23:「嘘臭い笑顔をいますぐ止めろ」

「そう。わかる? たかが中1の実力テストが、こいつにとっては吐くほどのプレッシャーだったんだよ」


「…………」

 千影は瞬きすら忘れて固まっている。


「オレはそのとき初めて総司に興味を持った。こいつ人間だったんだなって思った。その日からオレは総司にまとわりついた。総司はやんわりオレを拒否して遠ざけようとしたけど、あいにくしつこさには自信があってさ。一か月かけてとうとう総司の素顔を見ることに成功した。『お前うぜーよ』って蛇蝎でも見るような目で冷たく吐き捨てられたときはゾクゾクしたね。新しい扉が開きそうになったわ」

 大河は歯を見せて笑い、すぐにその笑みを消した。


「総司の家庭事情を知って、なるほど天坂って家はクソなんだなって理解した。何でも1位を取るなんて無理に決まってんだろ。それでも『できない』と言うことは許されない。できないのはお前が怠慢だからだ、努力が足りないと責め立てられて、どんなに辛くても泣き言一つ言えない。そりゃ総司も歪むわ。オレが天坂家に生まれてたら絶対病んでたわ」

 哀れみのこもった目で、大河は総司を見下ろした。


 大河はすぐ傍で、しかも至って普通の声量で話しているというのに、総司が目を覚ます気配はない。

 テストに向けてよほど神経をすり減らしていたのだろう。

 よく見れば顔色が青白い。


「こいつ絶対弱いとこ他人に見せねーんだよ。正確には見せらんねーの。知ってる? 千影」

 黙り込んでいる千影に大河が視線を移す。


「修学旅行の日、こいつ一睡もできなかったんだよ。他人の前で眠れないの。変な寝言を言ったらどうしよう、寝相が悪かったらどうしようって気になって。馬鹿みてーだろ? 別にいいじゃん、寝言言っても。優等生が寝言で『おかーさん』とか言ったらむしろ親近感が湧いて好感度上がるじゃん? でも無理なの。どうしても。他人に隙を見せてはいけない、常に慌てず動じず、余裕を持った完璧な姿でいなきゃいけないって刷り込まれてるから」


「……俺、勘違いしてた。兄貴は何でもできる超人だって……そんなことなかったんだな。期待に応えようとして頑張ってるだけの、ごく普通の人間だったんだな」


 千影は総司に目を向けた。

 その目には労りが籠っている。

 ひょっとしたら同情もあったかもしれない。

 彼も実家で同じ苦しみを味わってきたはずだ。


「まあ、普通の人間に比べればよっぽど出来る奴だと思うけどな。記憶力もいいし、頭の回転も早い。でも何の努力もせずにどの分野でも1位を取れるほどじゃねーよ」


 大河は首の後ろに手を回し、頭を掻いた。


「マラソンの時だって一週間前からずっと走ってたし、合唱コンクールのピアノ伴奏者に選ばれたときは朝から晩までひたすらピアノを弾いてたよ。みんな結果だけ見て総司を讃えるけど、影の努力を知ってるオレはそりゃそうだろとしか思わねーよ。テストが終わった途端にぶっ倒れる奴なんて、この学園のどこ探してもいねーだろ。てか、そんな異常な奴、いてたまるか」

 大河は不機嫌そうに吐き捨てたが、そんな異常な人間が彼の横にいるのだ。


 寮生と交流する暇すら惜しんで一週間も部屋にこもり、テストが終わった途端に疲労困憊して倒れてしまう人が。


 それも、テストの度に毎回――もはや狂気の沙汰だ。


「…………」

 千影は黙っている。

 大河も鼻を鳴らしたきり、何も言わない。


 なんともいえない重い空気が流れる。


「……俺、赤点取りそうで」

 静寂の中、千影がぽつりと言葉を零した。


「もし赤点でも園田さんを追い出したりしないでほしいって兄貴に頼みに来たんだけど。兄貴は毎回倒れるまで勉強頑張ってたんだって知ったら、……どうしよう。凄く言いにくい……」

