10:君に内緒話をひとつ

「――全くもう! 悪いことは言わないから、園田さんとはこれ以上付き合わないほうがいいよ! 天坂くんの品位まで疑われかねない!」

「ごめん。本当にごめん、琴原さん」

 何の罪もない千影が平謝りしている。

 ここで口を挟めば彼の努力が無になってしまうため、菜乃花は彼の隣で黙し、ひたすら反省している態度を貫いた。


「ええ、今回は天坂くんに免じて許してあげる! 今回だけだからね! 次は遠慮なく先生に訴えるから! 二度と近づいて来ないで!」

 手櫛でいくらか整えたとはいえ、まだ乱れたままの長い髪を翻し、音羽は階段を上っていった。


「………………」

 彼女が階段を上り切り、一階の廊下からは完全に見えなくなったところで、千影は息を吐いた。


 疲れと安堵が入り混じったようなため息に、菜乃花はびくりと肩を揺らした。


「……園田さん」

「はい。すみませんでした。ついカッとなってしまい、ご迷惑をお掛けしてしまいました」

 身体を小さくして、深く頭を下げる。


 あれから十分後。

 昼食の後片付けを終えて教室に戻ろうとしていた千影は、上履きのまま外に出て激しく言い合う菜乃花たちの姿を見て、慌てて仲裁に入ってきた。


 当然のことだが、音羽は菜乃花の暴挙に怒り狂った。

 先生に暴行されたって訴えてやる、注意で済めば良いが下手をしたら停学、そうなれば特待生資格は取り消しだ、さあどうする――とまで言われたら、さすがに謝らないわけにはいかず、不本意ながら菜乃花は謝った。


 千影が一緒に謝ってくれたおかげで音羽は怒りを鎮め、去った。

 なんとか無事に一件落着、というわけだが――


(私の馬鹿私のアホ単細胞……)

 自己嫌悪の感情に押し潰されそうになりながら、菜乃花はひたすら己を罵った。

 千影が元カノに謝る羽目になったのは菜乃花のせいだ。


 千影は音羽と顔を合わせたくもなかったはずなのに、一時の激情に負けて、とんでもない迷惑をかけてしまった。


「……なんであんなことしたんだ?」

 陽の光が差し込む廊下で、千影が静かに尋ねてきた。


「それは……」

 返答に窮し、顔を上げることもできない。


「……俺と琴原さんが以前付き合ってて、琴原さんが兄貴を好きになった。それを聞いて怒った?」

「……そう」

「なんで園田さんが怒るんだ……友達想いが過ぎるだろ」

 千影の声には呆れているような、苦笑しているような、複雑な感情が籠っている。


(だから、ただの友達だったらここまで怒らないんですってば)

 音羽は「いくら天坂くんのことを好きだからってやりすぎでしょう!」と、千影の前できっぱりはっきり暴露してくれたのだが、千影は「だから俺たちは友達なんだって」と、全く気に留めなかった。


 ひたすら怒っていた音羽も、あのときばかりは呆れ、菜乃花に同情の一瞥を投げてきた。


「兄貴を好きになったから別れて欲しいって言われたときはショックだったけどさ。琴原さんは正直にそう伝えてくれたし、ちゃんと『ごめん』って謝って、頭を下げて、筋を通してくれた。兄貴が好きなら俺を利用して近づくこともできたのに、琴原さんはそうはしなかった。自分の気持ちに素直で、まっすぐな、いい人なんだよ。そういう人だから好きになったんだ」

 好き。

 他人に向けられた言葉が、棘のように胸に刺さる。


『友達』という線引きがされた菜乃花には、欲しくても貰えない言葉。


「キツイこと言うようだけど。俺が納得してるんだから、園田さんがどうこう言うのはおかしいだろ。本当に特待生資格を取り消されたらどうするんだ。もう二度とこんなことしないで」

「……うん。ごめん……」

 返す言葉もなく、菜乃花はますます深く俯いた。


 何も言えない。

 身体が重くて、指一本動かす気力も沸かない。


(……そっか。そうだよね。私は本当に馬鹿なんだな……友達想いが過ぎるって、つまり『重い』ってことじゃない……千影くんは優しいからはっきり言えないだけで、私の行動は迷惑でしかなかったんだ。琴原さんにも悪いことしちゃったな。彼女だって、酷いことしたと自覚してるからこそ私によろしくねって頼んできたのに、ブチ切れて襲い掛かっちゃったよ……こいつ何なんだって思っただろうし、怒るのも当然だわ……さっきは渋々謝ったけど、今度会ったらちゃんと謝ろう……)

