18:「大好きだよ」

「歓迎会を開けば、園田さんが住人全員に歓迎されてることがわかるんじゃないかって思ったんだ。0号館の一員になったことを実感すれば、もうあんなふうに不安に取りつかれたりしないだろ?」


 千影は相変わらず淡々とした口調で――感情を交えないが故に、嘘も虚飾もない、真摯な言葉を紡いで、菜乃花を見つめた。


(私のためにそこまで考えてくれてたなんて……)

 胸がじんわりと温かくなる。


 自分のことを考えてくれただけでも嬉しいのに、彼は歓迎会を企画しただけではなく、現実に実行した。

 彼の生真面目な性格からして、使用人に一言命じて終わったわけがない。

 彼自身も風船を膨らませたり、折り紙を切って丸めたりと、歓迎会の準備に勤しんだはずだ。


 菜乃花の推測を裏付けるように、千影の左手の薬指と中指には絆創膏が巻いてある。

 今朝一緒に食事を摂ったときにはなかったものだ。


「たとえこの先どれだけ優秀な人が現れたとしても、俺の家庭教師は、俺が家庭教師になってほしいと思う人は、園田さんだけだ」

 まっすぐに見つめられて、菜乃花は唇を噛んで溢れそうになる涙を堪えた。


「俺は馬鹿すぎて実家では見放されたけど、園田さんはわからないと言えば根気よく1から基礎を教えてくれる。テストで20点取れたことを俺以上に喜んで、褒めてくれる。俺に勉強する喜びを教えてくれたのは園田さんだよ。本当に感謝してるんだ。追い出される夢なんてもう見なくていい。俺は赤点なんて取らない……ように頑張る」

 千影は窺うように、ちらりと総司を見た。


「うん。千影が赤点さえ取らなければ園田さんはずっとここにいられるよ。関係者の許可は取りつけたし、手続きも終わったからね」

 総司は愛想よく笑った。

 素を知らない有紗がいるため、猫被りモード発動中だ。


「……頑張る。ちょっとずつ点数も上がってきてるし、期末では、きっと……いや、絶対」

 この場にいる全員の視線を浴びた千影は繰り返し、首を縦に二度振った。


「そんなことよりプレゼントだ」

 この話題を続けるとプレッシャーに潰されてしまいそうになるのか、千影はすっくと立ち上がり、部屋の隅に積まれていた箱の一つを持ってきた。

 赤いリボンがかけられた小さな箱だ。


「歓迎プレゼント兼、誕生日プレゼント。気に入ってもらえるといいんだけど……」

 千影はあまり自信がなさそうな顔で小箱を手渡してきた。


「……ありがとう。開けてもいい?」

 目元を指で擦って、菜乃花は尋ねた。


「どうぞ」

 その言葉を待ってから蓋を開ける。

 中身は淡いピンクのリボンがついたヘアゴムと腕時計だった。

 ヘアゴムのリボンのサイズは広げたときの長さで40cmほどか。

 この大きさのリボンを髪に結えば遠くからでも目立つだろう。


 ヘアゴムを見て、真っ先に思い出したのは月曜日の出来事だ。

 杏が髪にリボンを結んでくれたとき、千影は「可愛いですね?」となんとも微妙な反応をしたが、その実、本当に可愛いと思ってくれていたのかもしれない。


 ヘアゴムと共に入っていた腕時計は雪をモチーフにしたらしく、秒針の先に雪の結晶を模した飾りがついていた。

 3時を示す『Ⅲ』の横には白い宝石がはめ込まれている。


 もちろん、本物のダイヤモンドではないが――そんな高価な時計を送られたら菜乃花のほうが困ってしまう――照明に反射して煌めくイミテーションの小さな白い宝石は、この世のどんな宝石よりも美しく菜乃花の目に映った。


