13:お別れまでのカウントダウン

 六月の第三週、月曜日。

 朝の7時10分、菜乃花はいつものようにスマホのアラーム音で目を覚ました。

 半覚醒状態で手を動かし、アンティーク風のサイドチェストに置いていたスマホを掴んでアラームを解除する。


 眠気に負けてスマホを枕元に置き、目を閉じる。

 館の外から雨の音がした。


 先週、気象庁が梅雨入りを宣言したが、今日も雨らしい。


「………………」

 雨の音を聞きながら、菜乃花は右手首を触った。


 これは毎朝の習慣だ。

 寝る前、朝起きたとき。

 怪我が治っていないかどうか、菜乃花は毎日確かめている。


 もう大げさに包帯は巻いていないが、代わりにサポーターを嵌めている右手首を左手で揉む。


 まだ少し痛い。

 でも、強く揉まなければ痛くはないし、もうほとんど治りかけだ。


 全治二週間という見立てに誤りはなく、あと数日もあれば完治するだろう。

 完治、してしまうだろう。


(……ああ。嫌だ)

 治らなければいい、そんなことを思う自分が嫌で、左腕で目元を覆い、唇を噛む。


(千影くんがどれだけ気に病んでるか、知ってるくせに……)


 部屋の扉が三回ノックされた。

 ベッドでうだうだ考えている間に7時15分になり、杏が起こしに来たらしい。


「園田さん。おはよう。開けるわよ」

「うん、どうぞ」

 菜乃花は上体を起こし、ベッドから下りた。


 スリッパを履いて隣の部屋に行くと、ちょうどメイド姿の杏が入ってきた。


「私が起こしに行くまで眠っていていいのに。主人を起こすのはメイドの仕事よ? 私から仕事を奪わないでちょうだい」

 杏は部屋のカーテンを開け、手早くタッセルでまとめた。

 空は灰色の雲に一面覆われ、雨粒がガラス窓を叩いている。


「仕事なら楽できたほうがいいでしょ?」

 菜乃花は軽口を叩いて勉強机に座った。


 この部屋に身支度を整えるための化粧台はない。

 それでも、言えば用意してくれそうなのが怖いが。


「今日も雨ね」

 菜乃花の愛用している櫛を手に取り、杏が言う。


「そうだね。でも、雨は好き。出かける用事がなければ、の話だけど。雨音って聞いてると落ち着くよね」

「土砂降りでも?」

「意地悪言わない。土砂降りや嵐のときは例外です」

 他愛ない話をしながら、杏は菜乃花の髪を丁寧に梳かした。


 これもまた毎朝のことだ。

 菜乃花が利き腕を痛めているから、杏は甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれる。


「どうしたの? 痛い?」

 菜乃花が右手首を触っていることに目ざとく気づき、杏が髪を梳く手を止めた。


「ううん、痛くないよ。もうサポーターだって要らないんじゃないかなってくらい」

「駄目よ。治りかけのときに無理して悪化するのが一番怖いんだから。完治するまで外さないで」


「うん。でも……悪化してもいいかな、なんて思ったり……しちゃいけないのはわかってるんだけどね」

 目だけ動かして窓の外を見る。

 水滴がガラスに当たって滑り落ち、まるで泣いているかのようだ。


「気持ちはわかるわ」

 縁起でもないと怒られるかと思いきや、メイドでもあり友人でもある杏は理解を示してくれた。


「二週間の期限まで、今日を含めてあと三日。木曜日になったら、園田さんは4号館に戻るんでしょう? せっかく他の人たちと仲良くなれたのにね」

「……うん」

 彼らと過ごした十三日、色んなことがあった。


(0号館に来た初日で天坂先輩の部屋に乗り込んだな……懐かしい。いま考えても、あのときの自分は怖いもの知らずだったわ)


