14:「行こう」
制服に着替えて食堂へ行くと、既に四人の寮生全員が着席していた。
彼らの傍で三人の使用人が給仕している。
今日の朝食はエッグベネディクトだ。
パンとハムの焼けた良い香りが鼻腔をくすぐり、空っぽの胃が小さく鳴る。
大きな長方形のテーブルの中央には青を基調としたアジサイとデルフィニュウムの花が活けられ、食卓を華やかに彩っていた。
「おはよう」
「はよー」
「おはよう」
「……おはよう」
四人がそれぞれ挨拶してくる。
一番元気がいいのが大河で、もっともテンションが低いのが千影だ。
朝に弱い彼は眠たそうな半眼で、リスのように頬を軽く膨らませ、エッグベネディクトを食べている。
「おはようございます」
先輩がいるため敬語を使って挨拶し、菜乃花は有紗の隣に座った。
「お飲み物は何に致しましょう?」
0号館に住み込みで働く
彼は使用人の長で、年齢は四十代くらい。
笑顔の素敵な紳士である。
「カフェオレでお願いします」
「かしこまりました」
会釈して、守屋は厨房へと引っ込んだ。
「リボン、可愛いわね。似合ってるわ」
ブラックのコーヒーを一口飲んで、有紗が微笑んだ。
「ありがとう」
照れくさくなり、逃げるように視線を逸らす。
逃げた視線の先には千影がいたが、彼はこちらを見ていない。
「ねえ、天坂くんもそう思わない? リボンつけてる菜乃花、可愛いわよね」
菜乃花の気持ちを知る有紗が話を振った。
「ちょっと! いいって!」
菜乃花は赤面して有紗の腕を引っ張ったが、時すでに遅し。
千影がこちらを向き、仄かな期待にドキリとする。
「……ああ。珍しいな」
「違ぇだろ」
横からすかさず大河がツッコんだ。
「女子がお洒落したら褒めるのが紳士ってもんだ。そんなんだから千影はモテねーんだよ、ほらやり直し」
「……可愛いですね?」
これで良いのか、という顔で千影が大河を見る。
「敬語! 疑問形! あーホント千影はダメだわ。ごめんなー園田ちゃん、後で叱っとくから、許してやって。あ、オレ個人としてはもちろん可愛いと思ってるからねー」
大河がぱちりとウィンクする。
菜乃花だから愛想が良いのではなく、彼は女子という存在そのものを愛している。
「一人の彼女よりも百人の女友達」を公言して憚らない彼は、先週校内で偶然会ったとき、一大ハーレムを築き上げていた。
「なあ、総司はどう思う?」
「うん、可愛いんじゃないかな」
総司はナイフでエッグベネディクトを切り分けながら、爽やかに微笑んだ。
(なんて嘘臭い笑顔……可愛い『んじゃないかな』の時点で、もうお世辞確定じゃないの……)
総司がそういう意地悪な男だとは知っているが。
素の彼はどうもSっぽい。
「大丈夫、本当に可愛いからね?」
千影が想像とは違うリアクションをしたので焦ったのか、有紗がフォローを入れてくれた。
「いや、そんなに気を遣わなくてもいいよ。ありがとね」
他愛ない会話をしている間に、杏がエッグベネディクトを運んできた。
利き腕が使えない菜乃花の料理は食べやすいよう、あらかじめ一口大に切り分けられている。
ストローが刺さったガラスコップにはいくつも氷が浮かび、注文通りのカフェオレが注がれていた。
「ありがとう。いただきます」
杏に礼を言ってから、ストローでカフェオレを飲む。
喉を潤した後、菜乃花はエッグベネディクトをフォークで突き刺した。
カリっと香ばしいイングリッシュマフィンに、ベーコンとポーチドエッグ、特製のオランデーズソースが絶妙に絡み合い、素晴らしい味わいだ。
「これは何だろう? 美味しいけど、変わった味」
サラダの横に添えられた料理に首を傾げていると、有紗が教えてくれた。
「セビーチェって言うのよ。魚介と野菜のマリネね」
有紗は手の一部であるかのように、優雅にナイフとフォークを操っている。
見回しても、ここにナイフとフォークの扱いが下手な人間は誰もいない。
皆――普段は粗野な大河でさえ ――幼少からテーブルマナーを学んでいたのだろう。
こういうとき、やはり彼らと自分は違うのだと痛感する。
菜乃花が大騒ぎしたフォアグラもキャビアも、彼らにとっては贅沢品ではなく、日常に出てくる食材の一部なのだ。
