08:多大なコンプレックス
二日後、金曜日。昼休憩中。
四限目の授業が少し長引いたため、菜乃花は心持ち急いで食堂へ行った。
(昨日は千影くんの周りの席が埋まっちゃってて喋れなかったけど。今日は一緒に食べられたらいいな)
普段の学校生活において、クラスの異なる千影と菜乃花が接触するチャンスは昼休憩くらいしかない。
寮では家庭教師を行っているし、話す機会を作ろうと思えばいくらでも作れるのだが、どうせなら学校でも会いたい。
一秒でも長く一緒にいたいし、彼のことをもっと良く知りたい。
(杏ちゃんも「千影様は二次元の彼女で満足してしまっているのだから、自分から攻めない限り永遠の片思いで終わってしまうわよ。振り向いてほしいなら、まずは三次元の女も良いものだと思って頂くこと。作戦はずばり『ガンガンいこうぜ』よ」って言ってたしな)
昨日の夜、部屋でそう言われたときは杏が某有名RPG好きだと察し、恋愛相談よりもむしろゲーム話で盛り上がってしまったが、それはまあ余談である。
開いたままの扉を抜け、食欲を刺激する匂いが立ち込める食堂に入るや否や、菜乃花は千影の姿を探した。
広い食堂はほとんどが埋まり、生徒たちの喋る声で実に賑やかだ。
誰とも会話することなく一人で静かに食事している者は少数派だが、今日も千影はその少数派に属していた。
(あ。いた)
菜乃花の立っている場所からだと、千影の身体は大半が観葉植物の陰に隠れている。
それでも、少しだけ見える頭と肩のラインで彼だと断定できた。
彼の向かいの席も、右隣の席も空いている。
(やった! チャンス!)
菜乃花は意気揚々と食堂のカウンターに行った。
バッジを見せ、食券も買うことなく目当ての日替わり定食を手に入れる。
今日の日替わり定食はサラダとわかめスープ、ハンバーグ、学園食堂製の豆腐、きんぴらごぼう、ほうれん草の卵和え、酢のもの、ナスの揚げびたし。
毎度のことながら、無料で食べているのが申し訳なくなるくらいのハイクオリティな和食である。
冷水機が置かれたコーナーでコップに水を汲み、菜乃花は痛みを堪えて両手でトレーを持ち、千影の元へ行った。
「千影くん。前、座ってもいい?」
「ああ。どうぞ……。手、大丈夫?」
「うん。まだちょっと痛いけど、初日に比べればかなりマシだよ」
テーブルにトレーを置き、椅子を引いて座る。
千影の前にはイチゴ牛乳のパックと、空になった何かの包みが置いてあった。
購買で買ってきたのか、千影はカレーパンを頬張っている。
美味しいのか不味いのかよくわからない、なんとも複雑な表情で。
「いただきます……あれ? そのカレーパンって、水曜日限定販売のやつじゃない? 金曜日にも販売することになったの?」
氷が浮かんだ冷たい水を一口飲んでからフォークを手に持ち、いざ食べようとしたところで気づいた。
「いや、購買では売ってない。これは昼前に、クラスメイトを通じて兄貴から渡された。使用人に命じて仕入れ先のパン屋まで出来立てを買いに行かせたらしい。俺が好きなカスクートとクロワッサンのおまけつきで……兄貴って本当兄貴だよな。こんなにあっさり手に入れられたら、俺が園田さんを怪我させた意味って一体……しかも、来週からは毎日購買にこのパン屋の商品が並ぶことになったよ。十分な量を確保したから購入制限もないんだとさ」
「さすが天坂先輩。購買が取り扱う商品の内容すら変えてしまうんだね」
(おとつい、千影くんがカレーパンを食べたくて全力疾走したって話を聞いた直後にパン屋さんに赴いて交渉したんだろうなあ……本当に弟が好きなんだなあ……)
感心しながら、二階の席に総司を探す。
総司は大勢の生徒に取り囲まれて歓談している。
座っていてもなお美しく伸びた背筋、口元に浮かぶ微笑、柔らかな物腰、上品な仕草。
学校での彼は誰もが憧れる理想的で完璧な王子そのものだ。
素を知っている者は一握りだけで、自分もその一人だと思うと、少々誇らしく、嬉しかったりする。
「美味しい?」
「……美味しい。悔しいけど。カスクートもクロワッサンも、いままで食べたことがないくらい美味しかった」
