22:完全無欠な兄の話

「化学は35点くらいか……うーん。赤点かどうか、微妙なラインだね」

 昼食を食べた後、菜乃花は千影の部屋でテストの答え合わせを行った。


 教師の真似事をしているが、菜乃花もお手上げだった問題はいくつかある。

 しかしそんな難問を千影が答えられるわけがないため、答え合わせにはさほど苦労せずに済んだ。


 菜乃花の予想によれば千影の点数は英語が40、数Aが42、化学が35だ。

 予想の誤差がマイナス5点と考えると、残念ながら赤点の可能性は決して低くない。


「……あんなに熱心に教えてくれたのに、こんな不甲斐ない結果で本当にごめん。実家だったら確実に呆れられてる……」

 千影は項垂れた。


 彼は勉強机の横に置かれた椅子に座っている。

 菜乃花の尻の下にあるのが彼が本来使うべき、勉強机とセットになった椅子だ。


 採点するなら机を使ったほうがいいだろうと言われて場所を交代したのだが、これがいつも彼が使っている椅子かと思うと、どうにも意識してしまう。


 クッションが敷かれた座面の感触、机に走った些細な傷跡、普段と違う角度から見る彼の横顔、全てが新鮮だった。


「実家ってそんなに厳しかったんだね」

「ああ。いまはもう完全に見放されてるから中間で赤点取っても何も言われなかったけど、前は大変だった。『総司様は一度言えばわかってくださるのにどうして千影様は何度も同じ個所でつまずくのですか? 私に対する嫌がらせなのですか? 教え方に不満があるならどうぞ遠慮なく仰ってください。え? そんなつもりはない? でしたら何故理解する努力をしてくださらないのですか? 努力してもわからないわけではありませんよね? まさかそれほど愚かではありませんよね』……」


「うわあああ……」

 淡々と語られる言葉に背筋がぞくりとし、菜乃花は腕を摩った。

 エアコンのおかげで部屋は適温に保たれているが、急激に体感温度が下がった。


「地獄だったな……」

 過去に思いを馳せているのか、虚空を見つめる千影の眼差しが遠い。


「本当に大変だったんだね……。あの、化学はちょっと厳しいかもしれないけど。数Ⅰと世界史は50点以上取れてるみたいだし、千影くんは本当に頑張ったよ」

 現実に戻ってきてもらうため、菜乃花は千影の腕をぽんぽんと叩いた。


 遥か遠くをさまよっていた千影の目が菜乃花を捉える。

 彼と目を合わせ、励ますように菜乃花は微笑んだ。


「今回は全体的に難しかったし、平均点も下がると思う。赤点かどうかはまだわからないよ。希望は捨てないでおこう」

「…………。そうだな。ありがとう」

 千影は少しだけ頬を緩めた。


「もし赤点回避できてたら、何かお礼しないといけないな」

「いやいや、お礼なんて。0号館に住ませてもらってるだけで十分だよ」

 菜乃花は頭を振った。

 頭のリボンが、ポニーテイルが背後で揺れる。


「それは兄貴がしてくれてることであって、俺の力じゃないだろ」

「でも元はと言えば千影くんが頼んでくれたからだよ?」

「それはそうかもしれないけど、やっぱりそれとこれとは違う」

「歓迎会だって開いてくれたし、ケーキだって作ってくれたじゃない。あれで十分だよ」

「いや、毎日勉強に付き合ってくれてることを思えば、ケーキ程度じゃ釣り合わない」

 千影は頑固に主張した。


「とにかく何かお礼がしたいんだ。俺にしてほしいことがあれば何でも言って。……いや、付き合ってくれとかいうのは無しの方向で」

 先日の告白を思い出したのか、千影の頬が赤くなった。


(そんなこと言わないよ)

 お願いして無理に付き合ってもらったところで空しいだけだ。

 付き合うなら本気で好きになってもらいたいし、そうでなければ意味がない。


「それ以外のことなら、できる範囲で叶える」

 そう締めくくって口を閉じた千影を、菜乃花は無言で見つめた。


 顔を隠すように長い彼の前髪。

 お洒落とは程遠い、ただ実用性だけを追求したデザインの黒縁眼鏡。


(してほしいこと……)

 考えるまでもなく、菜乃花はずっと前から彼にしてほしかったことがある。


「……言質取ったからね? やっぱりあれはナシ、なんて言わせないよ?」

 机に手をついて椅子を後方へ引き、身体ごと椅子の向きを変える。

 向き直った拍子に、剥き出しの膝が彼の足に触れた。


「……そんな真顔で言われると何を要求されるのかちょっと怖いけど。約束する」

 ズボン越しに膝が触れているせいか、それとも菜乃花の脅しめいた発言のせいか、千影は一瞬たじろぐような顔を見せたものの、頷いた。


「やった」

 菜乃花はにんまり笑った。


「……そろそろ兄貴も帰ってきてるんじゃないかな。行ってみよう」

 満面の笑みを見て、よっぽどのお願いをされると思ったらしく、逃げるように千影が立ち上がった。




 廊下で花瓶の埃を払っていた使用人に尋ねてみると、二年生組は三十分ほど前に帰ってきたそうだ。

 総司なら昼食を終えて大広間にいるはずだと聞いて、菜乃花は千影と共に一階へ下りた。


 千影が大広間の扉を開ける。


 期末テスト終了に伴い、大広間にあった勉強用の特別スペースはなくなり、家具の配置も元に戻っている。


 細かな模様が入った薄いベージュの壁紙、大画面の薄型テレビ、アンティークの家具とソファ、季節の花が活けられた花瓶、全てはもう見慣れたものだが――


 扉を開けるなり千影が動きを止めたのは、ソファで総司が寝ているからだった。


(……寝てる……?)