「腕時計は、前に欲しいって言ってたから……それでいいのかわからないけど」

「ううん。これでいい。これがいい」

 菜乃花は大事なものを慈しむような手つきで腕時計を撫でた。


「そっか、良かった」

 ほっとしたように千影が笑う。

「ヘアゴムのほうは、『叶月りりす』みたいにポニーテイルにしてリボンをつけたら可愛いんじゃないかと思って。髪の長さもりりすと同じくらいだし」

 例として挙げる名前がソシャゲの美少女なのが、なんとも彼らしい。


「……結ってもらってもいい?」

 こんな機会は滅多にないため、勇気を出して甘えてみると、千影は「え」と息を呑んだ。


「いや、俺、不器用だし……髪を結うとかやったことないし、伏見さんにやってもらったほうが」

「四の五の言ってないで結んでやれ」

 千影の台詞を遮って大河が言った。

 菜乃花の恋心はバレバレである。

 総司は何も言わないが、きっと気づいているはずだ。


「…………」

 千影は菜乃花が差し出したヘアゴムを途方に暮れたような目で見つめたが、杏に櫛を手渡されたことで腹を括ったらしい。


 ヘアゴムを掴み、千影は菜乃花の髪を櫛でまとめ始めた。

 彼の指が菜乃花の髪に触れる。

 頭皮が引っ張られる感覚があったが、それほど痛くはない。


「……本当に下手だな」

 悪戦苦闘している千影を見て、大河が呟く。

「千影は不器用がデフォだから」

 彼の隣で、さらりと総司が失礼なことを言う。


「頑張ってる千影くんはさておき、オレからもプレゼントでーす」

 大河はソファから立ち上がって箱を手に取り、差し出してきた。

 許可を得て開けてみると、白い帽子が入っている。

 ピンクのリボンが華やかだ。


「わあ、今日有紗に買ってもらった服に似合いそう……。……? もしかして」

 ぴんと来て、有紗と大河を交互に見ると、有紗は笑って頷いた。


「あのとき撮った写真は先輩たちに送っていたのよ。乾先輩はそれを見て、この帽子を買ったってわけ」

「ありがとうございます。大事にします」

 帽子の入った箱を胸に抱きしめる。


「はい。ぼくはこれ」

 総司に渡された箱の中にはストラップ付きのパンプスが入っていた。

 これもまた有紗が買ってくれた服に似合いそうなデザインだ。


 菜乃花がヒールに慣れていないことを杏から教わったのか、靴底はほとんどぺたんこで、生地にはそれなりに伸縮性があり、履きやすそうだった。


「凄い、ぴったり……」

 試しに履いてみて、菜乃花は感嘆した。


「園田さんの足のサイズは伏見さんから聞いてたからね」

「できた」

 一連のやり取りの間、ひたすら菜乃花の髪を弄っていた千影が手を放した。


「どうぞ」

 杏がすっと進み出て、菜乃花に手鏡を渡してきた。

 手鏡で自分の姿を確認してみると、不格好ではあるが、一応髪はポニーテイルになっている。


「……髪、全部結えてないな」

「うん。まとめ方が甘くて、左側が瘤みたいに膨らんでるし」

「リボンが傾いてるわね」

 それなりに千影とは付き合いが長いからか、寮生たちの評価は手厳しい。


「だから俺にやらせるなって言ったんだ……」

 千影は頬を朱に染めた。

 その隙に、千影の手からは用済みになった櫛を、菜乃花の手からは手鏡を回収し、杏が速やかに下がる。


「ケーキだって、無難に店で買おうって言ったのに。手作りの方がいいって強引に押し切っておいて、仕上げは全部俺に押し付けて。結局大惨事になっただろ。兄貴がやったほうが絶対良かった」

 千影は拗ねたような目で総司を見たが、総司はソファの対面で足を組み、知らん顔をしている。


「ケーキ? ケーキまで用意してくれてるの?」

「ああ、うん。園田さんたちが出かけてる間に、兄貴たちと三人で作ったんだ。でも、出来は期待しないで。仕上げのデコレーション作業は兄貴が手伝ってくれなかった。大河だって『お前がやることに意義があるんだ』とかなんとか言って、逃げたし……」


 空気を読んだ守屋が退室し、ケーキを載せた盆を両手に持って戻ってきた。


 菜乃花が好きなイチゴをふんだんに使ったホールケーキは、幼稚園児が製作者だと言われても納得してしまいそうな出来栄えだった。


 塗られたクリームの層は各所で厚みが違うし、本来縁に沿って等間隔に絞り出されるはずのホイップクリームは間隔も大きさも見事にばらばらだ。


「あの……味はまともだから。仕上げ以外の作業は兄貴たちが手伝ってくれたから」

 ますます顔を赤くし、千影が小さな声で言った。


「お腹壊したくないからね」

「ねー」

 総司が微笑み、大河が相槌を打つ。

 二人に逃げられて、四苦八苦しながらクリームを塗る千影の姿が目に浮かぶようだ。


 それでも彼は努力してくれた。

 恐らくは、菜乃花の笑顔を夢見て。


「…………」

 不格好なホールケーキが視界の中で歪み、熱い雫が膝に落ちた。


「!? な、泣くほどダメだった!?」

 声もなく泣き出した菜乃花を見て、千影が狼狽している。


「二人が素直に協力してくれないから! 大河が変な命令出すから使用人たちも全然手伝ってくれないし! 兄貴ならパティシエ顔負けのケーキだって作れるくせに、なんでそう意地悪なんだよ!」