 自らの低い学力を恥じるように、千影は顔を伏せた。


「あー、なるほど。赤点取りそうだわヤベー、おにーちゃんお願い、もし赤点でも菜乃花ちゃんを追い出さないで♡ って言いに来たんだな?」

 千影たちがここに来た事情を悟り、大河がぽんと手を打った。


「その通りだけど、おにーちゃんと言うつもりは……」

 千影は渋面になった。


「ははは。でも、その必要はないぜ。だって総司、もし赤点でも構わないって言ってたもん」

「「え?」」

 菜乃花と千影の声は見事に揃った。


 確認のため、総司の側近に目を向けると、要は頷いた。


「はい。千影様に奮起していただくため、赤点を取ったら園田様を追い出すと総司様は仰いましたが、あれは嘘です。特にペナルティーを科すつもりはありませんよ」

「……そう……なのか?」

「はい」

 要の肯定を受けて、千影は眉間に皺を寄せ、右手でこめかみを押さえた。


「……じゃあ俺はなんのためにここに来たんだ。本気で悩んで、兄貴と対決しようって意気込んでたのが馬鹿みたいじゃないか」

「総司様は我儘な暴君ですが、本気で千影様を悲しませるようなことはしませんよ。いつだって千影様の幸せを願っておられます」

 要は噓偽りのない、真摯な眼差しで千影を見つめた。


「……そうなのかな」

 表情からして千影は半信半疑のようだ。


 兄に嫌われている誤解は解けたものの、いまだ兄弟の間には溝がある。

 これまで散々兄に傷つけられてきたのに、実は好きでしたと言われても、完全に信じることは難しいようだ。


 表面上、彼らは会話するようになったが、仲良しかと訊かれたら首を振らざるを得ない。


 菜乃花の歓迎会のときは共同でケーキを作ってくれたらしいが、あれは間に入った大河がうまく潤滑油の役割を果たしてくれたからだろう。


 兄弟で二人きりになった途端、話題に困り、必要最低限の会話しかしなくなる様子が容易に思い浮かぶ。


 それは二人の問題であって、菜乃花が介入する余地などないのだが、どうにももどかしい。


 菜乃花は天坂家に行ったことなどないし、偉そうにどうこう言える義理でもないが、それでも許されるなら天坂家当主に文句を言いたい。


 兄弟の仲を引き裂いたこと、総司に1位を強いること、千影を離れに押し込んで無視すること。

 当主に抗議したいことは山ほどある。


「千影様。ここだけの話にしておいてほしいのですが、本家の方々がある日突然、千影様への興味を失ったのは総司様のせいなのです」

「…………?」

 要は訝るような千影の視線を受け止め、見返した。


「教育係の望む結果を出せず、苦しんでおられる千影様を見かねて、総司様が当主様に取引されたのですよ。自分が千影様の分まで頑張る、天坂の名に恥じぬようどの分野でも1位になる、常に最高の結果を出してみせる。だからもう千影様に干渉するな、放っておいてほしい、と」


「…………」

 千影は目を丸くして、隣で眠る総司を見た。


 無論、総司は反応しない。

 針に刺された眠り姫のように、深く深く眠っている。

 胸が緩やかに上下していなければ死んでいるのではないかと勘違いしてしまいそうだ。


「この際なので言っておきますと、ロディーを飼ったのも総司様の提案です」


 ロディーとは、千影の実家で飼っている大型犬の名前。

 千影はロディーが大好きで、無料通話アプリのアイコンもスマホの待ち受けもロディーだ。


「天坂の人間は氷のように冷たいけれど、犬には人間の事情など関係ない。きっと千影様を全力で愛してくれる、千影様の慰めになるだろうと。総司様は本当に千影様のことが大好きなんですよ」


 千影はただ黙って総司を見つめている。

 そして、長いこと何も言わなかった。


「……千影くん」

 呼びかけると、千影は緩慢にこちらを向いた。


「私、先に部屋に戻ってるね」

 言いながら大河と要を見ると、彼らは察して立ち上がった。


「オレも行くわ」

「後はよろしくお願いしますね、千影様」

「……みんな行くのか?」

 千影は不安そうな顔をした。


 兄と二人きりになるのが怖いのだろう。

 起きた兄と何を話せばいいのかわからないのだ。

 実家でも、菜乃花が来る前の寮でも、彼はずっと総司に冷たくあしらわれ続けてきたから。


「うん」

 菜乃花は千影の傍に近づき、安心させるように微笑んだ。


「私たちは先に行くから、千影くんは先輩と話をして。話す内容はなんでもいいの。大したことじゃなくていい。天気の話でも、夏休みの話でも、思いついたことを話せばいい。先輩はきっと、そういうくだらない話を千影くんとしたかったはずだよ」