 それは、あまりにも意外な光景だった。


 彼の親友の大河が寝ていることは割とよくある。


 この前も新作ゲームが出たと言って完徹でゲームをし、そのまま持参した毛布を被って朝まで爆睡していた。


 しかし、総司が寝ている姿を見るのは初めてだ。


 猫被りモード中の総司はいつでもどこでも完璧で、眠そうな顔などいまだかつて見せたことがない。


 けれどいま、彼はエアコンの効いた涼しい大広間で薄い毛布を被り、横たわって目を閉じている。


「ようこそお二人さん」

 総司の隣でテレビを見ていた大河が片手をあげた。


 大河の斜め前、一人掛けのソファに座る要は微笑み、頭を下げてきた。

 明日から使用人に戻るつもりらしく、要はボーダーが入ったTシャツに黒のパンツを履いていた。


「突っ立ってないでおいでよ。あ、総司が寝てるからって声量とか気にしなくても大丈夫よ? こいつ、エネルギー切れ起こして完全に落ちてるから。よっぽどのことがない限り目ぇ覚まさねー」


「……そうなのか」

 千影は戸惑ったような表情のまま、大河たちの対面のソファに座った。

 菜乃花も彼の隣に腰掛ける。


「もしかして総司に用事? 急用なら叩き起こそうか?」

 大河が再び片手をあげるのと同時、テレビの中でタレントたちが大笑いした。


 大河が好むのはバラエティーだ。

 総司のようにニュースや株価をチェックしていたことなど知る限り一度もないが、それでも総司と同じ難関大学志望のAクラスで成績も良いというのだから不思議である。


「いや。急いでないし、起こさなくてもいいよ。兄貴が寝てる姿を見るなんて何年ぶりだろうな……」

 眠る兄を見つめて、千影が呟く。


「そうなの?」

 園田家では同じ部屋で姉妹が布団を並べ、一緒に寝ることは普通だった。


「ああ。兄貴は本家でじい様たちと暮らしてるけど、俺が住んでたのは離れだし。普段はほとんど交流がなかった」

「離れ? 家が二つあるの?」

「海外の別荘を入れると十はあるよ。良く知らないけど島もいくつか持ってるらしい」

「島……もしかしてお金持ちの象徴、プライベートジェットまで所有してたり?」

「金持ちの象徴かどうかは知らないけど、自家用ジェットならあるよ」

 当然のように言われて、菜乃花は眩暈を覚えた。


(天坂家がお金持ちなのは知ってたけど、まさかここまでとは……普通の生活を送ってたら千影くんと知り合う機会なんて永久になかったんだろうな。頑張って入って良かった、五桜学園)


「兄貴はなんで寝てるんだ?」

 菜乃花が密かに拳を握り締めている間に、千影は視線を大河に移した。


「そりゃもちろん、勉強疲れですよ。この一週間、総司が部屋にこもってたのは知ってるだろ? 全教科満点目指して死ぬ気で頑張って、テストが終わったら反動でバタンキュー。いつものことだよ」

 大河は肩を竦めた。


「……いつものことなのか?」

 千影は困惑している。

 菜乃花も拳を解いて二人のやり取りを見守った。


「予想外? 千影の目には総司が何の努力もせず、いつだって涼しい顔で百点を取る天才に映ってた?」

「……ああ」

「無理もねーな。オレも最初勘違いしてて、総司のこと嫌いだった」

 大河はリモコンを掴んでテレビを消し、ソファの背もたれに背を預けて足を組んだ。


「文武両道、完全無欠。存在自体が嫌味な奴だと思ってたわ。相手がどんな嫌な奴でも愛想よくにこにこ笑っててさ。女子はあの爽やかスマイルが良いって騒いでたけど、オレには不気味な人形にしか見えなかったね」

 エアコンの稼働音以外はほぼ無音となった静かな部屋で、大河は肩を竦めた。


「必要があれば怒るし悲しむ。でもそれはあくまで『状況に応じて、必要と判断したときだけ』だ。微笑みの仮面の下で何を考えているんだか、内面が全く見えなかった」


(わかる気がする)

 学校での総司はまさにアイドル、王子様だ。

 彼は微笑みを絶やすことなく、相手が望むまま紳士的に振る舞い、耳障りの良い言葉を並べ立てる。


 しかし微笑みしか――一面しか見せないということは、自ら線を引いているのと同義だ。

 一定の友好関係、それ以上は拒絶している。


「見る目が変わったのは中等部の実力テストのときだよ。たまたま朝、トイレに行ったら、個室から青い顔したあいつが出てきた。直感で吐いてたってわかった」


「吐いてた……?」

 よほど信じがたい一言だったらしく、千影が呆けた。

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