 非常に珍しく千影は声を荒らげた。


「違うわよ天坂くん、落ち着いて。菜乃花は悲しくて泣いてるわけじゃないわ。むしろ逆。喜んでるのよ」


「喜んでる……? こんな無様なケーキで?」

 有紗に言われて、千影は眼鏡の奥の目を瞬かせた。


「……うん。喜んでるよ。本当に、本当に嬉しい。私のために頑張ってくれてありがとう、千影くん」

 有紗がハンカチを差し出してきた。


 ハンカチで目元を拭い、絆創膏が巻かれた千影の手に自分のそれを重ねる。

 驚いたように千影の手が動いたが、彼は振り払おうとはしなかった。


「私、千影くんと知り合えて良かった。0号館で暮らせることになって、本当に良かった」

 菜乃花は潤んだ目を細め、心の底から笑った。


「みんな、歓迎してくれてありがとう。これからもどうぞよろしくお願いします」

 深々と頭を下げる。

 改めて総司に礼を言おうかと思ったが、止めた。


 家からの帰り道、車内で「礼はもういいって。耳にタコができる、次に言ったら追い出すぞ」と脅迫されているのだ。


「いいってそういう真面目な話はー。こんな大げさな歓迎会なんか開かなくても、元からオレは大歓迎してたよ?」

「こちらこそよろしくね、菜乃花」

 大河がウィンクし、有紗が菜乃花の傍で笑う。


「よろしく」

 総司の笑みは仮面のようだが、菜乃花に向けられた視線は冷たくない。


 そもそも彼自身、ケーキ作りに参加してくれたのだから、口先では何と言おうと菜乃花を嫌っているわけではないのだろう。


(……今日が人生で一番幸せかもしれない)

 再びハンカチで目元を覆い、気を抜けば漏れてしまいそうな嗚咽を堪える。


「料理が冷めるし、食べよう」

 絆創膏を巻いた手を菜乃花の手の下から引き抜き、千影が菜乃花の背中をぽんと叩いた。

 顔を上げると、千影は微笑んだ。


「食べ終えたら、皆でトランプやパーティーゲームをしよう。ビンゴとかも準備してあるんだ」

「……楽しみ!」

 もう一度ハンカチで目元を拭って、菜乃花は破顔した。





 夢のような時間はあっという間に過ぎて、解散の流れになった。


「今日は本当にありがとう。おかげさまで、すごく楽しかった」

 菜乃花は千影と共に階段を上りながら言った。


 有紗は一足先に部屋に戻ったし、大河と総司は使用人たちとまだ大広間に残っている。

 ひょっとしたら総司たちも有紗と同様に気を利かせて、菜乃花が千影と二人で話せるタイミングを作ってくれたのかもしれない。


「楽しんでくれたなら良かった」

 千影は微笑んだ。


(……好き)

 その笑顔が、優しい眼差しが、全てが好きだ。


 警戒心を解いて、菜乃花の前で素直に笑うようになった彼が好きだ。

 手を怪我するほど、菜乃花のために一生懸命、歓迎会の準備をしてくれた彼が好きだ。


(大好き)

 想いが昂って、言わずにはいられない。


「ちょっと止まってくれる?」

 階段を上り切ったところで、菜乃花は千影の足を止めさせた。


「?」

 不思議そうな顔をしている彼に近づいて、耳元に顔を寄せ、そっと囁く。


「大好きだよ」


「…………………え?」

 千影は異世界の言語でも聞いたかのように、目をぱちくりさせた。


「じゃあ、また明日」

 友達としてだよな? と彼が確認してくる前に、菜乃花は逃げた。


 菜乃花は千影に夢中で、毎日思い悩んでいる。

 だから、彼も一晩くらい、あの言葉はどういう意味なのかと思い悩んでくれたら良い――そう思っていたのだが。


「言っちゃったあああとうとう言っちゃったあああきゃーどーしよー!!」


 十分後、自室のベッドで抱き枕を抱え、身悶える羽目になったのは菜乃花のほうだった。


「明日改めて聞かれたらどう答えればいいんだろ、告白したってるるかがいるから無理って言われるだけだよね!? やだー何言ってんのー友達としてに決まってるじゃなーいって明るく流すべき!? でもいい加減友達なんて生温い関係から脱却したいんだけどどうしたらいいのかなあ!? ねえ、どう思う!?」


「そうね、率直に言って好きにしたらいいと思うんだけれど。しょーもないことに毎晩付き合わされる身にもなってほしいわね」


 プレゼントの箱やビンゴで当たった景品などを部屋に運んできた杏は呆れ声で言った。


「しょーもなくない、私には大問題なんだよ!! 応援するって言ってくれたでしょ! 一度言った言葉には責任を持って最後まで付き合ってよおお!!」

 菜乃花は泣きながら杏に縋りついた。


「私は正直、あの言葉を後悔している……」

 濡れた眦を胸に押し当てられ、挙句にぐりぐりされて、杏は遠い目をした。


「そんな冷たいこと言わないでよああああなんであんなこと言っちゃったんだろう私のバカバカ明日どんな顔して千影くんと会えばいいの時間を巻き戻したい自分の口を塞ぎたい!! いやあの言葉に嘘はないし本当に大好きなんだけど!! 向こうが全然わかってくれず一ミリも私を異性として意識してないのが問題であって!! ああああどうやったら二次元美少女に勝てるっていうのよ誰か教えてえええ――!!」


「………………」

 杏のため息は、ベッドを転げ回る菜乃花の耳には届かなかった。

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