「ゼヒーチェって言うんだ。知らなかった」
疎外感を覚えながら、菜乃花はゼヒーチェを口に運んだ。
俯いた菜乃花を千影が見ていることに、気づくことなく。
夕方五時から七時までの二時間、菜乃花は千影の家庭教師になる。
今日も鞄に参考書を詰めて千影の部屋を訪れると、既に扉は開かれていた。
最近、千影は菜乃花を歓迎するように扉を開けて待っている。
その変化がとても嬉しい。
「さて。今日は化学から始めようか」
鞄から参考書と問題集を取り出して机に広げる。
窓の外で絶えず降る雨の音が、部屋のささやかなBGMになっていた。
「よろしくお願いします」
何度繰り返しても変わることなく、千影は律義に頭を下げた。
授業開始から、一時間半後。
「すごーい、頑張ったね千影くん!」
数学の抜き打ちテストが20点だったと知り、菜乃花は千影に手のひらを向け、両手を上げた。
ハイタッチ待ちの構えだ。
しかし、千影は困惑したように眉尻を下げた。
「いや、20点だぞ? 大げさじゃないか?」
「20点でも凄いよ、9点だった前回の倍以上の点数が取れたじゃない。素直に喜ぼう! ほら」
頭の高さまで上げた両手を振って促すと、千影はハイタッチに応じようとして両手を上げ、思い直したようにすぐに下げた。
「いや、右手はダメだろ。痛めてるんだから」
「大丈夫、もうほとんど痛くないから。ハイタッチ程度じゃなんともないよ」
「そうなのか。なら」
千影は軽く両手を合わせた。音も出ないほど、本当に軽く。
満足して両手を下げると、千影はサポーターに覆われた菜乃花の右手首を見つめた。
「……痛くないんだな」
「うん。おかげさまで、経過は順調です」
右手を上げ、振ってみせる。
「動かさなくていいから」
心配性の千影は菜乃花の腕を掴んで下ろさせた。
「でも、そうか。良かった」
千影の眼差しにも、声にも、安堵が滲んでいた。
「うん。あと三日もあれば完治するよ。梶浦先生の見立ては完璧だね」
「それなら当初の予定通り、木曜日には4号館に戻れそうだな」
改めて突きつけられた現実が、ナイフのように胸を抉る。
「……そうだね」
菜乃花は無理やり笑った。
笑えと、自分に命じた。
「0号館、楽しかった? って、まだあと三日もあるんだからいま聞くのは変か」
「あはは。うん、楽しかったよ。本当に。夢みたいに……」
言いかけた台詞が中途半端に途切れる。
(本当に、夢みたいに楽しかった。だから)
4号館に戻るのが、辛い。
ずっと0号館にいたい。
千影や杏たちとこのまま一緒に暮らせたら、どんなにいいだろう。
でも、そんな我儘、言えるわけがない。
「………………」
言葉が喉の奥に詰まり、呼吸さえも苦しい。
千影は無表情で、じっと菜乃花を見ている。
「しんみりしちゃうし、そういう話は水曜日にしよう!」
菜乃花は空元気を出して、数学の問題集を手に取った。
「さ、授業の続き! この二次方程式の実数解の個数を求めてみて。昨日やったことを覚えてれば解けるはずだよ」
問題集を開いて千影の前に置く。
でも、千影はシャーペンを動かそうとしない。
「あれ、わからない? 問1は解の公式を使えば解けるよ。一緒に解こうか?」
「待って。授業より先に、聞きたいんだけど」
右手に持っていたシャーペンを机に置いて、千影は身体ごと菜乃花に向き直った。
「園田さんは4号館に戻りたくなかったりする?」
まっすぐな視線が菜乃花を射抜く。
「……………」
明るく笑い飛ばすべきだと理性が訴えているのに、頬の筋肉が強張って、ちっとも動いてくれない。
「……そんなこと、ないよ」
どうにか絞り出した否定の声は、ささやかな雨音に掻き消されそうなほど小さかった。
心の奥底まで見透かそうとするような真剣な瞳に耐えられず、目を伏せる。
「今朝も顔が暗かった。俺の勘違いじゃなければ、だけど。あのときも4号館に戻りたくないって思ってた?」
「………………」
違う。今朝は疎外感を覚えて悲しくなっただけだ。
けれど、これまでどんなに楽しくてもいずれ4号館に戻らなければならないという事実が頭の隅にこびりついて離れず、ずっと辛かったのも本当なので、菜乃花は沈黙した。