眉間に皺を寄せながら、千影はカレーパンの最後の一かけらを頬張った。
「美味しいって言って食べてもらえるのが、パン屋さんも一番嬉しいと思うよ。お兄さんからの愛だと思って、素直に受け取りましょう」
冗談めかして言い、湯気が立ち上ったスープを飲んで白米を頬張る。
左手にフォークを持ってハンバーグを切り裂く。
ハンバーグに弾力があるせいか、うまく切り裂けない。
綺麗な俵型のハンバーグの端が潰れ、ぐちゃぐちゃになってしまった。
「良かったら、切ろうか?」
見かねたらしく、一足先に食事を終えた千影が言った。
「いいの? ありがとう。助かる」
「いや。俺のせいだし」
「それは言わない約束でしょ」
「うん。そう言うとは思ってたけど、話の流れで言わずにはいられなかった。貸して」
千影はハンバーグが乗っている皿を取り上げ、ナイフとフォークを使って食べやすいように切り分けてくれた。
「はい」
作業を終え、千影は皿の端にナイフとフォークを乗せてトレーに戻した。
「ありがとう」
フォークを刺して、ハンバーグを一口食べる。
「うん。美味しい。千影くんが切ってくれたおかげかな」
調子に乗ってそんなことを言ってみると、
「そんな馬鹿な」
冷静に言われた。
千影の頬はぴくりともせず、照れる気配は全くない――わかってはいたことだが。
(千影くんって無表情が素だから、何を考えてるのかちょっとわかりにくいんだよね。長い前髪で目が隠れてるから、余計に怖い、というか。暗い、というか。イメチェンする気ないかなあ……でもイメチェンしたら周りの評価ががらっと変わって、女子にモテまくっちゃうかも……と思うと、言い出せず。ううう。ジレンマ)
しばらく無言の時間が続いた。
千影は菜乃花の食事が終わるまで付き合ってくれるつもりらしく、席を立とうとしない。
ただぼうっとしている。
「千影くんは甘い飲み物が好きなんだ?」
イチゴ牛乳のパックを見て、菜乃花は尋ねた。
途端に、千影が苦々しい顔つきへ変わる。
(……あれ? なんか地雷踏んだ?)
ハンバーグを咀嚼しながら冷汗を掻いていると、千影が拗ねたような調子で言った。
「ダサいって言いたいんだろ。わかってるよ。甘いものが好きで、辛いのも苦いのも苦手で、寿司のワサビもダメで悪かったな。どうせ俺は兄貴と違ってブラックコーヒーも飲めませんよ」
(口調が! 完全にいじけている!!)
「いやいや悪くないよ!? 悪いなんて一言も言ってないじゃない! なんで、誰かにそんなこと言われたの?」
千影は何も言わなかった。それが答えだった。
上品な味付けのきんぴらごぼうを食べ、わかめスープを飲む。
菜乃花がスープを飲み干すほどの時間が経過して、やっと千影は口を開いた。
「中等部のとき、兄貴がカフェテリアのテラス席で読書しながらブラックコーヒーを飲んでたことがある」
「うん」
ハンバーグが口に入っているので、菜乃花は相槌だけ打ち、夢想した。
季節は春だろうか。
降り注ぐ陽光を浴び、優雅に足を組んで、優しい風に吹かれながらブラックコーヒーをお供に読書する総司。
彼が読む本は外国の文学小説か、流行りのミステリー小説か。
どんな本であっても、それはそれは絵になる光景だっただろう。
「ただブラックコーヒーを飲んでるだけだっていうのに、それを見つめる女子たちの熱い視線ときたら。教室でイチゴ牛乳を飲んでるだけなのに、それを見つめる女子の冷たい視線ときたら。男子がイチゴ牛乳を飲むのはダメらしいと察し、俺はその反省を活かして、翌日はブラックコーヒーを飲んだ。そしたら『見てあれ無理しちゃって。格好つけちゃって、ダッサー』ときた。何なんだ俺はどうすれば良かったんだおとなしくカフェオレでも飲んでおけば良かったのか……」
千影はテーブルに両肘をつき、組んだ手に自分の額を押し付けた。
「顔か? やっぱり顔なのか? 兄貴にはどうやっても勝てないのか?」
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