤さん? B組の門田さん? それともうちのクラスの牧田さん? あっ、C組にも松本さんっていう可愛い子が――」

「だから。園田さんなんだけど」

 焦れたように言って、千影は菜乃花を見据えた。


「園田? 私の他に園田って人いた? 何組?」

「菜乃花」

 有紗が苦笑する。


 気づけば、全員の視線が菜乃花に集中している。

 さすがに察した。


「……。……。……? えっ?」

 半ば呆けて見つめると、千影は頷いた。

 ほんのわずかに頬を赤らめ、照れをごまかすような、怒ったような顔で。


「……。いやいや。嘘でしょ? 冗談なのでは?」

「本当だよ。嘘ついてどうするんだ」

 拗ねたような顔で千影が言う。


「えええええ!? 嘘でしょ嘘でしょ本当に!? なんでなんでどうして!? いつから!? いやいつからでもいい、イエスです超イエスですいつでもイエスって答える準備はばっちりなんですけど!?」

 菜乃花は風を起こすような速度で千影の前に移動し、床に膝をついて千影の手を掴んだ。


 姫に求婚する王子のポーズ、再びである。


「いや、だから。気になるってだけで……こうなりそうだったから言わなかったのに……」

 菜乃花に手を掴まれ、困ったように千影は顔を横に向けた。


「菜乃花ちゃん」

 寄ってきた大河が屈み、ぽんと菜乃花の肩を叩く。


「千影のような奥手なシャイボーイに全力で攻めまくるのは悪手だぞ。狼に追われたウサギみたく、勢いに怯えて逃げられちまう。こういうのはな、ゆっくりじわじわ距離を詰めて、逃げられない壁際まで追い込んでから、頭からぱっくり行くんだよ」

「なるほど。焦りは禁物なんですね。参考になります」

 菜乃花は真顔で頷き、彼と熱い握手を交わした。


「なんの参考だよ……」

 聞こえていたらしく、千影は赤面している。


「千影くん」

 菜乃花はきりっとした表情を作って、千影に向き直った。


「私、いつまでも待ってるからね! いつだって返事はイエス、千影くんのことはずっとずーっと大好きだから! 髪切ってますます格好良くなった千影くんに惚れ直したから!」

「わかった。わかったから勘弁してくれ……」

 千影は赤くなった顔をしかめて手を振った。


「園田さん。千影が困ってるから帰って」

 総司が笑顔で親指を立て、向かいのソファを指した。

 これ以上食い下がったら寮を追い出すぞと、顔に書いてある。


「……はい」

 総司という名の鉄壁のガードの前に敗北し、菜乃花は膝を伸ばして立ち、有紗の隣に座った。


「ブラコンの兄がいると恋をするのも大変ね」

 空になった自分のティーカップに紅茶を注いでいると、有紗が笑った。

 

 説得には少々骨を折ったが、最終的に菜乃花の提案は受け入れられ、総司は寮で猫を被るのを止めた。

 彼の一人称は「おれ」になったし、ブラコンであることを隠そうともしない。

 有紗は最初こそ戸惑っていたが、数日も経てば慣れてきたらしく、多少のことでは動じなくなった。


「そうだね。でも、いまの先輩のほうが話してて楽しいし、ブラコンだから助かることもあるよ。千影くんの写真とかいっぱい譲ってもらったし、思い出話も聞かせてくれる。先輩の記憶力って凄いんだよ。そのとき千影くんがどんなことをして何を喋ってたのか、いちいち覚えてるんだから」


 しばらく有紗と談笑し、夏休みの予定などを話し合っていると――

 

「……イメチェンなんてしたら、また女子に『調子乗ってる』とか『何あれ格好良くなったつもり?』『誰もお前のことなんて見てねーっつーの。自意識過剰野郎』とか言われるんじゃないかと思ったけど、園田さんたちの反応を見る限り大丈夫かな」


 兄が淹れた紅茶を飲んで、千影がぼそっと呟いた。


「ちょっと待って千影。何それどういうこと? 誰がそんなこと言ったの?」

「え?」

 本人としては何の気なしの呟きだったのだろう、千影は追及されて驚いたように総司を見て――今度こそぎょっとして目を剥いた。


 総司は笑顔で怒り狂っていた。

 凄まじい怒りのオーラが全身から立ち上っている。


 菜乃花たちも談笑を止めた。

 この空気の中では、止めざるを得なかった。


「言ったの誰?」

「……。……。いや……あの……誰? かな?」

 犯人の名を挙げればまずいと思ったのだろう、千影は冷や汗を流した。


「怒らないから言ってごらん?」

 にっこり笑って、総司が千影の手を掴む。


「……参考までに聞きたいんだけど、言ったらどうするつもりなんだ?」

 千影の顎を滑り落ちた汗が、ぽたりとソファに落ちる。


「もちろん駆除するよ。耳障りな雑音を振りまく害虫は可及的速やかにいなくなってもらわないとね。で、誰?」


(め、目が据わってる……!!)

 菜乃花はお守りのようにティーカップを両手で持ち、ガタガタ震えた。


「いや、あの、大丈夫なんで……」

 総司の背後に何を見ているのか、千影は怯え切っている。


「伏見。把握してるよな?」

 埒があかないと思ったのだろう、総司は弟と同じクラスの使用人に目を向けた。


「はい。G組の――」

「いいから! 本当にいいから止めて大丈夫俺何とも思ってないし何を言われても平気でいられるように強くなるから!! それに!!」

 そこで、千影は決死のような表情で兄の手を掴んだ。


「お、おにーちゃんがいるから大丈夫……だ……?」

 千影は大量の汗を流しながら、引き攣った笑みを浮かべた。

 末尾に疑問符がついているのは、果たしてこの対応で合っているのかどうかという不安からだろう。


「……そう?」

 千影の一言で少しは機嫌が治ったらしく、魔王の気配が消えた。


「千影がそこまで言うなら、今回だけは見逃してあげようか。でももしまた何かあったらちゃんとおにーちゃんに言うんだよ? 退学させるから」


「……うん……ありがとう……」

 キラキラした笑顔で言われた千影は顔を伏せ、小さく安堵の息を吐いたのだった。

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