 うまく働かない頭の片隅でそんなことを考える。


 千影が無意味な停滞に飽きて、そろそろ行こうと言い出すことを待つ。

 ぼうっと突っ立って、どれくらいの時間が立っただろうか。


「兄貴のファンが大勢いるの、知ってるだろ」

 いきなり、千影がそんなことを言った。


「? うん」

 何を言い出すのかわからず、菜乃花は顔を上げた。


「五桜だけじゃなくて、他の学校にまでファンがいるんだ。文化祭では兄貴のファンが押し寄せるし、体育祭では兄貴が活躍するたびに黄色い歓声が飛ぶ。何をしたってどこにいたって兄貴は人気者で、琴原さんだけに兄貴を好きになるなって言うのは無理なんだよ。だって、俺と兄貴を比べたら、百人が百人とも兄貴のほうが魅力的だって言うからな」

「そんなことないよ。私は千影くんのほうが好き」

「ありがとう」

 こういう言葉を口にするとき、菜乃花はいつだって大真面目だというのに、千影は取り合わない。

 彼の表情筋は無で固定されたままだ。


(これお世辞だと思ってるやつだわ)


 それだけ彼は家族から周囲の人間から「お前は兄に劣っている」と言われ続けてきたのだと思うとやるせない気持ちになる。


「私は本気だよ?」

「うん。園田さんって本当に優しいよな」

 全く心に響いた様子はなく、千影は実にあっさりと頷いた。


「だから本気なんだって――」

「琴原さんが兄貴を好きになるのはわかるよ。俺だって、悔しいしムカつくけど、兄貴は格好良いと思うから。なんでもできる完璧人間だし」

(スルーされた!! もう付き合うの面倒くさいって思われた!!)


「琴原さんが兄貴を好きになるのは仕方ない。頭ではわかってたし、納得したんだ。琴原さんのことは恨んでない。話したくなかったのは、どんな顔をすればいいのかわからなくて、気まずかっただけ」

 話しながら、千影は一歩距離を詰めてきた。

 一歩。さらにもう一歩。


(……ちょっと近すぎじゃない?)

 その気になればキスすらできる至近距離だ。

 これは一体どうしたことなのかと、菜乃花は酷く狼狽した。


「そうなんだ……」

(さりげなく一歩引く? でもそしたら傷つく?)

 もはや会話の内容など頭に入って来ず、困っている間に、千影はふと微笑んで。


「――だから、これは内緒で」

 そう言って、彼は声を潜め、耳打ちしてきた。


「山姥みたいに髪がぐしゃぐしゃになった琴原さんを見て、ちょっと胸がスッとした」

「…………!!」

 耳元で囁かれた言葉と、耳をくすぐる吐息に、菜乃花の耳が熱くなった。


 熱は耳からたちまち全身へと広がって、身体中が燃えるよう。

 菜乃花が棒立ちになっていると、千影は顔を引いて、普通の声量で言った。


「恨んではないけど、それでもやっぱり、どこかで引っ掛かってたというか。モヤモヤしてたんだろうな。俺のために怒ってくれて、ありがとう」

 千影は屈託のない、明るい笑顔を浮かべた。


「………………」

 彼にしては珍しいほどの晴れやかな笑顔を見て、菜乃花は知った。


(――私、間違ってなかったんだ)

 千影は音羽のことを恨んでいないと言ったが、恋人が兄を好きになったとなれば、傷つかないわけがない。


 それでも千影は理性で感情に蓋をして、彼女を許し、ただ黙って二次元の世界へと逃避した。

 もしも彼の理性が働かなければ「ふざけんな」と怒鳴るくらいはしていたかもしれない。


 そして、それを実際にやったのが菜乃花だ。

 千影が菜乃花を諫めたのは、菜乃花が不利益を被ることを危惧して。

 彼は純粋に、先生方に暴力沙汰だと認定されたら大変なことになると、菜乃花の身を案じてくれたのだ。


『友達想いが過ぎる』というのも、苦言ではない。誉め言葉だ。


 ――だって、彼の笑顔がそう言っている。


「いいえ、どういたしまして。千影くんの胸のモヤモヤを晴らすことができたなら何よりです」

 菜乃花は応じて、心から笑った。


 もしまた音羽に会うことがあっても、謝らないでおこう。

 たったいま、そう決めた。

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