20:テスト前の勉強会
「あと何かわからないところある?」
七月上旬の土曜日。
月曜開始の期末テストに備え、菜乃花は朝から千影の部屋を訪れていた。
昼食を挟んで再び家庭教師を務め、ふと左腕に巻いた腕時計に視線を落とせば、時刻は午後三時を回っている。
「いや、大丈夫。全科目一通り基礎は教えてもらったし、後はひたすら問題を解いて数をこなす段階だと思う。園田さんだって自分の勉強があるんだ。俺のことは構わず、テストまで自分の勉強に集中してくれ」
「……わかった。もしわからない問題があったら、遠慮なく聞きに来てね」
「ああ。ありがとう」
千影は軽く頭を下げた。
菜乃花と目を合わせようとしないのは、やはり歓迎会の翌日の出来事が影響しているのだろう。
あれから彼は菜乃花を意識しているようで、これまでになかった反応を見せるようになった。
そうなると菜乃花も意識せずにはいられず、つられて対応が少々ぎこちなくなってしまい、両者の間には始終奇妙な緊張感が漂っている。
皆がいると平気なのだが、こうして二人きりになるとどうにも気まずさが拭えない。
この変化は喜ぶべきことなのだろうが、これまではもっと気軽に見せてくれていた笑顔の頻度が減ったこともあり、菜乃花の心中は少々複雑だった。
「私、大広間に行くけど。千影くんも来る?」
持参した教科書や参考書を鞄に詰めながら問う。
一週間ほど前から大広間は勉強会会場となっている。
超進学校の五桜学園では何より学力が重視され、勉強についていけない生徒は容赦なく切り捨てられるため、どんな生徒であろうとテストには本気で臨む。
普段は女子友達と遊び惚けている大河もいまばかりは真剣な表情でシャーペンを走らせているし、杏も要も使用人から五桜学園のいち生徒に戻り、勉学に集中していた。
「いや、一人で勉強するからいいよ」
「そっか。じゃあ、またね」
菜乃花は鞄を肩にかけて千影の部屋を出た。
部屋の扉を閉めた瞬間、ため息が零れる。
ポニーテイルにした頭を振って気持ちを切り替え、階段を下りて大広間に向かうと、天坂兄弟以外の寮生全員がいた。
勉強会にあたって大広間の家具の配置は少々変更され、長机と椅子がセットされた特殊スペースが出現している。
長机の左右で男女が分かれていた。
右側が女性陣、左側が男性陣だ。
ちょうど休憩中だったらしく、机に広げた参考書や問題集はそのままに、皆はお茶を飲んでいた。
「あら。家庭教師は終わったの?」
氷が浮かんだアイスコーヒーを片手に有紗が訊いてきた。
有紗の手元には数学の問題集とルーズリーフがあり、彼女の右隣にはメイド服ではなく、Tシャツと短パンを着た杏がいる。
トレードマークの三つ編みを解き、クロスにしたヘアピンで前髪を留めた杏はミルクティーを飲んでいた。
杏はコーヒーより紅茶派だ。
「うん。千影くんも一緒に来ないかって誘ったけど、一人で勉強するって断られちゃった」
有紗の隣の椅子を引いて座り、鞄の中身を机に置く。
「そう。天坂先輩みたいに一人で集中したほうが捗るタイプなのかしらね」
総司はこの一週間、部屋にこもっている。
食事すら部屋に運んでもらっているため、二日前、学校から帰ってきたときに偶然廊下で顔を合わせたきりだ。
「菜乃花ちゃんがいると意識しちゃって勉強どころじゃねーんだろーな」
口の中にスナック菓子を放り込んで、大河がにやりと笑った。
彼が片手に持っている飲み物はカフェオレらしい。
彼は気分によってコーヒーをブラックのまま飲むときもあれば、砂糖やミルクを大量に入れるときもある。
「そ、そんなことは……」
「菜乃花ちゃんさー、千影に告ったでしょ?」
「!?」
思わず杏を非難の目で見てしまったが、杏は首を振った。
「冤罪よ。私は何も言ってない」
首を振ったことでずれたのか、杏は眼鏡のつるを人差し指で押し上げた。
「お、ってことは伏見ちゃんは知ってたんだ? 仲いいもんなー二人とも。でも伏見ちゃんは何も言ってないぜ。言われなくても空気でわかる。な?」
「はい。お二人の態度を見れば瞭然ですね」
「告白したのは歓迎会当日か、そのあたりでしょうね」
要が、続いて有紗が言った。
「…………」
壁際に立つ守屋を無言で見る。