「……。わかった。そうする」

 千影は小さく首肯した。


「うん。じゃあ、また後でね」

 菜乃花は手を振って大広間を出た。


 彼らがどんな話をするのかわからないが、これまでの溝を埋められるような、二人にとって優しい時間であればいい。


 心から、菜乃花はそう思った。


「起きたとき、総司めちゃくちゃびっくりするんだろうなー」

 扉を閉めた後、菜乃花の右隣を歩きながら大河が笑った。


「なんで千影が!? って素で叫ぶでしょうね。驚きのあまりソファから転げ落ちるかも」

 菜乃花の左隣にいる要が顎に手を当てて言う。


「まさか、先輩に限ってそんな」

 菜乃花は笑い飛ばそうとしたが。


「いえいえ、素の総司様はそういう方ですよ。普段は気を張って完璧な王子様キャラを演じてますが、意外とうっかりさんなんです。何かやらかしたときは千影様ぬいぐるみを抱いてベッドで転げ回ったりしてますし。他人から見ればしょーもないことでいちいち思い悩んだりしてますよ」


「…………え」

 自分の姿と被り、親近感が湧いた。


「テスト結果が出たときもさー」

 今度は大河が発言したため、菜乃花はまたポニーテイルを揺らし、右に顔を向けた。


「他人の前では『偶然勉強した範囲が出ただけだよ』なんて、しおらしく謙遜してるけど、部屋じゃ超浮かれてるよな。めっちゃドヤ顔かましてくるよな」


「ドヤ顔……!?」

 想像がつかない。


「地味にイラっとするけどさ。マジで頑張ってるの知ってるし、褒められることに飢えてることも知ってるからさ。はいはい凄いね頑張ったねーって気が済むまで付き合わなきゃいけないよな。親友としては」

 大河は肩を竦め、両手の手のひらを天井に向けた。


(……先輩って、そういう人なんだ)

 密かに溺愛している弟の写真を寝室の壁に貼り付けて。

 溺愛がバレそうになったときは慌てふためいて、顔を真っ赤にしていた。


 何か失敗したらお手製の弟のぬいぐるみを抱いてのたうち回って、テストで100点を取ったらドヤ顔で親友に自慢する。


(……なんだ。本当に普通の人じゃない)

 貼り付けた仮面の笑顔を見せ続けられるよりも、素の彼のほうがよっぽど人間らしくて魅力的だ。


「……乾先輩。近衛先輩」

 菜乃花は立ち止まって呼びかけ、二人の足を階段前で止めさせた。


「ん? 何? 改まって」

 大河が聞いてきた。

 要も不思議そうな顔で菜乃花を見ている。


「天坂先輩が寮でも王子様キャラを演じてるのは、有紗が素を知らないからですよね?」

「ああ。菜乃花ちゃんが来る前まで、有紗ちゃんは他人と交流するのを嫌ってたからな。いまは普通に喋るようになったけど」

「有紗以外の寮の住人、使用人たちは全員天坂先輩の素を知ってるんですか?」

「知ってるよ。もしかして総司が起きたら、有紗ちゃんに素顔を見せてみないって聞くつもり?」


「そうです」

 大河は苦笑しているが、菜乃花は真顔で頷いた。


「実家でも学校でも天坂先輩は気が抜けない。素を解放できるのは自分の部屋だけなんて悲しいじゃないですか。私はこの一か月、有紗と交流を深めてきました。有紗は素の先輩がどんな人だろうと他人に面白おかしく吹聴して回るような子じゃありません。私が保証します」

 菜乃花は自分の胸を叩いてみせた。


「率直に言って私はあの嘘臭い仮面の笑顔が嫌いです。私はありのままの天坂先輩でいてほしいし、ありのままの先輩と話したい。寮に帰ったときくらい、肩の力を抜いてほしいんです。そう思うことはいけないことでしょうか?」

 二人は顔を見合わせた。


「…………ダメですかね?」

 彼らが視線を交わすばかりで何も言ってこないため、菜乃花は不安に取りつかれて眉尻を下げた。


「いや」

 大河は首を振って笑い、菜乃花の頭に手を伸ばした。


「わ」

 ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。

 その感触がくすぐったくて、反射的に目を細めて首を竦める。


「良い提案だと思うよ。それでこそ、さすが菜乃花ちゃんって感じ」

「ええ。園田様には驚かされてばかりです。総司様の部屋に乗り込む。面と向かって説教をする。自己評価が著しく低い千影様を根気よく励ましてマイナス思考をプラスまで引き上げる。園田様と知り合えたのは千影様にとって、いいえ、総司様にとっても幸運だったのでしょう。園田様のおかげで兄弟の仲は劇的に、とまではいかずとも、明らかに変わりました。千影様とお喋りができて総司様は喜んでいます」


 要はにっこり笑い、恭しく一礼した。


「どうぞ遠慮なく総司様に言ってやってくださいませ。その嘘臭い笑顔をいますぐ止めろ、見苦しいと」


「……いえ、そこまで言ってませんよ?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る