「本当のことを言って。言わなきゃわからない。4号館に戻りたい? 戻りたくない?」
「も……」
酸欠の魚のように、口を動かす。
言いたいという気持ちと、言ってはいけないという自制がぶつかり合い、苦しくて堪らない。
「ゆっくりでいいよ」
千影は頷いた。
菜乃花が本音を言えるようになるまで待つ。
態度がそう言っている。
(……千影くんは、一見無表情で、冷たいのに。なんでこんなに優しいの)
「……戻りたくない」
とうとう、菜乃花は本音を口にした。
「本当は、戻りたくないの。ルームメイトと気が合わなくて……0号館に引っ越すって言ったときも、あの子、笑ってた」
これで一人部屋になる、菜乃花がいなくなって嬉しいと、口元の笑みが雄弁に物語っていた。
「4号館には各階ごとに、皆が集まれる談話室があって。テレビや漫画とかも置かれてて、その階に住む子なら自由に入って楽しめるはずなんだけど。私が談話室に行くと皆が嫌な顔するから、入れなくて……いまやってるドラマの内容とかも、私だけ知らなくて。クラスメイトの話にもついていけなかった」
思い出すと涙が出そうになった。
ぐっと喉の奥に力を入れ、涙の衝動を堪えて言う。
「私が学年トップになったのも、勉強しかすることがなかったからなの。教室にも寮にも居場所がなくて、辛かった……」
「そうか。頑張ったな」
千影は菜乃花の腕をぽんぽん、と叩いた。
「――――」
気持ちが緩む。
(ああ、ダメだ。もう無理)
溢れた涙が頬を滑り、手の甲の上に落ちた。
「……このまま0号館に住みたいなんて我儘、言えないよ。私みたいな庶民は0号館に住めない。たとえもし許可が下りたとしても、高い寮費を払えるほど、うちは裕福じゃない。特待生だから授業料は免除だけど、何もかも全部無料になるわけじゃない。寄付金とか、制服代や教科書代とか、修学旅行の積立金とか……いっぱい払ってもらってるのに、これ以上なんて、とても無理……」
顔を覆って、嗚咽する。
「バイトも考えたけど、そしたら学業のほうが疎かになる。私は天才じゃないから、毎日勉強しないと成績を維持してられない。成績が落ちたら特待生でいられなくなる。五桜にいられなくなる。千影くんにも会えなくなる。それは一番嫌だ」
一度泣き出すともう止まらなかった。
後から後から涙が溢れ、このまま声を上げて泣き崩れてしまいたい。
それでも。
(――千影くんを困らせちゃダメだ)
菜乃花は乱暴に目元を拭って、笑顔を作った。
「私は4号館に戻るよ。半月だけでも、0号館で暮らせて、すごく楽しかった。全部千影くんのおかげだよ。ありがとう」
「お礼なんて言わなくていいよ。行こう」
千影は菜乃花の左手を掴み、引っ張って立ち上がった。
「えっ」
菜乃花は予想外の行動に面喰った。
「行くって、どこへ」
彼に導かれるまま部屋を後にし、廊下を歩きながら問う。
「決まってる。俺がなんとかしてやれたらいいんだけど、俺にそんな権限はないし、財力もない。だから、兄貴に頼みに行こう。兄貴にできないことはない。知ってるだろ?」
「知ってるけど、いや、でも、あの。そんな」
「いいから行くぞ」
(千影くんって、こんな強引な人だった? こんな一面もあったの?)
戸惑う菜乃花の手を引いて、千影はずんずん廊下を進んでいく。
使用人が何事かという顔で見ているのも気にしない。
「待って、千影くん」
呼びかけても彼は反応しない。
聞く耳を持つつもりはないようだ。
「――――」
怪我が治っても4号館に戻りたくないというのは菜乃花の我儘であって、総司に付き合う義理はない。
庶民の菜乃花を0号館に招いた時点で総司は無理を通しているのだ。だから。
(これ以上なんて、望んじゃダメなのに)
止めるべきだとわかっているのに、菜乃花の手を握る千影の手の力強さが、普段より大きめの歩幅が、菜乃花の口を閉じさせる。
(……ずるい。こんなの、抗えるわけない……)
千影の手の温もりが、彼の優しさが、菜乃花の視界を歪ませる。
菜乃花はもう何も言えず、千影に手を引かれるまま、濡れた目を何度も拭った。
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