彼はただ微笑んでいるが、どうやら彼も察しているらしい。
この分だと0号館の使用人全員が知っていてもおかしくはなく、菜乃花の頬を汗が滑り落ちた。
「良かったわね、みんなあなたの恋路を生温かく見守ってくれてるわよ」
杏がミルクティーを啜って言う。
「嬉しくない……」
羞恥で菜乃花の顔は赤くなった。
「いやでも、菜乃花ちゃんが千影を好きなのは割と初期からバレバレだったよな」
「好きでなければ総司様に弟の扱いが酷いと文句を言われたりしないでしょうしねえ」
菜乃花が総司の部屋に乗り込んだ日のことを回想しているのか、要が炭酸の入ったぶどうジュースを飲みながら爽やかに笑う。
「目から『千影様好き好きビーム』が常時出てますしね」
杏が無表情で悪ノリする。
「歓迎会のときも天坂くんにリボン結んでってねだってたしね。好きでもなきゃ同級生の異性にそんなこと頼んだりしないわよね」
有紗の指摘は冷静だ。
「もう止めてくださいお願いします……」
寄ってたかってネタにされ、菜乃花はトマトのように赤くなった顔を覆って懇願した。
「いやいや、いいことだと思うぜ? 菜乃花ちゃんのおかげで千影、だいぶ変わったもん。以前のあいつはおとなしくて陰気で空気だったんだよ。『あ、いたの?』って感じで、幽霊みたいに気配がなかった。いつだって死んだような無表情だったのに、いまは感情をあらわにするようになった」
「同意見です」
頷いたのは有紗だった。
顔を向けると、有紗はほんの少しだけ気まずそうに笑った。
「私、ずっと孤立してたから。いつも一人でいる天坂くんにシンパシーを感じてたの。寮でも彼は誰とも親しくなろうとせず、部屋に引きこもってばかりだった。天坂先輩とも仲が悪いみたいで、お互い無視し合ってて、一緒に食卓を囲むたびになんともいえない気分になってたのよね。まだぎくしゃくしてるけど、でも、兄弟がそれなりに話すようになったのは菜乃花が働きかけたからなんでしょう? 菜乃花は凄いわ。天坂くんだけじゃなく、先輩まで変えたんだから」
「そんな。私はしたいようにしただけだし、褒められるようなことじゃないよ」
菜乃花は慌てて手を振った。
「それで済ませられるのが菜乃花の凄いところなのよ。うまくいくといいわね」
有紗が屈託なく笑う。
「……ありがとう」
本心から恋を応援してくれているのがわかり、菜乃花ははにかみながら微笑んだ。
会話が一区切りしたところで、守屋が飲み物を勧めてきた。
アイスココアを頼んで、皆と一緒に勉強に励む。
「ねえ、この問題わかる?」
シャーペンの先端を顎に押し当て、数秒動かなかった有紗が横から数学の問題集を差し出してきた。
問いの横に大学名が書いてあるから、入試に出題された問題なのだろう。
こういった難問を平気で織り交ぜてくるのが五桜学園の実力テストだ。
どれだけ勉強しても足りることはない。
「これはね――」
ノートに解法を書きながら解説すると、有紗は「なるほど、ありがとう」と頷いた。
「前から思ってたんだけど、菜乃花って勉強教えるのうまいわよね」
「そう?」
と言いつつ、思い当たる節はある。
千影の家庭教師をしているからだ。
落ちこぼれの千影は勉強を教えようにも『そもそも何がわからないのかがわからない』レベルだった。
何故そうなるのかを1からわかりやすく説明できるようになるため、菜乃花は参考書や教科書と睨み合い、ときには職員室に赴いて教師に質問し、日々己の学力向上に努めてきた。
「教師に向いてるんじゃないかしら」
何気なくの発言だったのだろうが、その言葉は菜乃花の心に響いた。
(教師か……)
家庭教師の時間中、正解を導いた千影を褒めると、千影は得意げな顔をする。
そのドヤ顔が見たいあまり、菜乃花が大げさに褒めていることに果たして彼は気づいているかどうか。
(……うん。進路としてありかもしれない)
真っ白な進路希望調査票になにを書こうかずっと悩んでいたが、第一候補に教育学部と書いてみよう。
まだ一年の一学期、進路を変えることはいくらだってできるのだから。
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