 というのも、仲良くなった後、有紗に聞いたのだが、0号館には三年生も住んでいたらしい。

 しかし、四月に行われた寮の新入生歓迎会で、調子に乗った三年生が総司の前で千影を侮辱したため、翌日には退寮させられたのだという。


(本当に、私も一歩間違えれば退学させられてたかもしれないな……そうならなくて良かった。まあ、千影くんに『ありがとう』って言われたし、千影くんって呼べるようになったから結果オーライね。あの後も毎日千影くんに勉強を教えて、有紗に冷たくされて凹んで……でも、杏ちゃんが背中を押してくれたおかげで、有紗とも仲良くなれた。有紗と仲良くなってからは、いままでは遠慮して、なるべく部屋で過ごすようにしてたけど、夕食後は大広間で過ごすようになった。嫌がられるかなってドキドキしたけど、意外とみんな優しかった。みんなが優しくしてくれたから、私も心から笑えるようになった。土曜日は楽しかったな)


 土曜日、菜乃花は寮の皆と大広間で映画を見た。


 大広間には大きな4Kテレビと本格的なサウンド機材があり、よく大河がゲームしている。


 最初は「明るいラブコメを見よう」という話だったはずなのに、何故か上映された映画はホラーで、大河に無理やり見せられた千影や有紗は怯えていた。


 実を言うと映画の内容よりも千影や有紗の反応こそ見ていて楽しかった。

 寮ではたくさん美味しいものを食べたが、皆でつまんだピザやスナック菓子、飲んだ炭酸飲料は格別に美味しかった。


 友達になってから、有紗はよく話してくれるようになった。

 家庭教師のほうも順調で、千影は菜乃花が出した課題をきちんとこなしてくれるし、予習復習の癖をつけたようだ。


 社交的な大河は菜乃花が何もしなくても向こうから寄ってくるし、総司とも普通に話すことができる。


 有紗がいると猫被って「ぼく」とか言うのがおかしくて、笑いそうになったら睨まれた。


 つまり――全部ひっくるめて。


「……楽しいのにな。あと三日で夢から覚めなきゃいけないんだ」


 菜乃花が0号館に住んでいるのは、ひとときの夢のようなものだ。

 ふかふかのベッドも、豪華な部屋も、聞いたことのない横文字の料理も、杏のような専属メイドも、本来は全く縁がない。


 4号館の狭い二人部屋で、ルームメイトに気を遣いながら勉強に打ち込む灰色の日々。それが菜乃花の高校生活だった。


「そんなこと言わないでよ。0号館から出たって、私たちは友達でしょう?」

 杏はまた髪を梳かし始めた。

 これまでよりもずっと、優しい手つきで。


「うん……そうだね」

 口ではそう言ったけれど、でも。


(でも、杏ちゃんとはクラスが違うし。会う機会もなくなっちゃうよ。天坂先輩や乾先輩だって、学校じゃ昼休憩くらいにしか会わないし、会ったって挨拶してくれるかどうか。二人とも人気者だもの。私のことなんかすぐに忘れるに決まってる)

 鼻の奥がつんとなり、菜乃花は鼻の下を指で擦った。


「クラスには江波さんがいるじゃない。もう独りぼっちじゃないんだから、元気出して。そうだ、千影様の教師役はどうするの?」

「図書館の会議室を借りられたらいいなって思ってる。それが無理なら空き教室を探すか、図書館の自習スペースを使って、筆談で勉強を教えるつもり」

「なら、千影様と縁が切れるわけじゃないのね。良かった。私、園田さんの恋を応援してるんだから。0号館を出ても頑張ってよ」

「うん、頑張るね。ありがとう」

 両サイドの髪が引っ張られた。

 痛くはないが、これまでなかった彼女の動きに違和感を覚えて、菜乃花は聞いた。


「何してるの?」

「元気がないみたいだから、リボンでも結んであげようかと。たまにはヘアチェンも良いでしょう。ほら、できた。可愛い」

 杏は手鏡を渡してきた。

 左手で手鏡を持ち、自分の姿を映してみれば、両サイドの髪がひと房編み込まれ、パステルピンクのリボンが結われている。


「……うん、可愛いね。ありがとう」

 杏の気遣いが嬉しくて、菜乃花は微笑んだ。

 でも、遠くない別れを思うと寂しくて、うまく笑えたかどうか自信はなかった。

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